コワイカクルカ
少年はその日も田んぼの端に腰を下ろし、カビの生えたパンの切れ端を手にしてそのサギを呼んでいました。
「おい、マダラやい。そろそろこっちにこないか」
勝手に名前を付けられた鳥は正真正銘のサギなのですが、ここら辺に群れを成す白サギ達の中で一羽だけ全身が白黒の斑模様をしていました。年を越し寒さが一層厳しくなる季節になると、鳥たちは一斉にどこか別の場所へ飛んでいってしまいました。しかし、マダラだけはずっと家の近くの田んぼのほとりに居続けました。そんな一羽の鳥を、うそつきで仲間外れで変わり者の少年は妙に気に入ったのでした。霜柱が融けて緩くなった地面にお構いなしで座り込み、彼は一週間、マダラに語り掛けました。
「きったねぇな」
帰りがけに同級生が通り縋ると、決まってそう吐き捨てます。それが水を張った田んぼの中央を悠然と歩くマダラに掛けられたものか、お尻が汚れた少年に向けられたものなのかはわかりませんでした。
「いつまでも遠くにいると、いい加減、相手してやらんぞ」
立ち上がり、お尻についた泥を払うと彼は言いました。もう日が暮れる時間です。田んぼに水を送る水路は凍結し、凍える風が時折、少年を腹のそこから震えさせるのでした。パンの切れ端を力いっぱい投げると、田んぼの真ん中くらいに落ちました。彼は体を思い切り伸ばすと、胸いっぱい吸った息を吐き出しました。
「いつまでも、同じところを歩いて、何が楽しい」
そう言った後、彼は気がつきました。
「どうしてお前は、決まって同じところを歩いているんだい」
遠くでこちらを見ているマダラと目が合うのがわかりました。底のない真っ暗な奥深い目が、まるで意思を持ったようにこちらに向いていました。
「ようし待ってろ。こうなったらそこまで行ってとっ捕まえてやる」
意地の悪い少年は寒いのも忘れて田んぼに足を踏み入れました。予想に反して泥の中は心地よい暖かさがありました。ただ、表面に張っている水は凍てつくほどの冷たさでした。
「そこを動くなよ」
マダラは聞く耳を持たず、再び、悠然と円を描き出しました。それはずっと同じ大きさで、正確な円のように見えました。まるでそこになにかがあるような足取りで。
「逃げるなよ、いいな、逃げるな」
少年の粗暴な足取りにも、その鳥は臆する気配を見せませんでした。近づくにつれ怖気づいたのはむしろ彼の方でした。マダラの目はどこまで行っても空虚でした。そしてその足元に描かれた円には、何か得体の知れないものが蠢いている気がしてならないのです。遠くで見ていた斑模様のサギは、近づくと男の子と背丈が変わらない大きな鳥でした。
「なんで逃げない」
彼は怖くなって、手を叩いたり、わざと大きな音を立てて田んぼの中を歩きました。しかしマダラがその場を離れることはありませんでした。騒がしい少年が発する音など意に介さないように、その鳥は歩き続けました。
やがてどこからか、何かを耳にしました。彼は自分の足元の騒がしさの他に、確実に聞こえる何かに気が付きました。それはマダラから、もしくはその周辺から出ている音であることは間違いありませんでした。それは言うなれば、無音の中の大音量でした。きっとそこに近づかない限り気づくことのない音でした。
「おいおい冗談だろ」
その穴を覗き込んだ少年の口からはそんな言葉が漏れました。マダラが描く円は、良く見ると底の見えない穴でした。どうしてそんな穴ができたのか。その穴がどこに繋がっているのか。どうしてマダラはその穴の周辺を歩き続けているのか。そんな疑問が浮かぶ前に、男の子の頭におかしな声が聞こえてきました。
「コワイカ」
彼は驚いて周囲を見渡しましたが、遠くに沈む夕日が着々と色あせていく位で、それ以外に景色の変化は見て取れませんでした。
「コワイカクルカ」
誰もいないのを確認すると、少年はマダラを見ました。その鳥はどこか遠いところに視線を合わせて、あるいはどこにも合わせていないようでした。ただ、ゆっくりと円を描きます。少年は得体の知れない穴の周りを歩く斑模様のサギを暫く見つめていました。
「コワイカ?」
暫くするとマダラの咽喉が震えるのがしっかり見て取れました。少年はひどく混乱し、帰りたい衝動に駆られました。しかし後ずさりしようにも、すっかり足が泥に嵌ってすぐには抜けませんでした。
「クルカ?」
マダラはこの二つの単語を交互に、時に合わせて言い放ちました。感情のない、機械的な声色で。ゆっくりと歩を進めながら。
一旦は怖気付いた少年でしたが、いつしか彼のひねくれた根性が、サギの”コワイカ”という言葉に反応しました。
「コワイカ」
「怖くなんかあるもんか」
そう答えた彼の足が、泥に穴を空け、鈍い音を立てて抜けました。
「クルカ?」
「ああ、行ってやるとも」
売り言葉に買い言葉で彼が言った時でした――――瞬間的にマダラが大きな口を開け、少年の体を飲み込んでしまいました。夕陽が落ち、闇が急速に流れ込む中、一匹のサギが一つ、甲高い声で啼きました。そしてマダラは周囲の景色を一通り見渡した後、その穴の中に足を踏み入れました。ゆっくりと沈んでいくサギの姿に、誰も気づくことはありませんでした。
気が付くと少年は空を飛んでいました。薄暗闇の雲の中を暫く飛んでいました。風を切る音だけが聞こえてきました。キンと冷えた空気の匂いがしました。遙か下方で、微かに灯りが見える気がしました。どこを見るにも、長い嘴が目に付きました。首を振ると、斑模様の翼が見えました。どこかで見たような・・・。それがマダラの体で、自分が鳥の体の中にいるのだと理解するのに、それほど時間は掛かりませんでした。どういうわけか、彼は自分が鳥になれて飛んでいることに満足するのでした。そして心の奥底から、もっと高く、もっと高く、という欲望が湧き上がるのがわかりました。サギの翼は悠然と風に乗り、高く高く舞い上がりました。
再び眼下を見下ろすと、海が、大地が、光を浴び色づき始めていました。遠くのほうで地平が円形を成していました。太陽が顔を出し、力強い光で周辺を照らしていました。もう少しで星の全貌が見えそうでした。それにもかかわらず少年は、まだ、高く、という欲求のまま飛んでいました。いつしか嘴も、翼も目に付かないようになりました。眼下の星は、球形の半分が照らされていました。上を向くと、数え切れないほどの星が見えました。白や紫、青、緑、オレンジなど、様々な光が複雑に交じり合った星雲をいくつも通り過ぎました。空間を突き破っているというより、何かに吸い込まれている感覚がありました。行き先なく彷徨っている不安は、微塵もありませんでした。目に映るものすべてが新鮮で、彼の心を煌めかせました。
いつしか、真っ暗な空間を移動していたはずが、光が満ちてきました。ポツポツと暗闇に穴を開けた光が、突然、豪雨のように降り落ちてきました。あっという間の出来事で、少年は光に包まれました。でもそれはひどくやさしい光で、一つも不安がおきませんでした。彼は光の中に浮いていました。進んでいるのかわからなくなって暫くになりましたが、そのことも気にはなりませんでした。
「おーい」
くぐもった声がどこからか聞こえます。とても温かい何かに、何かを隔てたところで抱かれているようでした。ひどく心地よい音が聞こえます。とても静かな、でも、熱い振動が。少年は安心して眠くなりました。もう、暫く寝ていないようで、ずっと寝ているようでもありました。しかし、その声と、とても温かい何かに抱かれていることで、彼は心底安心することができました。
「もうすぐ会えるね」
その温もりの中で、彼は安らかな寝息を立て始めました。
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