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【第六幕 泥中の香雪蘭】

「――なあ、ちょっとええかな」

 佳境に入ってきたあたりで、小杜子が一旦話を止めて、疑問を告げた。

「やっぱり、犯人はもう出とるんよね? まさか顔も名前も出とらんモブとか、ヴァン・ダインに喧嘩を売るオチとちゃうよね?」

 それに和樹が答えるのよりも早く、ヒカリが不思議そうな顔で口を開く。

「えっ、プラモメーカーは関係ないでしょ?」

「それはバンダイやがな」

「間違えた、オーラ戦士の方ね」

「それはダンバインやがな」

 素でボケた親友の平らな胸に、小杜子は嬉しそうにツッコミをかます。

 和樹としては、女の子だと普通は分からないこのボケに、小杜子がどうして反応出来たのかが気になったが、どうせ「ヒカリちゃんの趣味は全部把握しとるに決まってるやん♪」と言うのだろうと思い、追求せず従妹に解説した。

「ヴァン・ダインって推理小説家が提唱した、二十個ある規則の事だよ。その中に『探偵小説の犯人は、物語の中に重要な役で登場していなければならない』って感じの事が書いてあるんだ」

 最後の最後に知らない人物が突然出てきて、「私が犯人だ!」と宣言しても、ちっとも盛り上がらないので禁止にしようという事だ。

「他にも『手掛かりは全て出す事』とか『プロの犯罪者は禁止』とか、色々あるんだよ」

 あえてそれらを破った名作も多々あるので、絶対に禁止という訳ではないが、読者のためには守った方が、フェアなゲームになるという規範だ。

「そやから、犯人はもう出とるし、推理する材料は揃っとるんよね?」

「別に推理ゲームをしてた訳じゃないんだけど……いや、ある意味そうなのかな」

 意外と探偵小説が好きなのか、目をキラキラさせて詰め寄ってきた小杜子の発言を、和樹は一度否定したあと、思い直して肯定した。

「神様のイタズラというより、これこそがメリーさんの能力だったと考えるべきかな。僕は犯人に出会っていたんだよね」

 電話口の少女に取り憑かれた和樹が、偶然犯人と出会ったのではない。

 犯人と出会い、その正体を暴ける立場に居たからこそ、取り憑く相手として和樹が選ばれたのだろう。

 妖怪の存在を否定せず、協力してくれて、かつ捜査能力も有している。

 そんな都合の良い人物が選ばれたのが、全て偶然という事もあるまい。

「メリーさんというより、『メリーさんの電話』を生み出した世界のシステムに、僕が引っ掛かったからこそ、あそこでぬいぐるみを拾って縁が出来たのかな。そうすると、彼女の祖父がぬいぐるみを捨てたのも偶然じゃなく、『魔が差す』とでも言うべき、無意識への干渉を受けて――って、ごめん、話が逸れたね」

「それはそれで興味深い話やけど、ヒカリちゃんのためを思うなら、また今度にしといて」

「うぅ、頭が……」

 ややこしい話を聞いて知恵熱を出し、苦しみだしたヒカリを見て、小杜子は話を戻すよう頼み、和樹も苦笑しながら頷いた。

「ともかく、犯人はもう出ているし、推理材料も揃っていると思うよ」

 そう告げると、小杜子は暫し考え込んだ後、閃いた顔で叫んだ。

「分かった、メリーちゃんの両親やろ!」

「どこをどう考えたら、そこに辿り着く訳?」

「多額の借金を払うために、メリーちゃんに保険金を掛けて、事故に見せかけて殺したんよ」

「そんな酷い真相だったら、僕もメリーさんも今ここに居ないよ」

「でな、また金に困って、今度は妹ちゃんを殺そうと企むんよ」

「他人事だったら、面白いストーリー展開だね」

「そこを影森君が助けて一件落着。妹ちゃんにも惚れられて、ロリ姉妹丼が完成って寸法やん!」

「やっぱり、僕を亡き者にしようと企んでいない?」

 全て小杜子の妄想なのに、本気にした実妹と従妹から殺気が吹き付けてきて、和樹は冷や汗を掻きながら溜息を吐いた。

 そんな兄に、亜璃沙は疑わしそうな目を向け尋ねる。

「……じゃあ犯人、誰?」

「これからそれを話すんだけど――まぁ、一番怪しかった人物がそうだよ」

 そう前置きし、和樹はこの暗い物語を終えるため、再び語り始めた。


               ◇


 火乃華に黒いセダンの割り出しを頼んだ後、やれる事もなかった和樹は、家事をする以外は殆ど、自室で座り込んでいた。

 電話口の少女が籠もっている部屋の方に背を向け、残された時間を惜しむように、とりとめのない事を考え続ける。

(最後に一回くらい、ヒカリちゃんの顔を見ておきたかったな……)

 傷害罪で捕まったりしたら、正義の味方を志す従妹には、もう合わす顔もない。

 そんな事を考える内に時間は過ぎ、三日目の夕方、和樹は冷蔵庫を開けて眉をしかめた。

「肉と卵が切れたか……」

 野菜は残っていたが、それを料理して出した所で、ただでさえ食欲の減っている変食家は、一口も食べてはくれまい。

 そう思い、和樹は財布を手に玄関を出た。

 自転車を買うの忘れていたな――とも思いながら、スーパーに向けて歩き出す。

 そうして、人気のない道に入った所で、背後から車のエンジン音が響いてきた。

 マフラーを改造しているのか、妙に響くその音を、物思いに拭けていた和樹は特に注意する事もなかった。

 だが、その音を出していたワゴン車は、彼の横に来た所で急に停止し、後部扉が勢いよく開いて、そこから現れた人物が和樹の手を掴んで引っ張った。

「……えっ?」

 不意をつかれた少年の軽い体は、抵抗する間もなく後部座席に押し込められ、そのままワゴン車は急発進した。

(これって、誘拐?)

 困惑しながら顔を上げた和樹を、車に乗っていた厳つい顔の青年達が見下ろしてくる。

「こいつで間違いないか?」

「あぁ、間違いないさ」

 彼を引きずり込んだ青年が尋ねると、助手席に座った青年が、振り返りもせずに厚紙を投げて寄こした。

 それは、部屋に居る和樹の姿を、望遠カメラで撮った写真だった。

(完全に僕を狙った犯行か……でも、何故?)

 思いつく事といえば、彼が最強の退魔師・影森千枝の息子である事くらい。

(僕を材料に母さんを脅迫して、影森家当主の座を奪おうとしているとか?)

 有り得ない話でもないが、そう考えるには、和樹を攫った青年達から、退魔師の関係者という雰囲気が窺えない。

 髪を金色に染めて、派手な刺繍の入ったジャケットを着た彼らは、何処にでも居る不良といった感じだ。

 そう黙って推測を続ける和樹を、怯えて声も出ないと思ったのか、青年達はせせら笑う。

「あーぁ、こんなに怯えちまって。頼むから小便は垂らさないでくれよ」

「こんなガキを攫うなんて、マジで胸が痛いわ」

 心にもない事を言って、ゲラゲラと下品に笑う青年達は、攫った少年に事情を話す事もなく、ただ車を走らせ続けた。

 そして、大場菜市の外れにある峠道の手前まできて、ようやく停車した。

「おら、さっさと降りろよ」

 手荒に車から引き下ろされた和樹が見たのは、半分廃墟と化した元喫茶店。

 駐車場には既に車が何台か停まっており、煙草を吹かしながら待っていた青年達が、生け贄の到着を知って嗜虐的に顔を歪めた。

 そして、電気も通っておらず、薄暗い建物の中に連れ込んだ所で、彼らはようやくまともに話し始めた。

「汚い所で悪いが、まあ楽にしな」

 助手席に座っていた、一際体格の良いリーダーらしき男が、置いてあったランプに火を灯しながら、床に投げ出された和樹に話し掛ける。

 淡い光で照らされた元喫茶店には、雑誌やゴミ屑が散乱しており、彼らが溜まり場として頻繁に使っている事を示していた。

「別に恨みはないし、むしろこういうのは気が進まねえんだが、お前が気に入らないって奴に沢山積まれちまってね」

 そう言いながら、リーダー格の青年は親指と人差し指で丸を作った。

(お金で頼まれって事か……でも、誰に?)

 疑問を浮かべる和樹を見て、青年は喉を鳴らして笑う。

「くくっ、よく分からんが、お前みたいなガキが探偵ゴッコをしているのは目障りなんだとよ」

「なっ……!?」

 驚愕の声を上げながら、和樹は理解する。

 自分が攫われたのは、十四年前の交通事故を探っていたからなのだと。

(なら、この人達に頼んだのは、その犯人としか思えないけど――)

 けれど、犯人は何故、和樹があの事件を今更、調べ回っている事を知り得たのか。

(それに、もうとっくに時効を向かえているのに、どうして僕の邪魔をする?)

 和樹が犯人を突き止めても、もう司法の罰を与える事は不可能なのだ。

 私的な復讐をされると思ったから?

 その考えは正しい。和樹は妖怪少女の代わりに、この手を汚すつもりだったのだから。

 しかし、彼は一見、事故で亡くなった少女とは無関係な赤の他人だ。

 犯人がそこまで、和樹と彼女の関係性を熟知しているとは思えない。

(なら、スキャンダルを恐れた?)

 例え法的に罰せられる事がなくとも、人を轢き殺していたという事実が露見すれば、世間から冷たい目を向けられるのは必然だ。

 それを恐れ、和樹に捜査を諦めさせるため、金で雇った不良達を使って、暴力による口封じを企んだ。これが真相で間違いあるまい。

 黙ってそう推理していた和樹を、やはり恐怖で凍り付いていると勘違いし、リーダ格の青年は凶悪な笑みを浮かべて宣告を下す。

「そんな訳で、お遊びを諦めたくなるくらい、適当に痛めつけられてくれや」

 彼がソファーに腰を下ろしたのを合図に、十人ほど居る手下の中から、特に若い二人が前に出た。

「安心しな、手足の二、三本で許してやるからよ」

「ナースのお姉ちゃんに優しくして貰えるんだ、安いもんだろうがよっ!」

 青年の一人が勝手な事を言いながら、床に座り込んだ少年の顔面に、容赦なく蹴りを見舞う。

 彼らは『(レッ)(ド・)(グリ)(フォン)』と名乗っている自称・走り屋集団で、その実体は恐喝や暴行を平然と行う不良グループだった。

 喧嘩慣れした彼らは、小学校を卒業したばかりの子供を恐れる筈もなく、また情けを掛ける事もなかった。

 身長が三十㎝以上も違う青年の蹴りを、和樹は両腕で受け止めたが、そのまま吹き飛ばされて、汚い床の上を転がった。

「生意気にガードしやがったか、痛みが長引くだけだぜ?」

 少年の儚い抵抗をあざ笑いながら、青年はその後を追おうと、蹴り上げた足を下ろし――床を踏み損ねて転んだ。

「あははっ、何やってんだよお前!」

「痛てぇ! くそっ、何が――」

 仲間から嘲笑を浴びながら、青年は空き瓶でも踏んだのかと思い、足下に視線を動かし、そこに信じられないものを見て絶句した。

 少年を蹴った足首が、真横に九十度以上、有り得ない方向に曲がっていたのだ。

「ひっ……ひあああぁぁぁ―――っ!」

 遅れて襲ってきた激痛に、青年は悲鳴を上げて転げ回る。

 仲間達は一瞬、彼の身に何が起こったのか分からず、呆然と立ち尽くす。

 その隙に、蹴り飛ばされた和樹は立ち上がり、床に転がっていた空き瓶を掴んで投げた。

 狙いは違わず、薄暗い建物の中で唯一の光源である、ランプを打ち砕いた。

「な、何だっ!?」

「くそっ、何も見えねえ!」

 窓も板で全て塞がれ、隙間から淡い残照が僅かに差すだけの元喫茶店は、一瞬で暗闇に包まれ、不良青年達は取り乱して灯りを探そうとする。

 そう混乱する彼らを余所に、闇の中で怪異と戦う術を教え込まれた少年は、静かに動き出していた。

 一番近くにいた青年の股間を思い切り蹴り上げ、痛みで膝を付いたのを利用して左腕を掴み、のし掛かるように床へ叩き付ける。

 二人分の体重を受けた肩関節は、ゴリッと嫌な音を立てて外れ、骨折と何ら変わらない激痛を生んだ。

「ぎゃあぁぁぁ―――っ! 腕が、腕があぁーっ!」

「た、剛史、何があ――ひっ!」

 暗闇の中、仲間の悲鳴を聞きつけて、勇敢にも助けようと近付いてきた青年に、和樹は足をかけて転ばし、そのまま左足に掴みかかって、容赦なく足首の関節を外す。

「うわあぁぁぁ―――っ!」

「何だよ、何なんだよっ!?」

「落ち着けお前ら、ガキ一人にビビってんじゃねえ!」

 パニックを起こしかけた手下共を、リーダー格の青年が叱り付ける。

 それで冷静になられては、特殊な格闘術を学んだ少年であろうと、勝ち目は薄くなってしまう。

 だから、和樹は青年達が密集している辺りの床に、また空き瓶を拾って投げ付けた。

 闇の中、盛大な破裂音が連続して鳴り響き、何時自分が攻撃されるか分からぬ恐怖に、一人の青年がついに限界を向かえ、闇雲に拳を振り回し始めた。

「な、なめんじゃねえぞテメエ!」

「馬鹿、やめ――痛てえなコラッ!」

 同士討ちになるとも知らず、もしくは知っても怒りと恐怖を抑えきれず、青年達は闇の中で自滅していく。

 その中で、和樹はやはり静かに動き、まず逃げようと出口に向かった者から、一人一人狙いを定め、確実に関節を外して無力化していった。

「ふざけんなよ、聞いてねえぞこんなのっ!」

 リーダー格の青年は同士討ちに巻き込まれないよう、壁際まで後ずさりながら、「子供相手の簡単な仕事だ」と嘘を吐いた依頼主を恨む。

 そして、ようやくポケットのジッポライターを思い出し、取り出して灯りを付けた所で、建物の中が静まり返っている事に気付いた。

「おい、お前ら、どうしたんだよ?」

 呼び掛けても、目に映るのは床に転がり、有らぬ方向に曲がった手足を押さえて、呻き声を上げる仲間達の姿だけ。

 全滅――という単語が浮かんだ瞬間、左横からヌルッと這い寄るように影が迫ってきた。

「う、うおぉぉぉ―――っ!」

 彼は悲鳴混じりの雄叫びを上げ、咄嗟に右ストレートを影に見舞った。

 幾人もの男達をなぎ倒してきた、必殺の拳は狙い違わず、忍び寄ってきた少年の顔面に突き刺さった――かのように見えた。

 だが、和樹が拳を受けたのは、急所だらけな顔の中で一番強固な部分、額の角。

 そこを、拳で一番弱い小指にぶつけたのだから、結果は押して計るべきだろう。

「ぐおぉーっ!」

 殴った筈の拳から、骨にヒビが入ったらしい激痛が走り、リーダー格の青年は呻き声を上げて仰け反った。

 和樹も衝撃で脳を揺さぶられ、僅かにたたらを踏んだが、直ぐ体勢を整えて飛びかかった。

「ふざけんじゃねぞ!」

 流石はリーダーという所か、青年は小指の痛みを堪えて、回し蹴りを見舞う。

 和樹は避けきれず腕で受け止め、骨が軋む音を聞きながら、床を転がった。

 そして、即座に立ち上がると共に、足下に転がっていた空き缶を、青年の顔面に投げ付けた。

「――っ!?」

 空き瓶と違い、軽い缶は当たった所で大したダメージなどなかったろうが、青年は反射的に仰け反って避ける。

 その隙に和樹は走り寄り、彼の無防備な右足の指を踏み付けた。

「痛っ!」

 少年の軽い体重による踏みつけでは、致命傷になどなる筈もないが、痛みのあまり右足を浮かせてしまう。

 そうして、不安定な片足立ちになった青年の左足を、和樹は全体重をかけて蹴り払う。

 両足が宙に浮いた青年の体は受け身も取れず、背中が床に叩き付けられる。

「がは……っ!」

 呻き声を上げる青年に立ち直る間も与えず、和樹はその足首に手をかけ、仲間達と同じように容赦なく関節を外した。

「――っっっ!」

 リーダーの面子故か、青年は脂汗を流しながらも、無様な悲鳴を上げる事だけはなかった。

 そんな彼に、和樹は油断なく歩み寄り、左手を掴み上げながら言った。

「僕に捜査をやめさせるよう、貴方に頼んだのは誰ですか?」

 静かなその問いに、青年は唾を吐きかける事で応えた。

「はっ、寝言は寝て言えや」

「そうですね、ふざけるのはやめて下さい」

 あくまで不良の矜持を守ろうとする青年に、和樹は僅かに関心しつつも、容赦なく力を込め、左小指の関節を外した。

「――っ!」

「早く話してくれないと、指が全部タコみたいになっちゃいますよ?」

 優しい声でそう告げながらも、その瞳は底なし沼のように、どんどんと光を失い濁っていく。

「僕は今、凄く怒っているんですよ。貴方達に対してじゃなくて、こんな事をしてまで、犯した罪から逃れようってその依頼者にです」

 そんなにも、己の身が可愛いのか?

 もう時効で裁かれる事もなくなったくせに、世間から冷たい目で見られるという罰さえ、受けたくないと言うのか?

 罪もない少女を轢き殺して、両親や妹との幸せな生活を奪い去り、妖怪に成り果てた彼女を今も泣かしているくせに。

「貴方には悪いけど、ハッキリ言って八つ当たりです」

 そう言いながら、和樹は青年の左薬指の関節まで外してしまう。

 姿も形も見せない犯人への、ぶつけようのない憤怒を発散するために、ただ暴力に酔っているだけだと自覚しながらも。

「だから、僕が僕を抑えきれなくなる前に、話して下さいよ、ねぇ?」

 小首を傾げる少年の体から、闇よりも暗くおぞましい、黒い炎のようなモノが立ち上って見えたのは、目の錯覚だったのだろうか。

 ただ、数多の喧嘩を潜り抜けてきた青年も、初めて感じる絶望的な、まるで死神の足音のような気配に怯え、虚勢を張る気力もなくして叫んだ。

「な、名前は知らねえ……本当だ! こんなヤバイ事を頼むのに、名乗る馬鹿はいねえだろ!?」

「でも、お金を受け取ったなら、その時に顔くらい見ているでしょう。それを話して下さい」

 そう促すと、青年は思い出すように顔を伏せ、少しずつ語った。

「顔はサングラスを付けてたから分からねえ。ただ、歳は若くねえ、三十代後半くらいの男だった。でかくはないが引き締まった体格をしてて、ビシッとスーツを着ていたが、何て言うか、格闘技経験者みたいな雰囲気があるというか……」

 告げられた人相は、それだけで犯人を特定するのは不可能な、大した情報ではなかった。

 けれど、彼が頼まれたという事実から、ある程度犯人を絞り込んでいた和樹には、十分役に立った。

「そうですか、ありがとうございます」

 嘘を吐いている様子も見られなかったので、和樹はようやく怒りを抑えて、青年の左手を解放した。

 その時、まるで見計らったようなタイミングで、ポケットから着信音が響いてきた。

 開いた携帯電話の画面に写っていたのは、従姉である火乃華の名前。

 それはつまり、彼女に頼んでおいた、黒いセダンの持ち主が特定されたという事。

「はい、影森です」

『和君、遅くなったけど調べが付いたわよ』

 律儀に名乗る和樹に、火乃華は無駄な前置きをせず、端的に結果を告げた。

『該当すると思われる車の所有者は百十三名。その氏名と当時の住所が分かって、殆どは現在の住所も掴んだけど、行方の分からない者が五名ほど――』

「いや、それで十分だよ」

 詳細を語ろうとした火乃華の声を、和樹は静かに遮る。

 そして、無ければ良いと思いながらも、その名前を口にした。

「百十三人の中に――って人が居るでしょ」

『えっと……居るけど、何で?』

 従弟が何故その名前を出したのか、火乃華には分かる筈もない。

 だが、和樹が見聞きした全てを語ったなら、彼女も同じ結論に達した事だろう。

「やっぱり、そうなんだね……」

 怒りと深い失望に包まれ、和樹は暗い顔で俯いた。

 考えれば簡単な事。彼が十四年前の轢き逃げ犯を追っているのを知る者は、片手の指にも満たないのだから。

 その中で、青年の語った人相と一致する者は、たった一人しか居ない。

「ありがとう、火乃華姉さん。後は僕が――」

 そう携帯電話に向かって喋りながら、和樹はふと視線を感じて首を動かす。

 リーダー格の青年が、外された関節の痛みも忘れた様子で、こちらを見ていた。

 いや、正確には和樹の背後を見ていた。

 まるでそこに、この場には似つかわしくない、何者かが突然現れたような――

「……メリーさん?」

 和樹はゾッと寒気を感じながら、電話口に向けて話し掛けた。

 何時から居たのか、どこまで聞いていたのか。

 その問いに、電話口の少女は端的に答えた。

『――そいつが、私を殺したの』

「メリーさんっ!」

 和樹が叫ぶのと同時に、背後の気配は消え去った。

 己を殺した者に、復讐を果たすために。

「くそっ!」

 和樹は己の迂闊さを呪いながら、痛みに呻く青年達を飛び越え、真っ暗な喫茶店の扉を開け放つ。

 そうして、歩道に出て走ろうとした所で、膝を付いて倒れ込んだ。

「うっ、ぐぅ……っ!」

 震える細い足は、ズボンの下に幾つもの青アザが出来ていた。

 足だけでなく、腹や頬にだって、決して軽くない傷が刻まれていた。

 特殊な格闘術を身に付け、暗闇の混乱を利用したといっても、まだ十二歳の少年が、喧嘩慣れした青年を十人以上も相手にして、無傷で済む筈がなかったのだ。

 戦闘中の興奮と怒りが冷め、焦燥と絶望が這い上がってきた今、その傷付いた体に、もはや走るような力は残されていなかった。

「駄目だよ、このままじゃ……」

 あの子が、その手を血で汚してしまう。

 そうなれば、退魔師が討伐に乗り出すまでもなく――

「嫌だ……そんなの嫌なんだ!」

 だから、今直ぐ駆け付けて、電話口の少女を止めなければならない。

 なのに、彼の未熟な体は、痛みと疲労で一歩も進めなかった。

 市街地から外れた夜の峠道は、ろくに車通りもなく、蹲る少年のために停まってやる者は現れない。

 仮に現れたところで、ここから少女の元へ辿り着くのに、車でも何十分掛かる事か。

 それでは間に合わない。つまりもう、彼女を救う事は不可能。

「何で、どうして……っ!」

 こんな出来損ないの自分とも、普通に接してくれた彼女を、救いたかっただけなのに。

 何故、むしろ破滅に追い込むような結果を招いてしまったのか。

「僕のせいだ……」

 全ては、自分に力がなかったから。

 そう己の無力を嘆き、アスファルトを涙で濡らす和樹は、知る由もなかった。

 ここは峠道の手前。先程の不良達とは違い、純粋に速さを求める者達が、夜な夜な最速を目指して走り続ける、国道というコースのスタート地点。

 その道を、誰よりも、何よりも速く駆け抜ける、熱き老婆が存在する事を。

「坊主、男がメソメソと泣くもんじゃないよ」

 突然、しわがれた、だが力強い声が響いてくる。

 その初めて聞く声に、和樹が驚いて顔を上げると、いつの間にか目の前に、白装束を身にまとった老婆が、毅然と仁王立ちしていた。

「男が泣いていいのは、オギャアと生まれきた時と、大切な人を亡くした時だけさね」

 言いながら、老婆はシワだらけの手を和樹に向けて伸ばす。

「事情は知らないが、あんたの大切な人は、まだ死んじゃいないんだろう? まだ間に合うんだろう? なら、手足がもげようとも這って進みな。それが男ってもんだよ」

「お婆さん……」

 見ず知らずの老婆が、どうしてこんな事を言ってくれるのか、和樹には分からない。

 ただ、まだ諦めたくなくて、失いたくなくて、差し出された枯れ木のような手を掴んだ。

「よし、後は任せな」

 老婆はニヤリと笑うと、掴んだ手を引っ張り、少年の体を両手で抱き上げた。

 そして、軽く柔軟体操を始めながら問う。

「で、何処に行けばいいのさね?」

「えっ、ちょっと待って下さい」

 和樹は老婆の膂力に驚きながら、携帯電話の向こうでずっと心配していた火乃華に尋ね、ある人物の住所を教えて貰う。

 それを聞いて、老婆は白い歯を見せて笑った。

「まぁ、五分って所さね。しっかり掴まってなよ!」

 注意するのと同時に、シワだらけの足が恐ろしい力で地面を蹴り、一瞬でトップスピードまで加速した。

「いぃーっ!?」

 人を抱えたままで、易々と車を追い越していく老婆に、和樹は上がりかけた悲鳴を呑み込み、必死にしがみつきながら問うた。

「お、お婆さん、何者なんですか?」

 明らかに人間ではない、間違いなく妖怪の老婆に、恐る恐る尋ねると、彼女はまた豪快に笑って答える。

「アタイはただ、走るのが好きなだけの婆さね。まだ光速にも音速にも届かない――そう、ただのターボ婆さ」

 三年後の未来において、空を飛び、宇宙をも駆け、時の定めにさえ二本の足で挑んだ老婆と、和樹はこうして出会ったのであった。


               ◇


 宣言通りたったの五分で、街外れの峠道から市内の高級住宅街まで辿り着いたターボ婆ちゃんは、目的地の前で和樹を下ろすと、あっさりと背中を向けた。

「走るしか能のないアタイに出来るのはここまでさね。じゃあ頑張りなよ坊主」

 そう言い残して去る老婆に、和樹は深く頭を下げると、直ぐさま目の前の邸宅に駆け寄った。

 高級住宅街の一角に相応しい、庭付き一戸建ての建物。

 その中は、まだ二十一時にも満たないというのに、灯りが落ちて静まり帰っていた。

「メリーさん……」

 もう手遅れでない事を祈りながら、和樹はまだ痛む体に鞭打ち、インターホンを押す事など考えず、門を飛び越え玄関に歩み寄る。

 だが、予想通りというべきか、玄関扉は内側から鍵が掛かっていて開けられず、和樹は即座に庭へ回り、花壇のブロックを拾った。

「ごめんなさい!」

 謝りながらも躊躇せず、和樹は庭に面した窓ガラスをブロックで割り、そこから手を差し入れて鍵を開けた。

 靴を脱ぐ間も厭い、ガラス片を踏み付けて薄暗い部屋に足を踏み入れると、二つの人影が床に倒れ込んでいるのが目に入ってくる。

「――っ!?」

 遅かったのかと背筋を凍らせながら、和樹は倒れた二人の元へ走り寄る。

 だが、それは彼の予想していた人物ではなく、その親らしき老夫婦だった。

 二人の体が赤く染まっている事もなく、首に手を当ててみると脈もしっかりしている。

 どのような手段を使ったのかは分からないが、ただ気絶しているだけらしい。

 そう理解し、僅かに安堵した瞬間、上の階から何かを投げ付けるような音と共に、男の悲鳴が響いてきた。

「メリーさん!」

 和樹は彼女の名を叫び、居間から飛び出て二階への階段を上る。

 その間も、犯人の見苦しい命乞いの声が、彼の耳朶を打った。

「やめろ、やめてくれ! あれは事故だったんだ、ワザとじゃなかったんだ! 事件で忙しくて、急いでいて、死んだなんて思わなくて――」

 二階の奥から響いてくる、犯人の醜い言い訳に、和樹は歯を噛み締めながら状況を理解する。

 おそらく、刃物か何かを手にした電話口の少女から、彼は全ての事情を聞かされたのだろう。

 ただ殺すだけでは復讐にならないから。己の犯した罪の重さを、恐怖と共に味わあせなければ、彼女の怒りと悲しみは晴れないから。

 そうして、十四年前に逃げ出した罪を突き付けられ、殺した少女本人を前にしながらも、謝罪の言葉一つ告げようとしない犯人に、和樹も怒りと憎しみで胸を焦がしながら、それでも制止の言葉を叫ぶ。

「やめるんだ、メリーさん!」

 騒ぎの元である、たった一つ開け放たれた扉の横に立ち、和樹は必死に叫ぶ。

 部屋の中に踏み込み、力尽くで彼女を止めようとしなかったのは、痛みで体が鈍っていた事と、直感的に覚えた不安のため。

 怯えた声や物音から察するに、おそらく犯人は彼女の姿を目にしているのに、まだ生きている――振り返ってその姿を見たら殺されるという能力が、発動していない。

 だから、彼女の呪縛を受けているのは、まだ自分なのではないかと洞察したのだ。

 犯人さえ見付ければ、呪縛が解けて彼女を見られるようになると思っていたのは、勘違いだったのだろうか。

 そう落胆しながらも、和樹は再び制止の声を上げる。

「お願いだからやめてよ、メリーさん」

『…………』

 廊下の壁に背中を預け、耳に当てた携帯電話に向かって懇願するが、返答はなかった。

 だがそれでも、彼女が動きを止めたのを感じ、和樹は呼び掛け続けた。

「その人を――石橋警部を殺さないで」

 高級住宅街に住むエリートでありながら、十四年前に轢き逃げ事件を起こし、その知識を悪用して同僚達の捜査からも逃れきった、悪の警察官、石橋勝巳。

 彼こそが、電話口の少女を殺して、全ての悲劇を生み出した元凶だった。

「き、君は、影森君か……?」

 ようやく和樹の存在に気付いた石橋は、口封じのために不良達を使って彼を襲わせた事も忘れて、厚顔にも助けを請う。

「君は妖怪退治家なんだろう!? だったら今直ぐ、この妖怪をどうにかするんだ!」

 少年が現れた事で、目の前の妖怪少女が動きを止めたのを見て、石橋は僅かに余裕を取り戻し高圧的に命じた。

 それに、和樹は腹の底から怒鳴り声を上げる。

「あんたは黙ってろっ!」

「ひぃ……っ!」

 大人しそうに見えた少年の、殺気にまみれた怒声を浴びて、石橋は悲鳴と共に口を閉ざす。

 そうして邪魔者を黙らせた上で、和樹は電話口の少女に語り掛けた。

「殺された恨みも、妖怪になった悲しみも、僕は分かってあげられない……でもね、家族を奪われる辛さは、少しだけ分かるよ」

『…………』

 あくまで無言を貫く電話口の少女に、和樹は己の過去を再び語った。

 生まれる前に父親を失った事、そのせいで母親は仕事にかかり切りになり、一緒に居られる事が少なかった事。

「だからね、君が石橋警部を殺したい気持ちは分かる。出来る事なら、君の代わりに僕が殺したいくらいだよ」

 その言葉に嘘はない。本当ならば、彼の手で石橋を痛めつけて、彼女の溜飲を下げつつ同情を抱かせ、最悪の事態を回避しようと思っていたのだから。

 なのに、それを実行しない理由はたった一つ。

「でも駄目なんだ。だって、石橋警部を殺したら、その恨みを晴らしてしまったら――君は、消えてしまうんでしょう?」

『…………』

 その問いにも、電話口の少女は無言を貫く。

 けれど、重苦しくなった空気が、雄弁に肯定を示していた。

「火乃華姉さんから聞いたんだ。かつて、君と同じようにメリーさんとなった子が、犯人を刺した後に消えてしまったって」

 それは、都市伝説『メリーさんの電話』である以上、決して避けられない運命。

 正体や経緯、被害者の状況など、諸説紛々ある『メリーさんの電話』だが、幾つかの共通点がある。

 電話で話し掛けてくる事、徐々に近付いてきて、最後には背後に現れる事。

 そして、危害を加えた後、彼女がどうなったのかは、全く語られない事。

 被害者の方は重傷を負ったとか死亡したとか、その後に付いては語られるのに。

 怪談である以上、加害者である妖怪が、その後どうなったかを明確に語ると、恐怖が薄れるという理由もあるのだろう。

 だが、もっと単純な解答がある。

 その後も何も、恨みを晴らしたその時点で、『メリーさん』は消滅したから、語りようがないのだと。

「復讐を遂げた幽霊は成仏する、当然だよね……」

 電話口の少女は妖怪だが、元は幽霊であり、今も幽霊と大差のない、脆い存在にすぎない。

 だから、この世に残る原因となった未練を、恨みを晴らしたのならば、もう存在する理由がなくなる。

 そうなれば、消え去るしかない。

 元々、日の当たる世界に存在してはならない、怪異という異分子なのだから。

「でも嫌だ……君が消えるなんて嫌なんだよ!」

 和樹は年相応の子供らしく、ただワガママに叫ぶ。

「君と共に暮らすのが楽しかった。一緒に料理を食べてくれる人が居て嬉しかった。行ってらっしゃいって送り出してくれて、おかえりなさいって出迎えてくれて、誰かがずっと側に居てくれる事が、堪らなく幸せだったんだっ!」

 忙しい中でも時間を作ってくれる母親が居て、長期の休暇には遊びに来てくれる従妹が居て、和樹も完全な孤独ではなかった。

 だがそれでも、寂しかったのだ。

 霊力がないというだけで、誰も相手にしてくれない村に生まれて、遊んでくれる友達も居なくて、ずっと一人で格闘術の稽古をするしかなかった日々。

 そこから解放されて、初めて友人になってくれたのが、電話でしか話せない、けれど愉快で優しい妖怪の少女だったのだから。

「悲願の邪魔をした僕を、幾らでも恨んでくれていい。償えというなら、何だってしてみせる。だから、お願いだから、消えたりしないでよ……っ!」

 正義も何も関係ない、相手の気持ちさえ無視した、身勝手な欲望。

 そうだと分かっていながら、抑えきれず叫ぶ和樹に、電話口の少女はようやく口を開く。

『……私が居たら、和樹に迷惑が掛かるの』

 後ろを振り返り、その姿を見たら殺されてしまう呪縛。

 儚い彼女の存在を維持するためには、それを彼がずっと背負わなければならない。

 だから、自分は消えた方がいい――そう告げる前に、和樹は迷わず叫ぶ。

「いいよ、一生後ろを振り向く事が出来なくなっても構わない!」

 永遠に彼女と向き合う事が出来なくとも、常に不便な生活を強いられる事になろうと、その果てに彼女の手で命を奪われる事になろうとも。

「だからメリーさん、ずっと僕の側に居てよ!」

 そう叫び、和樹は部屋の中に足を踏み入れた。

 彼女が手を汚した上で消え去ってしまうくらいなら、その姿を目に焼き付けて、一緒にこの世から消えてしまいたいと。

 心中する覚悟で踏み込んだ和樹の目に映ったのは、物が散らかり荒れ果てた部屋と、怯えきった石橋の無様な姿だけだった。

 そして、彼の背後で小さな足音が響き、耳に当てた携帯電話から、聞き慣れた可愛らしい声が響いたのだ。


『私、メリーさん。貴方の後ろに居るの』


 今だけでなく、これからも、ずっと。

「ありがとう……」

 和樹は溢れ出てきた涙を拭いもせず、ただありったけの感謝を告げた。

 そうして、暫く感情のままに頬を濡らした後、呆然と座り込んでいた石橋を静かに睨んだ。

「そういう訳で、彼女はもう貴方に危害を加える事はありません。良かったですね?」

「あ、あぁ……」

「十四年前の事件も、とっくに時効を向かえていますから、貴方が罪に問われる事もありません。実にお目出度い事です」

「…………」

 皮肉たっぷりの笑顔を向けられても、石橋は言い返す事も出来ない。

 そんな情けない男に、和樹はせめてもの報復だと、辛辣に告げた。

「誰も貴方を罰したりはしない。だから一生、罪の重さに苦しめばいい」

 この小心者の男には、それこそが最大の罰になるだろう。

 そう思いながら、和樹はメリーさんを見ないように、ゆっくりと後ろに下がって方向転換し、階段の方へと向かった。

 背後から男のすすり泣きが響いてきたが、決して振り返る事はなく。



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