【第五幕 一寸後ろの闇】
「――そうか、ご両親は生きとるんやから、そういう事になるもんな」
メリーさんが失ったもの。その大きさを知って、小杜子は暗く俯いた。
「「…………」」
惚気みたいな話を聞かされて、憤慨していた亜璃沙とヒカリも、同じように沈痛な表情で口を閉ざす。
そうして、すっかり盛り下がった場の空気を、少しでも和らげようと、和樹は努めて明るく言った。
「いや、あくまで過去の話だし、本人ももう気にしてないから、そう深刻にならないでよ」
今のメリーさんは重い過去を振り切り、毎日を楽しく幸せに過ごしている。
だから、可哀想だとか不幸だとか、そう決めつけて憐れむ事の方が、よっぽど思いやりのない行為なのだ。
「……そやな、過程はどうあれ、結果はハッピーエンドなんやから、笑って聞かんと失礼やわ。ほら、ヒカリちゃんも亜璃沙ちゃんも、あんまり暗い顔しとったら、せっかく話してくれとる影森君にも失礼やで」
和樹の言いたい事を察して、小杜子は元気を取り戻し、少女二人の背中を叩いた。
それに励まされ、ヒカリと亜璃沙も普段の調子を取り戻す。
「わ、分かってるわよ。ただちょっと、罪状を聞き終えた後、和樹にどんな制裁を加えるか悩んでただけよ!」
「……三年前だろうと、浮気の罰は、極刑」
「話が終わったら、僕の命も終わるの?」
やはり惚気の部分は許していなかったらしく、嫉妬の炎を燃やす二人の姿に、和樹は冷や汗を流す。
そうして、怒りを逸らすためでもないが、続きを語り始めた。
「この先もやっぱり、暗い話しかないんだけど――」
◇
全てを思い出したあの日から、電話口の少女は変わってしまった。
「メリーさん、ご飯出来たよ」
和樹は熱々のチャーハンをよそった皿を左手に持ち、携帯電話を持った右手で扉をノックした。
そこは、和樹の自室とは別に、もう一つ用意されていた空き部屋。
あの時、公園から帰ってきてからずっと、彼女はそこに閉じ籠もっていたのだ。
『……そこに、置いておいてなの』
電話口から響いてくる声は、元気にご飯を要求してきた、あの少女と同一人物とは思えないほど、弱々しく投げやりだった。
「そう言って、昨日の夕飯は手を付けてなかったでしょ。ちゃんと食べないと駄目だよ」
『……分かったの』
和樹が叱っても、少女は唯々諾々と心ない返事を寄こすだけだった。
そんな彼女の声を聞くのが辛くて、元気づけてやりたくても、慰めの言葉を掛ける事も、扉を開けて抱き締めてあげる事も、やはり彼には出来なかった。
だからせめてと、腕に寄りをかけて料理を作ったのだが、それもきっと、彼女の喉を通る事はなのだろう。
和樹は酷く悲しい気分で、扉の横に皿を置いた。
「僕、ちょっと火乃華姉さんの所に行ってくるから、留守番をお願いね」
『…………』
律儀に行く先を告げ、玄関へ向かった彼に、行ってらっしゃいという見送りの言葉はかけられなかった。
それが無性に悲しくて、和樹は電話を切って、アパートから逃げるように飛び出した。
「そう、ご両親と会ったのね」
アパートで調べ物をしていた火乃華は、訪れた暗い顔の従弟から昨日の経緯を聞かされ、真面目な顔でただ頷いた。
「火乃華姉さんは、この事を知っていたの?」
驚いた素振りが見えず、和樹が訝しんで問うと、火乃華は首を横に振った。
「知らなかったわよ、可能性は想定していたけれど」
「そうなんだ……」
ならば何故、先に教えてくれなかったのだ――という逆恨みめいた愚痴を、和樹は必死に呑み込んだ。
その代わりに、一秒でも早く悲しみを終わらせるために、一歩前へ踏み出す。
「ともかく、犯人を捕まえよう。そのために情報を手に入れたんだから」
犯人は男で、乗っていたのはドアが四つある普通の乗用車――いわゆるセダンで、色は黒。
被害者本人から聞き出した、間違いようのない情報。
それは、犯人を特定するには足りないが、何も分からなかった今までの状態からは、大きな一歩に間違いないのだ。
「警察か運輸局か、何処かに問い合わせれば、十四年前に使われていた、そのタイプの車を探し出せるよね」
無論、それだけでは膨大な数になってしまう。
だが、さらにそこからこの近辺、大場菜市に住んでいた者を絞り込めばいい。
「現場は大きな国道ではなくて、住宅街の中にある細道だった。あんな所を通るのは、ここの住人しかありえない」
旅行か何かで余所から訪れた者が、迷子になるかもしれない脇道に入る可能性は低い。
勿論、道が混んでいたり、カーナビに誘導されたりして、通る可能性がゼロとはいえない。
だが、雨が降って視界が悪いなか、初めて通る細い道を、ブレーキを踏んでも少女を轢き殺してしまうくらい、スピードを出して走るとも思えない。
だから、あの道を通り慣れた、大場菜市の住人だったと考えるのが妥当だ。
「それで、多くても百人くらいまでは絞れるでしょ。そこまで分かれば十分だよね?」
そう告げて、和樹は天才的な退魔師である従姉の顔を覗き込んだ。
世の中に妖怪の存在が知れ渡って混乱が起きないよう、退魔師は一般人が怪異を目撃した時、霊力を使って記憶を操作する事が往々にある。
その術を応用すれば、犯した罪の記憶を引きずり出して、自白させる事だって出来るのだ。
「退魔師が普通の犯罪捜査に関わる事は、警察の面子もあって忌避されているけど、絶対に禁止されている訳でもない。そうだよね?」
「……そうね、百人も調べるのは面倒だし、問題がゼロとは言わないけど、不可能ではないわね」
問われた火乃華は、一瞬沈黙してから肯定した。
だがその上で、彼の案を拒絶し、残酷な提案を告げる。
「ねえ和君、やっぱりメリーちゃんを退治しない? それが、一番マシだと思うの」
「な、何を言ってるの!?」
「罪悪感を覚えるような記憶は、お姉ちゃんが全部消してあげるから、ね?」
「そういう問題じゃないよ!」
彼女の存在も、自分の記憶も、全て消してなかった事にする。
そんな暴挙を告げられて、当然激怒する和樹に、火乃華は深く頭を下げた。
「ごめんね、あの時はメリーちゃんを救う事が、和君のためになると思ったのよ。けれど、調べていくにつれ、あの子を救うのは不可能としか思えなくなってきたの」
「何でそんな事を言うのさ!」
和樹は従姉の言葉を否定しようと、大声で怒鳴る。
だが、火乃華は真摯な眼差しで、彼の希望を打ち砕いた。
「犯人を捕まえて、ちゃんと司法の裁きを与えれば納得するって、メリーちゃんは言ったわよね」
「そうだよ、本当は殺したいくらい憎い筈なのに、許すって――」
「それがね、無理なのよ」
「えっ?」
「だってもう、時効を向かえているのよ」
時効――事件から長期間が経過する事で、それ以降は処罰されなくなる事。
その言葉の意味は、和樹だって知っている。
けれど、何故それが適用されるのかが、全く理解出来ず叫んだ。
「待ってよ。人を、罪もない女の子を殺しているんだよ。それって殺人罪でしょ!? なら時効は十五年くらいで、まだ時間はある筈でしょ!?」
十四年前の事件、ギリギリだがまだ時効は適用されていない筈。
そう叫ぶ和樹に、火乃華は悲しげに首を振った。
「交通事故の場合は違うのよ。業務上過失致死の一種で『自動車運転過失致死罪』っていうのが適用されて、その時効は十年なの」
「十年って、もう……」
「酔っぱらい運転とかだと『危険運転致死罪』になって、時効は二十年なんだけど……」
十四年も前の飲酒運転など証明出来る筈もなく、そもそも本当に、飲酒などの危険な真似はしていなかった可能だって高いのだ。
だからもう、一人の少女を轢き殺した犯人を、正規の手段で罰する事は不可能。
「記憶を思い出したメリーちゃんは、きっと犯人を許す事が出来ない。時効で無罪ともなれば尚更ね。だから、犯人は見付けずにおいた方がいい」
時に大人びた気遣いを見せようと、彼女は幼い子供なのだ。
自分を殺した者が無罪放免と聞けば、自らの手による復讐を抑えられるとは思えない。
「けれど、犯人を見付けないでいたら、あの子は和君の背後から離れられない。それが持つ危険性も分かっているわよね?」
「…………」
火乃華の言う事が分かったからこそ、和樹はまた沈黙するしかなかった。
まだ出会って三日程度だが、見たら死んでしまう少女に付きまとわれる事の困難さは、嫌というほど身に染みていた。
数日か、長くても一ヶ月程度で済むと思っていたから、そこまで苦にしていなかっただけの事。
一瞬のミスで命を落とすような危険を、これから一生背負い込むなんて事になったら、肉体の前に精神がやられてしまうかもしれない。
だから、和樹は捨てるモノを選ばなければならない。
自分の命か、彼女の命か、それとも――
「和君、それが最悪の選択なのよ?」
「――っ!?」
顔色から思考を読まれ、和樹は驚き身を強張らせた。
だが、直ぐに諦めたような顔で、素直な思いを吐き出した。
「火乃華姉さん、僕はやっぱり退魔師になる資格がないんだろうね。例え一瞬でも、自分や彼女のために、人を犠牲にしようと考えてしまったもの……」
電話口の少女を消す事なく、和樹をその呪縛から解き放つ唯一の方法。
それは、犯人を彼女の手で殺させる事。
「もしも、それを許してしまったら、彼女も僕も許される筈がないのに……」
自分が殺された復讐。そんな同情出来る理由があろうとも、人を殺せばそれは罪。
電話口の少女は罰を受け、知っていながらそれを見逃した和樹も、同じく罰を受けるだろう。
退魔師の家系に連なる者でありながら、妖怪に味方して人間を害した裏切り者と。
妖怪の少女は専用の刑務所に、人間の少年は村の座敷牢に、何年も閉じ込められる事だろう。
だがそれでも、刑期を終えた時、復讐も終え呪縛から解放された二人は、何はばかる事なく正面から向き合い、心ゆくまでその素顔を眺め、抱き締め合う事だって出来るのではないか。
ならば、数年の歳月を無駄にし、咎人と後ろ指をさされる事になろうとも、構わないのではないだろうか。
そんな和樹の淡い願望を、従姉は静かに打ち砕く。
「和君、残念だけどそれはないのよ」
火乃華は座っていた居間のソファーから立ち上がり、一度自分の部屋に戻った。
そして、持ってきた書類を和樹の前に置く。
「退魔庁に連絡してね、『メリーさんの電話』に関する事例を送ってもらったの。それがこれ」
妖怪の数は少ないが、だからといって同じタイプのモノが、一体しか居ない訳ではない。
親の血を引いた子孫は勿論、噂から生まれた始祖の妖怪も、同じ種類の別個体が、他の場所で生まれる事は往々にしてあるのだ。
だから、火乃華が差し出したのは、和樹の背後に現れた彼女とは別の、メリーさんと呼ばれた妖怪の記録。
性格も容姿も能力も違うが、同じ名前を持ち、同じ悲劇に見舞われた少女。
それは、『メリーさんの電話』という都市伝説自体が、生まれてからまだ十数年しか経っていない事もあり、一名しか記述されていなかった。
「彼女を入れても二人か……」
それが多いのか少ないのか、和樹には分からない。
ただ、そこに書かれた内容を読み進めるうちに、彼の目は驚愕と絶望で見開かれていった。
「これ、どういう事……?」
「書いてある通りの意味よ」
火乃華は従弟の辛そうな顔が見ていられず、目蓋を閉じながらもそう告げた。
とある少女を轢き殺し、そのまま逃げたあるタクシー運転手の元に、メリーさんと名乗る相手から電話が掛かってきて、最後には彼の背後にそれが現れて、刃物で刺されたという事件。
運転手は心肺停止の危篤状態に陥ったが、発見が早かった事も幸いし、奇跡的に一命を取り留めた。
彼は容体が安定した後、警察を呼んで轢き逃げの自白をすると共に、自分を刺した不思議な少女の事も語った。
その報告が警察から退魔庁に届き、殺人未遂の容疑でその妖怪を捕まえるため、退魔師達が動き出した。
だが、事件は呆気なく、かつ予想外の形で終幕した。
おそらくは、誰も救われないままに。
「どうして、そんな事に……っ!」
あまりにも酷い結末に、和樹は運命の女神を呪って、書類を握り潰す事しか出来なかった。
そんな従弟に、火乃華も何も言う事が出来ない。
例え霊力なんて異能を持とうとも、救いきれない者が居る事は、既に嫌というほど知っていたから。
◇
「何を選び、何を捨てるのか、和君が決めて。それがどんなものであろうと、責任はお姉ちゃんが取るから」
そして、こんな辛い決断をさせてごめんね――と謝る火乃華に見送られ、和樹は従姉のアパートから立ち去った。
けれど、電話口の少女が塞ぎ込んでいる自宅に、そのまま帰る気にもなれず、漫然と街を彷徨い続けた。
そして気が付けば、全ての始まりとなった、ウサギのぬいぐるみを拾った場所に来ていた。
「ゴミ捨て場か……」
そこに置かれていたという事の意味を、和樹は今更理解する。
十四年前に亡くなった娘の遺品なんて、あの幸せそうな家族にはもう必要ないという事だ。
何時までも失った者への悲しみにくれるなんて、不毛でしかないから。
そう分かっていながらも、和樹は寂しいと思う気持ちを止められなかった。
「もう誰も、あの子の名前を呼ばないのか……」
妖怪となった本人すら忘れてしまった、ある少女の名前。
交通事故で死んだ彼女の名を呼ぶ者は、彼女を思い、彼女を語る者は、もう誰も居ない。
それが正しいのだろう。過去に捕らわれず未来へと進むのが、生きる者の使命なのだから。
「けれど、そんなの……っ!」
悲しくて、やりきれなくて、和樹は目尻が熱くなるのを止められなかった。
そうして、ずっと立ち尽くしていた彼に、ふと声が掛けられた。
「あの、ちょっとお伺いしてもよろしいかしら?」
「は、はい、何を――っ!?」
穏やかな女性の声が響いてきて、和樹は慌てて目元を拭いながら横を向き、そこに立っていた人物の顔を見て目を見開いた。
小皺が目立ってきた顔で、柔和な笑み浮かべたその人は、公園で見かけた初老の婦人。十四年前に交通事故で娘を亡くした母親だった。
彼女は驚いた顔で自分を見詰める和樹の様子を、不思議に思って首を傾げる。
「私の顔に何か付いているかしら?」
「い、いえ、それより何の用でしょうか」
和樹が慌てて誤魔化し、平静を装って促すと、婦人は笑顔を崩さずこう告げた。
「変な事をお尋ねしますが、ここにウサギのぬいぐるみがありませんでしたか?」
それは間違いなく、死んだ少女の遺品で、妖怪の少女を呼ぶ切っ掛けとなった、あのぬいぐるみの事だった。
けれど何故、自分で捨てた物の事を、今更尋ねたりするのか?
そんな疑問が顔に出ていたのだろう。婦人は苦笑しながら理由を語った。
「いえね、主人の仕事の関係で、遠くへ引っ越す事になったんですけど、その荷物整理をしていた時に、義父さんが勝手に捨ててしまったそうなんですよ」
死んだ少女から見れば祖父にあたる人物が、たんに間違って捨てたのか、彼なりに気を使ってした事なのか、そこまでは分からない。
ただその口振りから、両親が望んで捨てた訳ではなかったと、彼女の事を忘れ去ろうとしていた訳ではないのだと分かって、和樹は救われた気分だった。
「大切な物だったんですが、見かけませんでしたか?」
もうゴミの回収車に持って行かれ、処分されてしまったのだと理解しながらも、諦め切れずにまた見に来た時に、ゴミ捨て場の前で訳あり気な顔をしている少年を見て、つい声を掛けてしまったと、そういう事なのだろう。
婦人の事情を把握し、気持ちも理解した上で、和樹は敢えて首を横に振った。
「いいえ、申し訳ないですけど知りません」
妖怪の事を一般人に知られてはならない、退魔師の掟なんてものは関係ない。
ただ、彼女がそれを望んだから、自分の事は忘れて幸せになって欲しいと、寂しくて泣きながらも望んだから、和樹はそう答えた。
本当は貴方達だけでも、彼女の事を覚えておいて欲しいと、叫びたい気持ちを押し殺して。
「そうですか……そうですよね、変な事を聞いてごめんなさいね」
婦人は残念そうな表情を笑顔で消して、彼に頭を下げてから踵を返す。
その小さく年老いた背中を見て、和樹は反射的に口を開いた。
「あ、あのっ!」
「はい、何かしら?」
振り返った婦人の顔は、やはり笑顔を浮かべていた。
だからきっと、それは不要な言葉だと知りながらも、和樹は言わずにいられなかった。
「遠くへ行っても、どうか幸せでいて下さい」
それこそが、あの少女が泣きながら言葉にしなかった、両親への伝言だから。
理由を知らぬ婦人には、その意味も意思も全ては伝わらなかっただろう。
だが、彼女は少し戸惑った顔をしたあと、やはり笑って告げたのだ。
「ありがとう」
お礼を言いたいのは僕の方です――と、和樹は心の中で告げて、去っていく婦人の背中を見送った。
彼女の亡くなった娘は、和樹に沢山のモノを与えてくれたから。
けれど、そんな恩人に対して、自分は何もしてあげられない。
その事実だけが、和樹は悔しくて堪らなかった。
◇
彼女の母親と別れた後も、和樹はそのまま街を彷徨い続けた。
自分に何が出来るのか、何をするべきなのか、考えども考えども答えは出ない。
そうして、いつの間にか日が暮れて、国道沿いを歩いていた時、ふと一台の自動車が彼の前で停まった。
助手席の扉が開き現れたのは、見知った老年の刑事。
「やあ影森君、散歩でもしているようだが、子供はそろそろ家へ帰る時刻だよ」
「白鳥さん……」
突然現れた協力者である警官に、和樹は驚いて立ち尽くす。
そんな彼に歩み寄り、白鳥は背を押して車に乗るよう促した。
「飲みに行く途中だったんだがね、家まで送ってあげるよ。といっても、運転するのは私じゃないがね」
「誰かと思えば、またあの子供ですか」
白鳥に手を引かれ、後部座席に乗り込んだ和樹に、運転席から冷たい声が飛ぶ。
その主は、警察署でも顔を合わせた会計課の課長、石橋勝巳警部だった。
「白鳥さん、私は児童バスの運転手になった覚えはありませんが?」
「そう邪険にしなさんな。まったく、君の子供嫌いも筋金入りだね」
「貴方が甘いだけだと思いますが」
石橋は露骨に嫌みを言ったが、白鳥に窘められて、渋々といった顔で和樹の住所を尋ね、車を発進させた。
そんな大人二人を前に、少年はお喋りしたいような気分でもなかったが、黙っているのは失礼だと思った事もあり、素朴な疑問を告げた。
「あの、お二人は仲が良いんですか?」
片や定年間際の警部補で、窓際扱いの資料編纂課なノンキャリア。
片やまだ四十路前でありながら警部になり、会計課長なキャリア組。
肩書きだけ見ると、共通点もないし仲が悪そうな立場の二人が、一緒に酒を飲みに行くというのが不思議だったのだ。
そう問う和樹に、白鳥は笑って説明した。
「もう十年以上前だがね、私がまだ刑事課に努めていた時、石橋君と組んで仕事をした事があったんだよ」
その時の石橋は警察学校を出たばかりの新米で、彼に仕事のイロハを教えたのが、当時は敏腕刑事として名を馳せていた、白鳥だったという事だ。
先輩後輩というよりも、師匠と弟子のような関係といった方が近いだろう。
そんな訳で、彼らは出自や部署が違っても、縁があったのだ。
「彼が直ぐに転勤してしまったから、一緒に仕事をしたのは一年程度だったがね」
「あの時は、本当にお世話になりました」
自分の話をされて不機嫌そうにしながらも、石橋は教えを受けた事の礼は告げ、白鳥はそんな弟子の無愛想ぶりに苦笑する。
親子ほど年が離れた二人の不思議な関係を、根掘り葉掘り聞くのもはばかられた和樹は、適当に話題を振った。
「警察って、転勤が多いんですか?」
その問いに、白鳥は大きく頷いた。
「多いね、二、三年に一度は異動するのが普通だよ。家の娘が小さかった頃は、それでよく泣かれたものさ」
お友達と別れたくない――と娘の真似をして、老年の警官は肩を竦めてから付け足す。
「ただ、資料編纂課に移ってからは、ずっとこの大場菜市に居るんだけどね」
それは本来の役目である、退魔師の手助けという仕事があるからだ。
警察官といえども、妖怪の事を知る者はみだりに増やしたくない。
そんな退魔庁の意向により、協力者となった者は本来の警察官と違い、転勤や部署の移動がされ難くなるのだった。
「私はこんなんだけど、石橋君は随分と異動したんじゃないかい?」
「えぇ、これで五回目でしょうか」
そう答えながらも、信号に捕まって舌打ちしする石橋を見て、白鳥は笑って告げる。
「まぁ、良かったじゃないか。私はまた君に会えて嬉しかったし、お父さんも喜んでいるんだろうし」
「父は関係ありません」
親の話を出された石橋は、和樹に対する時以上に、冷たい声を出して石橋の言葉を遮った。
彼の父親が、数年前まで警視庁の上層部に居て、今は引退してこの大場菜市で余生を過ごしている事。
そんなOBに気を使った上層部が、大場菜市の会計課長が病気で退職したのを知り、親孝行をしろとばかりに、息子をその後釜として赴任させた事。
そのため、二月なんて中途半端な時期に、白鳥が転勤してきた事などを、和樹が知るのはもう少し後の事になる。
今の彼は電話口の少女の事で頭がいっぱいで、偉大な父を持った息子の苦悩など、気にする余裕はなかったのだから。
「道が混んでいるね、裏道に入ったらどうだい?」
「やめておきます、狭い道は嫌いなんで」
道路工事でもやっているのか車の進みが遅く、アパートまでなかなか辿り着かない。
その暇を持て余したように、白鳥はふと和樹に尋ねた。
「ところで、あの轢き逃げ犯は見付かったかい?」
捜査資料を持ち出されたのだから、出て当然の質問だった。
だがそれに、和樹は言いしれぬ怒りを覚えた。
「……まだ、です」
低く唸るような声は、どう猛な獣の威嚇声に似ていた。
――あの子の苦しみを何も知らないくせに。
――事件が既に時効を向かえている事を、知っていたくせに。
そんな恨みが思わずこもってしまった声に、運転席で聞いていた石橋は、相手が子供な事も忘れてゾッと背筋を竦ませる。
だが、白鳥の方は変わらぬ笑みで――タヌキのような、奥に何かを隠して、人を虚仮にしたような笑みを張り付かせたままだった。
それが気に食わなくて、和樹は吐き出すように呟いた。
「でも、有力な情報を手に入れました」
「ほぉー、聞かせて貰えるかな」
本気で関心しているのか、子供の戯れ言と見くびっているのか、表情からは窺えない白鳥に、和樹は大きな損失の代わりに得た情報を叩き付けた。
「犯人は男で、乗っていたのは黒のセダンです」
「間違いなく?」
「はい、確かな情報です」
被害者本人の言葉なのだ、間違いなどある筈もない。
そう怒りを滲ませた和樹の瞳を受けて、白鳥は眩しそうに目を細める。
「本当のようだね。警察が全く掴めなかった事を、こんな短期間で探り出すなんて、流石は退魔師君だ」
「…………」
自分が出来損ないにすぎない事も、同じ警察官とはいえ協力者ではない石橋が居る前で、退魔師という単語を出した事も、和樹は言及する気になれなかった。
そうして、車内の空気が重苦しく変わってきた時、タイミングよく車がアパートの前に到着した。
「送って下さって、ありがとうございました」
「いやいや、こちらこそ面白い話が聞けて良かったよ」
「…………」
形ばかりの礼をする和樹に、白鳥はそう言って笑い、石橋は何も言わずにアクセルを踏んだ。
走り去った二人の警察官の事を、和樹は直ぐに頭から追い払い、少女が待つ自分の部屋へと向かった。
だから、彼が気付いたのは、やはり全てが終わってからの事だった。
今この時の、何気ない会話が、事件を大きく進める要因になっていた事を。
◇
「ただいま」
和樹が玄関扉を開けて帰ってきても、携帯電話の着信音が鳴り響き、あの甘い声が出迎えてくれる事はなかった。
それを寂しく思いながら、居間に足を踏み入れた彼は、出掛ける前に置いておいたチャーハンの皿が空になっているのを見て、少しだけ救われた気分でそれを流し台に運んだ。
そして、遅い夕飯としてカレーを作り、また彼女の分を扉の前に置く。
「カレーライス、冷めないうちに食べてね」
携帯電話に向かってそう告げたが返事はなく、聞こえていたのかどうかも分からない。
ただ、和樹は自分の分を皿に盛り、居間に居ると彼女がカレーを取れないと思い、自室に戻った。
勉強机に座り、一人で食べるカレーライスが、何処か味気なく感じられたのは、気のせいではあるまい。
「一週間も経ってないのにな……」
大場菜市に引っ越してきて、電話口の少女と出会って、数奇な縁で彼女と暮らすようになったのは、もうすぐ十三年になる彼の人生において、瞬きのように短い時間でしかない。
なのに、こんなにも彼女の事で胸がいっぱいで、苦しくて堪らない。
それが恋や愛と呼ばれる感情だったら、どれほど簡単だった事か。
だが今、和樹の胸を満たすのは、それとは正反対の暗く陰鬱な感情だった。
「僕は、どうすればいい?」
退魔師として正しい選択は、妖怪の被害から一般人を守る事。
即ち、復讐を果たそうとしている少女を、力尽くで止める事。
その結果、彼女の命が失われよとも、気に病む必要はない。
正義の退魔師が、悪の妖怪を退治した、ただそれだけの事なのだから。
「……嫌だ」
改めて考えるまでもなく、和樹はそれを拒否する。
例え復讐者として生まれた妖怪だろうと、今の彼女は悪い事なんて一つもしていない、哀れな被害者なのだ。
それを見捨てるのが退魔師だというのなら、そんな稼業はこの世から滅びればいいし、そもそも自分は退魔師じゃない。
和樹はそう思い、半日迷い続けた答えに結論を出し、携帯電話を手に取った。
まだ二軒しか登録されていないアドレスから、実家ではない方の番号を選ぶ。
そして、電話が繋がった瞬間、怠そうな声で従姉が名乗るよりも早く、静かに要求を告げた。
「十四年前に黒のセダンを所有していた、大場菜市の住人を割り出して」
それは、少女を轢き殺した犯人を、見つけ出して罰するという決意表明。
告げられた火乃華は、僅かに沈黙こそしたが、何も聞かず従弟の願いを受け入れた。
「……分かった。古い記録を探る事になるから、二、三日くらい時間が掛かると思うわ」
それだけ言い、彼女の方から電話を切った。
和樹は深く息を吐きながら、心の中で従姉に詫びる。
(ごめんね火乃華姉さん。僕はやっぱり、彼女を苦しめた奴を許しておけないんだ)
見つけ出したからといって、司法の罰を受けさせる事が出来ないのは分かっている。
かといって、少女の手で復讐を遂げさせるつもりもない。
ならば、残る答えは一つ――この手を汚すしかない。
(殺しはしない。けれど、自首しなかったのを後悔するくらいには、苦しみ抜いて貰う)
そんな真似をすれば、和樹自身が暴行罪で捕まってしまう。
母親や従姉を悲しませ、多大な迷惑を掛けてしまうだろう。
けれど、幼い少年にはもう、この方法しか思いつかなかったのだ。
(彼女の無念を晴らしながら、その身を守れるなら、僕が捕まっても構わない)
痛めつけられた犯人の姿を見せれば、電話口の少女は溜飲を下げるか、それとも同情するかして、きっと許してあげる事だろう。
優しい彼女の事だから、おそらくは後者か。
そうなれば、彼女を退治する必要はなくなる。
そして、犯人を見付けた事で、和樹も呪縛から解放され、何の柵もなく彼女と向き合う事が出来るように――
(そんな、都合良く進むのか?)
浮かんだ疑問を、和樹は頭を振って追い払う。
けれど、何度考えまいとしても、それは影のように這い寄ってきた。
例えどんな形であろうとも、その恨みを晴らしたなら、彼女は――
「……っ!」
和樹は冷めてきたカレーを無理矢理口に押し込み、もう何も考えたくなくて、ベッドに身を投げ目を閉じた。
日が変わり、火乃華からの報告が早く来る事だけを願いながら。
そうして眠りについた和樹は、一つ大きなミスを犯していた事に気付かなかった。
ただ、それを彼の過失と言うのは少し酷だろう。
むしろ、噂から生まれし始祖の妖怪を、褒め称え恐れるべきか。
取り憑いた対象が振り返ってその姿を見たら、確実に命を奪うという必殺の能力。
その条件を満たすために与えられた、人の背後へ一瞬で移動出来る空間跳躍の能力。
最後にもう一つ、徐々に近付いていく事を知らせるための電話を掛ける能力。
電源を切ろうが、バッテリーを抜こうが、受話器を破壊しようが、そこに電話が存在すれば、通話ボタンの押す押さないすら関係なく、無理矢理繋げて会話が出来るという、便利だが地味に見える力。
その恐ろしさを、和樹は理解していなかったのだ。
あらゆる物理法則を無視して、電話を自在に操れるならば、着信音を鳴らさず通話状態にして、他者の会話を盗聴する事や、受話器が捉えた微かな声を増幅して聞き取る事なども、容易に違いない。
だから、彼が電話で話した事も、携帯電話をポケットに入れたまましていた会話も、電話口の少女には筒抜けだったのだ。
彼女に知られぬうちに、犯人を捕まえてこの手で罰するという和樹の計画は、最初から破綻したまま、意外かつ性急な形で、三日後に答えを導き出す事になる。