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水沢に埋めた真実

 温泉街には、二つの顔があります。


 一つは、旅人を迎える明るい顔です。湯けむりの向こうに灯る旅館の明かり、石段を行き交う浴衣姿の人々、土産物店から聞こえる声、湯上がりの頬に触れる山の風。日常を離れて訪れた人にとって、温泉街は心と身体をほどくための場所です。


 もう一つは、夜が深くなったあとに現れる顔です。


 観光客の声が消え、店の明かりが一つずつ落ちていくと、昼間には聞こえなかった音が浮かび上がります。地面の下を流れる水の音。古い建物の柱がきしむ音。誰もいない石段を、何かが上ってくるような足音。そして、長い年月をかけて町の中に積み重なってきた、人々の沈黙です。


『温泉街の沈黙』は、その二つの顔の間から生まれた物語です。


 舞台となるのは、山あいにある古い温泉街。そこで一人の男が死にます。


 男の死は、初めは不幸な事故として扱われます。しかし、遺体のそばに残されていた古い鍵と、意味の分からない短いメモが、静かだった町に小さな波紋を広げていきます。


 主人公の霧島透子は、かつて新聞記者として働いていました。けれども、ある出来事を境に記者を辞め、故郷である温泉街へ戻ってきます。彼女が町へ戻ったのは、真実を追うためではありません。むしろ、過去から目をそらし、静かに暮らすためでした。


 しかし、真実は、追わなければ消えてくれるものではありません。


 誰かが隠した記録。語られなかった失踪。書き換えられた記憶。そして、町を守るという名目で受け継がれてきた秘密。


 透子が事件を調べ始めると、町の人々は少しずつ口を閉ざしていきます。昨日まで親しげに話していた人が視線をそらし、昔を知る者は曖昧な言葉を繰り返します。


 彼らが黙っているのは、罪を隠すためなのか。


 それとも、守りたい誰かがいるからなのか。


 この物語で描きたかったのは、善と悪が明確に分かれた世界ではありません。


 人は時に、誰かを守るために嘘をつきます。町を守るために真実を隠し、生活を守るために見なかったことにします。その選択は、最初は小さな善意から始まるのかもしれません。


 しかし、一つの嘘を守るためには、次の嘘が必要になります。


 一人の沈黙を守るために、別の誰かも黙らなければならなくなります。そして、いつしか「守るためだった」という言葉は、人を傷つけるための理由へと姿を変えていきます。


 温泉は、本来、人を癒やすものです。


 けれども本作では、その湯と水が、秘密を運び、記憶を閉じ込め、罪を覆い隠す存在として描かれます。絶えず流れているように見える水も、その地下には複雑な道筋があります。どこから来て、どこへ流れていくのかを、地上にいる者がすべて知ることはできません。


 人の記憶も、同じなのかもしれません。


 忘れたつもりの出来事が、心の奥では流れ続けている。言葉にしなかった痛みが、形を変えて次の世代へ受け継がれていく。過去は消えるのではなく、見えない場所を流れながら、いつか思いがけないところから姿を現します。


 透子が事件の中で向き合うのは、犯人だけではありません。


 故郷を捨てた自分自身。父との記憶。記者として真実を伝えきれなかった後悔。そして、真実を明らかにすることで、町に暮らす人々の人生を壊してしまうかもしれないという恐れです。


 真実を知ることが、必ず人を幸せにするとは限りません。


 告発によって救われる人がいる一方で、居場所を失う人もいます。隠されていた罪が明らかになれば、何も知らずに暮らしてきた人々まで傷つくことがあります。


 それでも、死者の声を永遠に沈めてよいのか。


 誰かの犠牲の上に築かれた平穏を、本当に平穏と呼んでよいのか。


 本作を通して、読者の皆さまにも、透子と一緒に迷っていただけたらと思います。


 温泉街の美しい風景を楽しみながら、その湯けむりの向こうに何が隠れているのかを想像してください。登場人物の言葉だけでなく、言わなかった言葉にも耳を傾けてください。


 この町では、沈黙もまた、一つの証言です。


 誰かが話題を変えた瞬間。


 閉ざされた扉。


 不自然に途切れた記録。


 そして、何も答えずに流れ続ける水。


 物語の中に置かれた小さな違和感は、やがて一つの真実へとつながっていきます。


 真実を知ったとき、透子は何を失い、何を選ぶのか。


 町は沈黙を守り続けるのか。それとも、傷つくことを覚悟して、新しい朝を迎えるのか。


 石段の先に灯る明かりを目指すように、最後まで物語をたどっていただけましたら幸いです。


 湯気の向こうに沈んでいるものは、果たして一人の死だけなのでしょうか。


 それでは、祭りの夜から始まる温泉街の物語を、どうぞお楽しみください。


                         朝霧 颯


※本作品はフィクションです。登場する人物、団体、施設、事件および物語上の設定は架空のものであり、実在するものとは関係ありません。

温泉街の沈黙


著者 朝霧颯


【あらすじ】

祖母の死をきっかけに、十年ぶりに伊香保へ戻った元新聞記者・霧島透子。祭りの夜、温泉水源管理会社の社員・相沢玲司の遺体を発見した彼女は、事故として片づけられようとする死に違和感を抱く。遺された古い鍵と謎の数字、改ざんされた配湯記録、二十年前の失踪事件。真実へ近づくほど町の人々は口を閉ざし、やがて第二の犠牲者が現れる。故郷を守るための沈黙は、いつから人を殺す罪へ変わったのか。湯気の奥に沈められた記憶を追う、温泉街サスペンス。


【キーワード】

ミステリー/サスペンス/温泉街/女性主人公/元新聞記者/地方社会/失踪事件/社会派


※本作品はフィクションです。登場する人物、旅館、施設、団体、事件、配湯設備等はすべて架空のものです。

第一章 湯気の向こう

祭りの太鼓は、山の腹を叩いているように聞こえた。

石段街を埋め尽くした提灯が、夜気の中で赤く揺れている。浴衣姿の観光客が焼きまんじゅうを片手に笑い、子どもたちは金魚の袋をぶら下げて駆け上がっていく。土産物屋の軒先からは呼び込みの声が飛び、どこかの旅館の窓からは宴会の拍手が漏れていた。

伊香保の夏祭りは、町が一年でもっとも生きているように見える夜だった。

霧島透子は、その賑わいの端を縫うように歩いていた。

右手には、古民家民宿「つむぎ」に泊まる客が食堂へ置き忘れた黒い小さな鞄がある。中には財布も薬も入っているらしく、宿の女将から「水沢の観音堂近くにいるはずだから、届けてもらえる?」と頼まれたのだった。

頼まれ事そのものは、どうということもない。

ただ、祭りの夜に一人で水沢へ向かう道が、透子には少しだけ重かった。

石段街から外れると、太鼓の音は急に遠くなる。店の灯りもまばらになり、代わりに水の流れる音が近づいてきた。山肌から引かれた水路と、温泉の排湯が合流する辺りでは、夜でも白い湯気が低く漂っている。

十年前、町を出た夜も、こんな湯気が出ていた。

父が黙ったまま車を運転し、母が後部座席で泣き、十八歳だった透子は窓の外を見ていた。誰も、なぜ出ていくのかを説明しなかった。ただ父が旅館の設備を壊したことになり、町にいられなくなった。それだけを、親戚も近所も同じ言葉で語った。

事故だった。

仕方がなかった。

透子は記者になったあと、そういう言葉を嫌うようになった。誰かが口をそろえて使う曖昧な表現は、たいてい事実を包んでいる。包むというより、沈めている。

だが今の透子は、記者ではない。

三か月前、祖母の死をきっかけに伊香保へ戻り、民宿で働き始めた。東京の新聞社を辞めた理由を、宿の者には「家庭の事情」とだけ説明している。実際には、透子が書いた記事をきっかけに取材対象の家族が崩れたことが原因だった。記事に誤りはなかった。だからこそ、傷は深かった。

水沢沿いの道へ入ると、灯りは腰ほどの高さに設置された足元灯だけになった。湯気が風に押されて流れ、石垣を隠しては現す。硫黄の薄い匂いに、湿った土と苔の匂いが混じっていた。

前方で何かが動いた。

透子は足を止めた。

「大丈夫ですか」

返事はない。

近づくにつれ、人の輪郭がはっきりした。

男が、石の上に横向きに倒れていた。

濃紺のシャツが胸から下まで濡れている。片腕は水際へ伸び、指は何かをつかもうとした形で曲がっていた。靴の片方が脱げかけている。

透子は鞄を落とした。

「聞こえますか」

肩へ触れる前に、身体の不自然な重さが分かった。顔をのぞき込む。唇は青く、半開きの目は湯気の向こうを見ていた。

透子は震える指でスマートフォンを取り出し、救急へ連絡した。

現在地を説明しながら、男の首へ手を当てる。脈は感じられない。胸も動いていない。電話口の指示に従い身体を仰向けにしようとしたとき、男の後頭部に黒い血が固まっているのを見た。

水へ落ち、頭を打った。

そう見える。

だが、何かがおかしかった。

男の上着は、肩の辺りを除いてほとんど濡れていない。シャツとズボンは水を吸い、石の上に細い筋を作っているのに、上着の内側は乾いているように見えた。

透子は男の靴底へ目を向けた。

赤茶色の泥が厚く付いていた。

この辺りの沢底は灰色の砂と黒い火山岩が多い。赤い粘土質の泥は、少なくとも目の前の場所にはない。

遠くで笛の音がした。救急車のサイレンではない。祭り囃子だった。

透子の足元に、小さな紙片が落ちている。

水に濡れ、文字がにじんでいた。男の手から落ちたのかもしれない。

拾うべきではない、と分かっていた。現場を動かしてはいけない。だが透子の目は、紙に書かれた文字を読んでいた。

二口は一つに戻る。

2、1、3。

透子は触れずに、スマートフォンで写真を撮った。

数分後、救急隊と警察が到着した。

静かな道は、たちまち人で埋まった。制服警官が規制線を張り、救急隊員が男の身体を確認する。透子は事情を聞かれ、発見した時刻と状況を答えた。

「お酒を飲んでいた可能性は?」

若い警官が訊いた。

「分かりません。私が見つけたときには、もう」

「祭りですからね。足を滑らせたのかもしれません」

人が死んだ直後には、まだ何も分からないはずだ。

それでも周囲へ集まった町の者たちは、すでに同じ言葉を使い始めていた。

「酔って落ちたんだろう」

「祭りの夜だからな」

「気の毒だけど、事故だ」

やがて、男の身元が判明した。

相沢玲司、四十七歳。温泉水源管理会社の社員。

「相沢さん、昨日もうちへ来たぞ」

「配管の写真を撮ってた」

「組合と揉めていたらしい」

警察官が相沢の所持品を一つずつ透明な袋へ入れていった。財布、社員証、鍵、スマートフォン。胸ポケットから濡れていない名刺入れが出た。

やはり上着の内側は乾いている。

相沢が水へ落ちたとき、上着を着ていなかった可能性がある。誰かがあとから着せたのか。それとも肩へ掛けた状態で流されたのか。

「遺体へ触れた人はいますか」

透子は警官へ訊いた。

「あなた以外には確認していません」

「上着の内側が乾いています」

警官は一瞬、面倒そうな顔をしたが、鑑識員を呼んだ。鑑識員は手袋で襟を持ち上げ、内側を撮影した。

「発見時から、この状態でしたか」

「はい。シャツとズボンは濡れていました」

「分かりました」

透子は少し離れたところに、相沢の会社の作業車が停まっているのを見つけた。運転席のドアは閉まり、フロントガラスの内側に駐車許可証がある。

若い作業員が警察へ説明していた。

「相沢さんは午後から単独点検です。祭りの交通規制があるから、旧配湯所へ行くと言ってました」

「旧配湯所とはどこです」

「水岬の裏です。でも、使ってない設備ですよ」

「何時に戻る予定でしたか」

「九時には会社へ鍵を返すはずでした」

作業員は時計を見て、唇を噛んだ。

「連絡は?」

「八時半に一度かけました。出なかった。祭りで聞こえないんだと思って」

透子は時刻を記憶した。

相沢の遺体が見つかったのは午後九時過ぎ。少なくとも八時半には電話へ出られない状態だった可能性がある。

「温泉街で人が死んでます」

「祭りを映しに来たのに、隠すんですか」

「見せ物じゃない」

「事故なら隠す必要ないでしょう」

事故なら。

透子は由紀を見た。

由紀は祭りの公式配信を止めたスマートフォンを胸へ抱き、相沢から視線を離せずにいる。画面には未送信の投稿文が残っていた。

背後で救急隊が白い布を広げた。

画面の言葉と現実の間に、白い湯気が流れた。

「道を空けてください」

よく通る女の声がした。

人垣が割れ、旅館「水岬」の女将、三浦清司が現れた。薄鼠色の着物に、紺の帯。祭りの世話役をしていたのだろう、胸元には組合の名札が付いている。

三浦は救急隊の動きを一瞥し、次に規制線の外へ増え始めた観光客を見た。

「こちらは石段街から見えますか」

「何ですか」

「騒ぎが広がれば、危険です。見物の方が集まって二次事故になるかもしれません。祭りの誘導路を変えます」

筋は通っている。しかし三浦の視線は、倒れた相沢よりも、スマートフォンを向ける観光客へ長く留まっていた。

「相沢さんを、ご存じですか」

透子は思わず訊いた。

三浦はゆっくり振り向いた。

「もちろん。水源管理の方ですから」

「最近、何か問題を抱えていたかは」

「あなたは?」

「発見者です」

三浦の目が、透子の顔を確かめるように細くなった。

「霧島さんのお孫さんね」

祖母の名ではなく、家を示す言い方だった。

「ええ」

「お戻りになったと聞いていました。大変でしたね」

何が大変だったのかは、言わなかった。祖母の死か、十年前の一家離散か、新聞社を辞めたことか。

水岬の従業員、片桐由紀だった。宿のSNSを担当し、祭りでも動画を撮っていたはずだ。いつもは明るい笑顔を画面に向けているが、今は顔から血の気が失せていた。

「片桐さん」

警官に呼ばれ、由紀は肩を震わせた。

「相沢さんをご存じですね」

「仕事で……水源の点検に来る方ですから」

「それだけですか」

「はい」

答えは早かった。だが視線は相沢の顔から離れない。

救急隊が遺体を覆う白い布を持ち上げたとき、由紀は口元を押さえて背を向けた。

その少し離れた石垣の陰に、野々村典子がいた。

閉鎖された湯治宿「清泉寮」の元管理人。六十を過ぎ、今は小さな共同浴場の掃除を請け負っている。透子の祖母とは古い知り合いだった。

野々村は白布の下の相沢を見つめ、唇を動かした。

「また湯が人を呑んだ」

「今、何と?」

透子が近づくと、野々村ははっとしたように首を振った。

「何でもないよ」

「また、と言いましたね」

「聞き間違いだ」

野々村は踵を返し、湯気の中へ消えた。

救急車が相沢を運び去り、警察は現場の写真を撮り続けている。透子は紙片が証拠袋へ入れられるのを見た。

二口は一つに戻る。

遺書には見えなかった。酔った男が偶然書く文でもない。

「霧島さん」

背後から三浦の声がした。

「今夜見たことは、警察にだけお話しください。憶測が広がれば、亡くなった方にも町にも良いことはありません」

「憶測かどうかは、まだ分かりません」

三浦は微笑んだ。温泉旅館の女将が客を迎えるときの、隙のない笑みだった。

「だからこそです」

透子は返事をしなかった。

相沢の遺体を乗せた救急車が去ったあと、水沢には濡れた石と規制線だけが残った。

透子は救急車の赤い尾灯を見送りながら、幼いころ父とこの道を歩いた記憶を思い出した。

父は水路を指して、温泉街の下には人間の身体と同じように管が通っていると言った。太い管、細い管、止めてはいけない管。どこか一つを勝手に変えれば、離れた場所で湯が出なくなる。

「町も同じだ」

父は笑っていた。

「見えないところで、全部つながってる」

今夜、相沢の遺体も見えない流れを通ってここへ来たのではないか。

「温水が混じると、死亡時刻はずれますか」

透子が訊くと、鑑識員は顔を上げた。

「体温だけでは判断しにくくなります」

「遺体が別の場所から流された可能性は」

「捜査員へ話してください」

規制線の向こうで、三浦が祭りの係へ細かく指示を出している。観光客を別の道へ誘導し、露店へ閉店時刻を伝え、宿泊客には事故と説明するよう統一していた。

同時に、事実の形まで彼女が決めているように見えた。

事故。

物語は、警察の結論より先に流れ始めていた。

警察の現場確認が一段落すると、透子は救急車が向かった病院へ同行するよう求められた。

発見時の遺体の状態を、医師へ直接説明するためだった。

夜間入口の待合室には、相沢の会社の者が三人集まっていた。増田もその中にいたが、この時点では名前を知らなかった。作業着の胸へ帽子を押し当て、床を見つめている。

「ご家族は?」

警官が訊くと、年配の上司が答えた。

「妹さんが県外から向かっています。独身で、一人暮らしです」

「最近、健康上の問題は」

「ありません。酒もほとんど飲まない」

「相沢さんは、旧配湯施設へ行くと言っていましたか」

「あなたは?」

「発見者です」

「社員の業務については、警察へ話します」

増田が顔を上げた。

「相沢さん、今日の昼、古い水路を見つけたって言ってました」

「増田」

「今は憶測を話すな」

「でも」

「会社へ戻れ」

増田は唇を結び、透子の横を通り過ぎた。すれ違う瞬間、小さく言った。

「相沢さんは事故じゃない」

透子が振り向いたときには、増田は自動ドアの外へ出ていた。

診察室で、透子は医師と警察官へ発見時の状況を説明した。

遺体の向き。

「手に何か握っていましたか」

「握ろうとした形でした。近くに紙が落ちていました」

「水中で死亡した場合、死後硬直や筋肉の収縮でそう見えることもあります」

「上着の内側が乾いていたのは?」

「現段階では答えられません」

透子が記者だったころ、医師や警察のその態度を「歯切れが悪い」と感じることがあった。今は、曖昧さを残すことが誠実な場合もあると分かる。

待合室へ戻ると、三浦がいた。

病院まで来た理由を訊くと、「会社の方だけでは心細いでしょうから」と答えた。相沢の上司へ今後の宿泊や家族の迎えについて申し出ている。

「相沢さんは水岬へ来ていましたか」

透子が訊いた。

「水源の方ですから、定期的に」

「今日も?」

「祭りの日は忙しく、全員の出入りを見ていません」

「旧配湯施設へ行くと言っていたそうです」

三浦は一瞬、増田が去った自動ドアを見た。

「使われていない場所です」

「なぜ相沢さんは行ったんでしょう」

「本人にしか分かりません」

その本人は、白い扉の向こうで死因を調べられている。

三浦は透子へ近づき、声を落とした。

「霧島さん。発見したことで、気持ちが高ぶっているのだと思います。今夜は休んでください」

「相沢さんは休めません」

「亡くなった方へできることは、静かに送ることです」

「何があったかを知ることもです」

三浦は悲しそうに見える微笑みを浮かべた。

「知ることで、送れなくなることもあります」

病院を出ると、祭り帰りの車が山道に連なっていた。人々は今夜起きた死を知らないか、知っていても旅の思い出を持って町を去る。

相沢の死は、すでに町に残る者の問題になり始めていた。

透子は届けるはずだった黒い鞄を警官から返され、持ち主の宿泊客へ渡した。男は何度も礼を言ったあと、規制線の方を気にしながら小声で訊いた。

「本当に事故なんですか」

「まだ分かりません」

「旅館の人は、事故だって」

祭りは予定より三十分早く終了した。太鼓が止み、提灯の灯りが一つずつ消される。警察車両の青い光だけが、濡れた石壁を不規則に照らしていた。

片桐由紀は、警察の聞き取りを受けたあとも帰ろうとしなかった。水岬の支配人らしい男が迎えに来て、「女将がお呼びだ」と告げると、ようやく規制線から離れた。

すれ違いざま、透子と由紀の目が合った。

由紀の目には、悲しみだけではないものがあった。

恐れ。

そして、何かを隠した人間が、自分の隠し方を間違えたと気づいたときの焦り。

透子は新聞記者時代、何度もその目を見たことがある。

民宿へ戻ると、女将が玄関を開けたまま待っていた。

「無事だったの」

「私は」

それだけ言うと、女将は透子の肩を抱いた。五十を過ぎた女将の手は、厨房仕事で少し荒れていた。

「亡くなった人は?」

「相沢玲司さん。水源管理会社の」

女将の手が止まった。

「知ってる?」

「この町で水源の人を知らない旅館はないよ。無口だけど、仕事は丁寧な人だった」

「最近、何か問題は?」

「透子ちゃん」

女将は困ったように笑った。

「その顔、記者をしていたころと同じだよ」

「質問しただけ」

「質問から始まるんだろう」

透子は上着を脱いだ。袖に沢の水が付いている。硫黄と湿った土の匂いが、自分の身体から漂った。

「相沢さんの靴に、ここにはない泥が付いてた」

「警察に言った?」

「言った。紙もあった」

「なら、あとは任せなさい」

「みんな、事故だと言うのが早すぎる」

女将は玄関の戸を閉めた。

「祭りの夜に人が死んだ。町の人は怖いんだよ。事件だったらどうしよう、客が帰ったらどうしようって。事故だと思いたいんだ」

「思いたいことと、起きたことは違う」

「分かってる。でも、人は起きたことだけでは暮らせない」

部屋へ戻っても眠れなかった。

相沢の半開きの目。

赤茶色の泥。

乾いた上着。

二口は一つに戻る、という文字。

ノートを開き、見たことを時系列に書いた。発見時刻。遺体の向き。水の流れ。三浦が現れた時刻。由紀の言葉。野々村の呟き。

記者を辞めるとき、取材ノートはすべて処分したはずだった。

だが手は、事実を項目に分けるやり方を覚えていた。

午前二時を過ぎたころ、外で車の音がした。

窓から見ると、水岬の送迎車が坂を下っていく。後部座席に人影が一つあった。街灯の下を通った瞬間、三浦清司の横顔が見えた。

透子はナンバーと時刻をノートへ書いた。

観光客が投稿した映像には、太鼓、提灯、笑う人々が映っている。撮影時刻を追うと、相沢の足取りを断片的に見ることができた。

午後七時五十二分。石段街の下で、濃紺のシャツを着た相沢が画面の端を横切る。上着は腕に掛けている。

午後八時三分。水岬の裏口近くを撮った別の動画に、相沢らしい男と着物姿の女が一瞬映る。女の顔は提灯に隠れていたが、帯は濃紺だった。

午後八時十四分。祭り会場の公式映像では、三浦が壇上で挨拶をしている。

時間が合わないように見えた。

だが公式映像は生配信ではなく、開始前に撮影した挨拶を途中で流したものだった。画面の隅に表示された時刻と、背後の太鼓の進行がずれている。

由紀が編集を担当していたはずだ。

午後八時半以降、相沢の姿はどの映像にもなかった。

透子は映像のアドレスと時刻をノートへ記録し、消される前に画面を保存した。

映像は真実を映す。

だが、切り取られた範囲と表示された時刻を信じれば、簡単に別の物語になる。

由紀が相沢との関係を隠したのも、祭りを守るために映像を整えたのも、同じ選択の延長にあるのかもしれない。

午前四時、透子は由紀へメッセージを送った。

既読はつかなかった。

窓の外で、最初の雨粒が屋根を叩き始めた。

翌朝、祭りの音が嘘のように消えた町には、雨が降っていた。

民宿の玄関を掃いていると、郵便受けに白い封筒が入っているのを見つけた。切手も消印もない。誰かが直接置いたものだ。

宛名は、霧島透子様。

中には一枚の写真が入っていた。

暗い地下通路。錆びた配管。壁を横切る太い亀裂。その奥に、コンクリートで塞がれたような灰色の面が写っている。

写真の裏には、黒いペンで一行だけ書かれていた。

霧島さんなら、壁の音を覚えている。

透子の指から、写真が滑り落ちた。

十年前、町を出る直前の父の手を思い出した。

爪の間に、赤茶色の泥が詰まっていた。

第二章 死体のポケット

相沢玲司の死は、翌朝の地方紙に小さく載った。

祭りの夜、水路へ転落か。

見出しはそれだけだった。本文にも事件性を示す言葉はなく、飲酒の可能性を含めて警察が調べている、と結ばれていた。

民宿の食堂では、宿泊客が新聞を広げながら「昨日の近くですよね」と女将へ訊いた。女将は笑顔で「少し離れていますし、危ない場所へ入らなければ大丈夫ですよ」と答えた。

その言い方も、町がすでに用意した言葉のようだった。

透子は厨房で味噌汁をよそいながら、差出人不明の封筒をエプロンのポケット越しに意識していた。

写真は誰が撮ったのか。

なぜ相沢の死の翌朝に届けられたのか。

そして、壁の音とは何なのか。

幼い頃、父に連れられて旅館の地下設備室へ入った記憶がある。配管を叩くと、場所によって音が違った。中が詰まっていれば鈍い音、空洞なら響く音がする。父はそう教えてくれた。

けれど十年前の事故について、父は何も語らなかった。

朝食の片付けが終わるころ、透子のスマートフォンが震えた。

元同僚の地方紙記者、白石だった。

「相沢さんの件、首を突っ込んでる?」

挨拶もなく訊かれた。

「発見しただけ」

「それを首を突っ込んでるっていうんだよ。君の場合は」

「警察は事故だと?」

「今のところはな。ただ、所持品に妙なものがあった」

透子は裏口から外へ出た。雨は上がっているが、石畳は黒く濡れている。

「何」

「古い真鍮の鍵。タグに『清泉・三』って刻んである」

透子は黙った。

「知ってるのか」

「清泉寮なら。二十年前に閉鎖した湯治宿」

「そう。今は一部が倉庫扱いらしい。警察は、仕事で持っていた可能性があると見てる」

「相沢さんの靴の泥は?」

「何で知ってる」

「見たから」

白石は電話の向こうでため息をついた。

「赤い泥だろ。鑑識は採ってる。発見場所とは違うかもしれない。でも、山の中なら似た土はある」

「紙のメモは」

「二口は一つに戻る、か。意味不明。遺書でもなさそうだ」

「死因は?」

「頭部打撲と溺水の疑い。正式には司法解剖待ち。これ以上は記事になる前に喋れない」

「十分よ」

「透子」

白石の声が低くなった。

「新聞社を辞めたんだ。今度こそ、他人の人生を背負う必要はない」

「背負ってない」

「そう言うときの君は、もう背負ってる」

通話が切れた。

透子は濡れた石段を見下ろした。

記者ではない。調べる義務も、記事にする権利もない。

それでも、相沢の死を事故という言葉で閉じるには、違和感が多すぎた。

昼休み、透子は共同浴場の裏手へ向かった。

野々村典子は、竹箒で落ち葉を集めていた。小柄な身体に濃い色の作業着を着て、髪を後ろで一つに束ねている。

「昨日のことを聞きたいんです」

透子が言うと、野々村は箒を動かしたまま答えた。

「警察には話したよ。私は何も見てない」

「『また湯が人を呑んだ』と言いました」

「言ってない」

「聞きました」

「祭りで耳がおかしくなったんだろう」

野々村は落ち葉を塵取りへ集め、背を向けた。

「相沢さんは、清泉寮の鍵を持っていました」

「『清泉・三』と刻まれた鍵です」

野々村の肩が、わずかに上がった。

「清泉寮の三番倉庫でしょうか」

「知らない」

「最後の管理人だったあなたが?」

「二十年前のことだ。忘れたよ」

「相沢さんは、そこで何を調べていたんです」

野々村は振り向いた。目の下に深い影があった。

「霧島のばあさんは、あんたに何も言わなかったのかい」

「何をですか」

「なら、そのままにしておきな」

「父の事故と関係がありますか」

野々村の顔から、残っていた色が消えた。

「帰りな」

「野々村さん」

「帰れ!」

直後、野々村は自分の声に怯えたように口を閉じた。箒を壁へ立てかけ、共同浴場の裏口から中へ入ってしまった。

片桐由紀からだった。

午後九時、透子は民宿近くの閉店した喫茶店の軒下で由紀を待った。

雨がまた降り始めていた。石段の上から、傘を差した由紀が下りてくる。仕事帰りらしく、水岬の制服の上に薄いコートを羽織っていた。

「急にすみません」

「相沢さんのことですね」

由紀は答えず、周囲を見回した。

「ここでは」

二人は民宿の裏にある小さな談話室へ入った。宿泊客が使わない時間帯で、古い柱時計の音だけが響いている。

由紀は椅子に座るなり、両手を膝の上で組んだ。

「記事にするんですか」

「私はもう記者ではありません」

「でも、調べてる」

「そう見えますか」

「町の人が言っています。霧島さんの娘が、また嗅ぎ回ってるって」

娘、という言葉に透子は引っかかった。祖母の孫ではなく、父の娘として見られている。

「また、とは?」

「知りません」

由紀は顔を伏せた。

「お願いです。事故を事件みたいにしないでください。今、秋の予約を取る大事な時期なんです。殺人なんて言葉が出たら、一気にキャンセルされます」

「相沢さんが事故で亡くなったと思っていますか」

「警察がそう言ってるなら」

「警察は、まだ調べています」

「同じことです」

「違います」

由紀は唇を噛んだ。

そのとき、テーブルの上に置かれた由紀のスマートフォンが光った。

通知画面に、名前が表示された。

相沢玲司。

由紀さん。君のお父さんは――

由紀は素早くスマートフォンを裏返した。

「仕事で顔を知っているだけ、と警察に言いましたね」

「見たんですか」

「未読のメッセージが残っている」

「関係ありません」

「相沢さんは、あなたのお父さんについて何を知っていたんです」

由紀は立ち上がった。

「帰ります」

「片桐直人さん」

名前を口にすると、由紀の動きが止まった。

透子は二十年前の新聞記事を覚えていた。水源設備の保守をしていた男が、家族を残して失踪した。金銭問題や女性関係が噂されたが、行方は分からないままだった。

「相沢さんは、あなたの父親を調べていた」

由紀は背を向けたまま言った。

「父は逃げたんです」

「相沢さんは、そうではないと言った?」

長い沈黙のあと、由紀は椅子へ座り直した。

「三週間前、相沢さんから連絡が来ました。父の失踪について話したいって」

「親しい関係だったんですね」

「最初は違いました。水源管理の取材みたいなものだと思っていました。私は旅館のSNSで昔の写真を集めていて、父が写った写真も載せたことがあるから」

声がかすれた。

「でも、何度か会ううちに……相沢さんは、父が町を出た記録がないと言いました。車も、電車も、宿泊記録もない。父は逃げたんじゃなく、この町から出られなかったのかもしれないって」

「何を根拠に」

「古い配湯記録です。父が失踪した日の夜、清泉寮の地下で緊急工事があった。なのに工事の記録には、作業員の名前が一人もない」

「清泉寮の鍵を相沢さんが持っていた」

「三番倉庫です」

由紀はようやく透子を見た。

「父が使っていた工具や図面を、野々村さんがそこへしまったと聞いたことがあります」

「誰から?」

「父から。子どものころ、裏口の開け方も教わりました。『鍵がなくても入れる道はある』って、ふざけて」

「今夜、行けますか」

由紀の顔に迷いが浮かんだ。

「警察の鍵を待つべきです」

「警察は事故として調べている。相沢さんが何を見つけたか分からないまま、倉庫の中身が消えたら?」

「誰が消すんです」

「それを確かめるんです」

由紀はスマートフォンのロックを解除し、相沢とのやり取りを開いた。

古い写真について確認したい。

片桐直人さんが写っている場所を教えてほしい。

やり取りは事務的に始まり、やがて父の失踪へ移っている。相沢は断定を避けながら、資料の欠落、移動記録の不在、清泉寮の緊急工事について質問していた。

透子は画面をスクロールした。

『直人さんが町を出たという証拠はありません』

『だからといって、町に残った証拠にもならないでしょう』

『残ったのではなく、残された可能性があります』

その返信まで、由紀は数日間空けていた。

「怖かった?」

「腹が立ったんです」

由紀は言った。

「父が被害者だったなんて言われたら、二十年憎んできた自分が何だったのか分からなくなる。母は、父が借金を作って逃げたって言ってました。祖母は何も言わなかった。町の人は、男にはそういうこともあるって」

「借金の記録は?」

「相沢さんが調べた限り、なかったそうです」

メッセージには、相沢が由紀を気遣う言葉が増えていった。

会う場所は由紀が決めてよい。

今日の水沢の写真はきれいでした。

由紀は画面を伏せた。

「恋人だった、と言えるほどではありません」

「相沢さんは、そう思っていたかもしれない」

「分かりません。分からないまま死んだんです」

読むかどうかを決めるのは由紀だった。

「警察には、全部見せましたか」

「父の話以外は」

「なぜ隠したの」

「町の人に知られたくなかった。父のことを調べていたと広まれば、また何を言われるか」

「隠すほど疑われる」

「分かっています」

由紀は窓の外を見た。

「でも、この町では事実より先に関係が広がるんです。誰と会った、誰の娘だ、どこの旅館に逆らった。説明する前に、居場所がなくなる」

透子には、その感覚が分かった。

十年前、父の事故が起きたとき、透子の友人たちは急に連絡をよこさなくなった。直接責められたことはない。ただ、教室で隣の席が空き、帰り道に一人になった。

排除は、言葉より静かに行われる。

「清泉寮へ行く前に、相沢さんの最後のメッセージを読んだ方がいい」

「今ですか」

「読まずに行けば、何を探していたのか見落とすかもしれない」

由紀は長い間画面を見つめ、指を動かした。

『由紀さん。君のお父さんは逃げていない。清泉寮の三番倉庫に、直人さんが残した配湯図がある。第二湯口という言葉を覚えておいてください。今夜、三浦さんと話します。明日の祭りが終わるまでに連絡がなければ、このメッセージと資料を警察へ見せてください』

送信時刻は、相沢が死亡したと見られる三時間前だった。

由紀は何度も読み返した。

「三浦さんと会うって、書いてある」

「警察へ見せるべきです」

「そうしたら、今夜は清泉寮へ入れなくなる」

「証拠を優先するなら、そう」

「透子さんは、どっちを優先するんですか」

警察へ渡し、許可を待つべきだ。

だが相沢が鍵を残し、誰かが透子へ写真を届けた。倉庫の中身は、今も残っているとは限らない。

「画面を撮らせて」

透子はメッセージを自分の端末へ記録した。

「今夜、何も見つからなければ、すぐ警察へ渡します」

「見つかったら?」

「見つかったものと一緒に渡す」

由紀は苦い顔で笑った。

「元記者って、都合よく危ないですね」

「否定できない」

午後、透子は久保田刑事から警察署へ呼ばれた。

「相沢さんの所持品について、どこから情報を得ましたか」

「答えられません」

「古い鍵のことを片桐さんへ伝え、清泉寮へ入ろうとしているという話があります」

透子は表情を変えなかった。

「町の噂ですか」

「あなたの行動は目立つと言ったでしょう」

「清泉寮を警察は調べないんですか」

「鍵の照合はします。所有者へ連絡し、立ち会いを求めています」

「所有者は誰です」

「旅館組合の管理法人です」

「三浦さんが役員ですね」

「だからといって、証拠を消すと決めつけないでください」

久保田は机から古い住宅地図のコピーを出した。

「あなたが見つけたメモの数字、二、 一、三。地番の可能性を調べましたが該当しない。配管番号、弁番号、棚番号の可能性もある」

「清泉・三は三番倉庫。二、 一、三は順番かもしれません」

「何の順番です」

「二口が一つに戻り、三へ流れる」

「推理は結構です。今は事実だけを」

「事実は、相沢さんが清泉寮の鍵を持って死んだことです」

久保田は地図を片づけた。

「今夜、清泉寮へ行かないでください」

「行くとは言っていません」

「では、約束できますか」

「あなたの父親の件も調べています」

その言葉に、透子は目を上げた。

「十年前の設備事故記録は、旅館組合の提出資料しか残っていない。警察の現場写真が数枚あるだけです」

「見せてもらえますか」

「今はできません。ただ、封鎖壁の写真がありました」

「相沢の写真と同じ壁?」

「判断できません」

久保田は少し声を落とした。

「霧島さん。あなたが疑っているものが、父親の過去とつながっている可能性はあります。だからこそ、冷静でいてください」

「冷静なら、待てますか」

「生きていれば、調べる時間があります」

正しい。

だが相沢には、もう時間がなかった。

「私のかもしれません」

由紀が言った。

「二十年も?」

「野々村さんは、何でも捨てない人だから」

由紀は下駄へ触れず、しゃがんで見つめた。

「父が仕事をしてる間、ここで待ってました。宿のお客さんに遊んでもらって、帰るころには湯の匂いが服に付いてた」

「失踪した日のことは?」

「夕方、父が家へ電話をかけてきた。今日は遅くなるって」

「声は普通でしたか」

「母は怒ってました。私の誕生日の前日だったから」

透子は由紀を見た。

「誕生日?」

「父は、帰ったら赤い自転車を買うって約束してた。次の日、玄関に自転車だけ届いたんです。父はいなかった」

「誰が届けたの」

「水岬の人。父が事前に頼んでいたって」

「三浦さん?」

「若い女将さんだった。私の頭を撫でて、お父さんは遠くへ行ったと言いました」

由紀は立ち上がった。

「優しい声でした。だから、ずっと覚えてる」

三浦は直人が地下にいることを知りながら、娘へ自転車を届けたのか。

「最近、誰かが入っています」

「相沢さんかもしれない」

「一人ではない」

大きな作業靴の跡に、小さな長靴の跡が重なっている。雨で輪郭は崩れているが、歩いた時期は新しい。

透子は写真を撮った。

「閉鎖した宿なのに」

由紀が手をかざす。

「地下では設備が動いている」

穴の周囲に赤茶色の泥が付着していた。

相沢の靴底と同じ色。

透子は採取せず、位置と大きさを撮影した。

「警察へ送りますか」

「送れば今夜は入れなくなる」

「また、それですか」

由紀の口調に責める響きがあった。

透子は写真を久保田へ送った。

「送った」

「意外です」

「証拠を消される前に、警察にも場所を残す。でも、今夜のことはまだ言わない」

「半分だけ正しい」

「あなたもでしょう」

清泉寮を離れるとき、由紀は子ども用の下駄を一度振り返った。

「父が戻るまで、野々村さんが残したのかもしれない」

「そうかもしれない」

出発までの間、二人は清泉寮の古い写真を調べた。由紀が保存していた町の広報誌には、現役時代の宿内図が載っている。三番倉庫は配管部品庫で、その下に小さな機械室がある。

透子は図へ印を付けた。

「床下に何かある」

「第二湯口へ続く?」

「分からない。でも、相沢さんの鍵は倉庫の扉だけじゃなく、棚や床下収納の鍵かもしれない」

由紀は父が写った写真を一枚取り出した。

若い直人が、清泉寮の前で工具箱を持っている。隣には幼い由紀が立ち、父の作業着の裾をつかんでいた。

「この工具箱、まだあるかもしれません」

「覚えているの?」

「青いペンキの傷。私が三歳のとき、クレヨンで線を引いて怒られた」

写真の工具箱には、黄色い線が一本残っている。

透子は写真も記録した。

清泉寮へ向かう前、由紀は祭りの編集前映像を透子へ渡した。

「警察にも出します」

「三浦さんと相沢さんが映っているかもしれない」

「確認しました。女将は八時前に裏口へ行っています。でも顔がはっきりしない」

映像には、三浦と似た帯の女が相沢へ小さな紙袋を渡す場面があった。相沢は中を確認し、上着を着ずに女のあとを追っている。

「紙袋は?」

「水岬が客へ出す薬草茶の箱に似ています」

由紀は唇を噛んだ。

「女将は祭りの夜、世話役へ差し入れを配っていました。誰が持っていてもおかしくない」

「相沢さんの上着が乾いていた理由も、ここで脱いでいたなら説明できる」

「でも遺体は上着を着ていた」

「誰かが着せた」

相沢を事故に見せるために。

由紀は映像を警察へ送信したあと、父の古い写真を鞄へ入れた。

清泉寮までの道は、幼いころ父と歩いた道だという。

「父は宿の裏で、石を三つ積んで目印にしてました。山で迷っても戻れるように」

「今もある?」

「分かりません」

由紀はしゃがみ、指で苔を払った。

「父が積んだものかは分からない。でも、そうだと思っておきます」

「事実じゃなくても?」

「全部、証明しなきゃ駄目ですか」

記録できないものにも、人が生きるための意味はある。

二人は石を崩さず、清泉寮へ向かった。

雨は十時過ぎに止んだ。

清泉寮は、石段街から車で十分ほど離れた斜面にあった。かつて長期の湯治客を受け入れた木造二階建ての宿は、屋根の一部が落ち、窓は板で塞がれている。正面には立入禁止の札が下がっていた。

由紀は建物の裏手へ回った。雑草をかき分け、石垣の横にある細い隙間へ入る。

「子どものころ、ここから父の仕事場をのぞいて怒られました」

朽ちた木戸の下へ手を入れ、内側の掛け金を細い針金で持ち上げる。二度失敗したあと、乾いた音がして扉が開いた。

二人はスマートフォンの灯りを頼りに廊下を進んだ。畳は湿り、踏むたびに沈む。壁にはかつての宿泊料金表が残り、昭和の数字が薄れていた。

三番倉庫は、廊下の突き当たりにあった。

扉の錠前は新しく交換されていたが、由紀は脇の板を押した。板が外れ、人一人が通れるほどの穴が現れた。

「父が直さずに残していたんです」

倉庫の中には棚が三列並んでいた。配管部品、古い湯桶、錆びた工具。埃が積もっているが、中央の床だけは誰かが最近歩いた跡がある。

「相沢さんだ」

由紀がしゃがみ込んだ。

赤茶色の泥が乾き、靴跡になっていた。

相沢の靴底と同じ色だった。

「帳簿があった」

水岬。

その横に、配湯量を示すらしい数字が手書きで訂正されていた。

由紀が壁を照らした。

「これ……」

古い配湯図が貼られていた。紙は黄ばみ、何かを剥がした跡が中央にある。現在使われている水路図とは形が違った。

二本の線が源泉から伸びている。

一方は共同配湯管へ。もう一方は、破線で水岬の地下へ向かっていた。

「こんなの、聞いたことがない」

由紀の声が震えた。

「相沢さんはこれを見つけた」

「父も?」

透子は図の端へ光を当てた。そこに、小さな手書きの署名があった。

片桐直人。

由紀が息を呑んだ。

その瞬間、廊下で木が軋んだ。

二人は振り返った。

「誰かいるんですか」

由紀が声を上げる。

返事はない。

透子は倉庫の穴から廊下へ出ようとした。だが、外側で金属音がした。

正規の扉が閉まり、錠が掛けられる音だった。

「待って!」

由紀が扉を叩いた。

「誰ですか! 開けて!」

足音が遠ざかる。

透子は板の穴へ向かった。入ってきたはずの隙間には、外から太い木材が差し込まれ、塞がれている。

「閉じ込められた」

暗闇のどこかで、配管が鳴った。

低い振動が床を伝い、棚の金具を震わせる。

次の瞬間、倉庫の隅にある排水口から、白い湯気が噴き出した。

熱い湯が、床板の隙間を満たしながら流れ込んでくる。

第三章 水の記録

湯は、音より先に熱を運んできた。

靴底を通して床が温まり、次いで白い蒸気が足元から立ち上った。排水口から噴き出した湯は、古い床板の傾きに沿ってゆっくり広がっている。最初はくるぶしにも届かない浅さだったが、流れは止まらない。

「窓は?」

透子が訊くと、由紀は倉庫の奥を照らした。

「板で塞がれてます」

「壊せるものを探して」

二人は棚から工具を引きずり出した。錆びたスパナ、曲がった鉄棒、柄の腐った金槌。透子は一番重い鉄棒を持ち、窓を塞ぐ板へ叩きつけた。

一度目は、鈍い音がしただけだった。

二度目で釘が浮いた。

三度目を振り下ろしたとき、熱い湯が靴の中へ入り、透子は声を上げそうになった。

「代わります」

由紀が鉄棒を奪い、全身で板を殴った。板は腐っていた。中央が割れ、夜の冷たい空気が細い線になって差し込む。

透子は棚を窓際へ寄せ、その上へ乗った。

「先に」

「でも」

「早く」

由紀が穴へ身体を入れた。割れた板でコートが裂ける。外へ転がり出た由紀の手を借り、透子も窓を抜けた。

二人が湿った草の上へ倒れ込んだ直後、倉庫の中で大きな破裂音がした。古い配管の継ぎ目が外れたのだろう。窓穴から濃い湯気が噴き出した。

「誰かいる」

由紀も振り向く。

光はすぐに消えた。草を踏む音だけが遠ざかる。

「待って!」

透子は追いかけようとしたが、濡れた斜面で足を取られた。相手は裏道を知っている。闇の中へ入れば、こちらが危険だった。

「警察に連絡します」

由紀がスマートフォンを取り出した。

「何て言うの」

「閉じ込められたって」

「不法侵入して?」

由紀の指が止まった。

「それでも、殺されかけたんですよ」

「そう。だから、偶然ではない」

誰かが扉を施錠し、配管を開いた。二人が中にいることを知っていた。清泉寮の構造と設備を知っている者だ。

「相沢さんも、ここへ来た」

透子は言った。

「靴に泥を付けて、第二湯口の図を見た。誰かは、それを知っていた」

「でも、父の図面があっただけです。殺すほどのことですか」

「帳簿が持ち去られていた」

由紀は黙った。

「私たちが見つけたのは、誰かが消し切れなかった痕跡です」

結局、二人は警察へ連絡した。

到着した久保田刑事は、四十代半ばの痩せた男だった。現場を一通り確認したあと、透子と由紀を車の脇へ立たせた。

「立入禁止の建物へ入った理由を、もう一度」

「相沢さんが鍵を持っていたと聞いたからです」

透子が答える。

「誰から」

「言えません」

「元記者は便利ですね。情報源の秘匿で何でも通ると思ってる」

「もう元です」

「余計に悪い。今のあなたには取材を正当化する立場すらない」

言葉は厳しかったが、久保田は二人の火傷の程度を何度も確認した。倉庫へ流れ込んだ湯の経路も、若い警官へ細かく指示している。

「扉を閉めた人物を見ましたか」

「見ていません。斜面に光が見えただけです」

「恨みを持たれる心当たりは」

「この町へ戻ったこと自体を、快く思わない人はいます」

久保田は透子を見た。

「十年前のお父さんの件ですか」

「ご存じなんですね」

「小さい町ですから」

「小さい町では、警察も同じ言葉を使うんですか。事故だった、仕方なかった、と」

久保田の目がわずかに険しくなった。

「挑発しても、捜査は早くなりません」

「相沢さんが発見場所で溺れたとは限りません」

「根拠は」

「靴の泥。上着の濡れ方。メモ。それに、第二湯口」

透子は倉庫で見た配湯図の写真を見せた。

久保田は画面を長く見つめた。

「この図は押収します」

「写真も?」

「データは消せと言いません。ただし、外へ出さないでください」

「事故ではない可能性を認めるんですか」

「可能性を調べるのが仕事です」

翌日から、透子は町の記録を調べ始めた。

最初に向かったのは市立図書館の郷土資料室だった。古い新聞縮刷版、観光統計、旅館組合の記念誌、温泉水源に関する行政資料。机の上へ積み上げるうち、かつての感覚が戻ってきた。

二十年前、町は深刻な観光不振に陥っていた。団体旅行の減少、設備の老朽化、さらに源泉の湧出量低下。半年の間に三軒の小規模旅館が休業し、清泉寮もその一つだった。

ところが翌年、老舗旅館を中心に宿泊者数が回復している。

公開された資料では、源泉から一日に供給できる量が減っているにもかかわらず、水岬を含む主要旅館への配湯量は増えている。さらに、小規模宿への配湯量を加えると、総計が源泉の湧出量を上回る月があった。

透子は数値を表計算へ入力し、月ごとの差を並べた。誤差と呼ぶには大きすぎた。しかも、片桐直人が失踪した月の前後三か月だけ、公開資料の原本番号が飛んでいる。

図書館の閉館音楽が流れるまで、透子は画面を見つめていた。

「探し物は見つかった?」

声をかけたのは、白石だった。取材鞄を肩に掛け、紙コップのコーヒーを二つ持っている。

「監視?」

「差し入れ。あと、忠告」

白石は向かいへ座った。

「相沢の会社から、古い流量データが一部なくなってる。警察も確認してる」

「三か月分?」

「なぜ知ってる」

透子は画面を見せた。

白石は数字を追い、口笛を吹きそうな顔をした。

「これ、単なる改ざんなら大きいぞ」

「単なる改ざんという言い方も変だけどね」

「相沢はこれを追って殺された、と?」

「まだそこまでは」

「昔なら、もう見出しまで決めてた」

「昔の私は、急ぎすぎた」

白石は何も言わなかった。

透子が新聞社を辞める原因となった記事を、彼も知っている。地方議員の不正を暴いた記事だった。議員は辞職したが、家族の住所までネットに晒され、娘が学校へ通えなくなった。透子は事実を書いただけだった。だが、事実の外側で起きることに無関係ではいられなかった。

「今度は急がない」

透子は言った。

「でも、止まらない」

透子は公開資料を作成した現役の水源管理技師、増田にも話を聞いた。

増田は相沢の後輩で、会社近くの駐車場へ来た。社内では取材に応じるなと言われているらしく、制服の上に私服の上着を羽織っていた。

「相沢さんは、いつから古い記録を?」

「半年くらい前です。自動流量計を更新したとき、実測値と請求上の配湯量が合わないことに気づいた」

「存在しない湯が配られていた」

「数字だけなら、計器の誤差や漏水で説明できます。でも相沢さんは、誤差の出方が毎月同じ旅館に有利だと言ってました」

「水岬?」

増田は答えず、周囲を見た。

「第二湯口を知っていますか」

「会社では、旧予備系統と呼んでいます」

「存在するんですね」

「図面上は廃止です。でも圧力計に、ときどき不自然な反応が出る」

「誰かが使っている」

「断定はできません。相沢さんは、夜間に現場で確かめると言ってた」

「祭りの夜ですか」

増田は頷いた。

「止めました。正式な調査にすべきだって。でも相沢さんは、社内にも関係者がいるかもしれないと言った」

「誰を疑っていた?」

「名前は言わなかった。ただ、古い鍵を見せて、『これが残っているうちに入る』と」

「相沢さんの机から資料が消えたそうですね」

増田の顔が強張った。

「警察から聞いたんですか」

「答えられません」

「元記者って、本当に嫌ですね」

「よく言われます」

増田は少し迷い、USBメモリを差し出した。

「相沢さんが、自分に何かあったら外へ出せと言ったデータです。受け取ってから怖くなって、開いてません」

「警察へ渡すべきです」

「あなたから渡してください」

「なぜ私に」

「会社へ知られたら、私はここで働けなくなる」

透子は受け取らず、久保田へ連絡した。増田自身から提出する形を作るためだった。

「逃げないんですね」

増田が言った。

「何から?」

「記事を先に書けるのに、警察へ渡す」

「私はもう記者ではありません」

「相沢さんは、あなたなら分かると言ってました」

「私のことを知っていた?」

「霧島修司さんの娘が町へ戻った。壁の件を調べるなら、話せるかもしれないって」

差出人不明の封筒を送ったのは相沢自身だった可能性がある。

死亡する前に投函を誰かへ頼んだのか、時間指定の配送を使ったのか。

相沢は透子が事件へ入ることを予想していた。

知らない死者に選ばれたようで、透子は重さを感じた。

一般客は入れない区域だが、増田が警察の立ち会いを条件に案内した。山肌には太い管が何本も走り、保温材の隙間から白い蒸気が漏れている。

「これが第一系統。こっちが共同浴場へ行く管です」

「第二系統は?」

「図面では、この先で切れている」

増田が示した管は、地中へ入り、水岬の方角へ向かっていた。廃止なら閉止板があるはずだが、ボルトには最近工具を当てた跡がある。

相沢が貼ったと思われる小さな測定シールも残っていた。

日付は死亡前日。

「相沢さんは、ここから流れを追った」

「はい。水は嘘をつかないって言ってました」

透子は地中へ消える管を見た。

水は嘘をつかない。

だが、人は水の行き先を書き換えることができる。

透子は図書館の司書に紹介され、当時の町役場で水源関係の書類を扱っていた退職職員、岸本を訪ねた。

岸本は石段街から離れた住宅地で一人暮らしをしていた。玄関先で透子の名を聞くと、すぐに顔を曇らせた。

「霧島修司の娘か」

「父をご存じですか」

「設備のことで何度か来た。真面目な男だったよ」

「十年前の事故では、父が設備を壊したことになっています」

岸本は返事をせず、庭の植木鉢へ水をやり続けた。

「相沢玲司さんが亡くなりました」

「ニュースで見た」

「二十年前の配湯記録を調べていました。源泉の湧出量より、旅館へ配った量の合計が多い月があります」

「帳簿の書き方が違うだけだ」

「どのように?」

「昔は推計も混じった」

「三か月分だけ原本番号が飛んでいるのも、書き方ですか」

岸本はじょうろを置いた。

「帰ってくれ」

「片桐直人さんの失踪翌日に、清泉寮の地下が緊急封鎖されています。工事の届け出を受けたのは、あなたの部署です」

「昔のことだ」

「覚えているんですね」

岸本は透子を睨んだ。

「町が潰れかけていたことを、あんたは知らない。役所へ毎日、旅館の人間が来た。税金を待ってくれ、融資をつないでくれ、湯を何とかしてくれって。首を吊ると言った経営者もいた」

「だから記録を変えた?」

「私は変えてない」

「誰が変えたか知っていますか」

「知らん」

長い沈黙のあと、岸本は家へ入り、古い封筒を持って戻った。

「これは役所の資料じゃない。私の手帳だ」

午後九時、清泉寮。配湯調整最終協議。

出席予定者の中に三浦清司、片桐直人、水源会社責任者の名がある。

「なぜ持っていたんです」

「直人が消えた翌日、会議はなかったことにされた。手帳を提出しろと言われたが、コピーだけ残した」

「誰に提出を?」

「聞くな」

「岸本さん」

「私は地下へ行っていない。何があったか見ていない。だが、翌朝の三浦さんは、着物の裾に赤い泥を付けていた」

透子はコピーを受け取らず、スマートフォンで撮影した。原本を奪う形にしたくなかった。

「警察へ話してください」

「今さら何になる」

「今、相沢さんが死んでいます」

「話せば、私も隠した側になる」

「話さなくても、もう隠した側です」

岸本は目を閉じた。

透子は言い過ぎたと思ったが、訂正しなかった。

「久保田という刑事へ、私から連絡してもいいですか」

「勝手にしろ」

岸本宅を出たあと、透子は水沢の上流と相沢発見地点で水を小瓶へ採った。さらに、清泉寮倉庫の床に残っていた赤い泥を、警察の許可を得て撮影した。

古い第二湯口から流れたとされる水には、鉄分の多い赤い沈殿ができるという記録があった。

相沢の靴底の泥は、死者がどこを歩いたかを語っている。

水は流れて痕跡を消す。

だが、流れた場所の成分を身体と靴へ残す。

図書館へ戻ると、白石から古い新聞の追加資料が届いていた。

二十年前、清泉寮の閉鎖を報じる記事。経営者は「湯量不足と後継者難」を理由に挙げている。一方、同じ紙面には水岬の大浴場改装の記事が載っていた。

透子は二つの記事を並べてコピーした。

記事は嘘を書いていない。

増田が提出したデータには、相沢が作成した比較表が入っていた。

現在の自動流量計、旅館への請求記録、二十年前の手書き帳簿。三種類の数字を重ねると、水岬へ向かう系統だけ、夜間に説明できない増加がある。

相沢は表の横に書いている。

誰が弁を開けるのか。

透子はその一文を久保田へ送った。

「会社の管理記録を押収できますか」

「令状を検討しています」

「検討している間にも、ログは消せる」

「すでに保全を要請しています」

「要請に従う相手なら、相沢さんは一人で調べなかった」

「霧島さん」

久保田の声が硬くなる。

「警察が遅いと感じるのは分かります。だが、急いで手順を飛ばせば、見つけた証拠が裁判で使えなくなる」

透子は黙った。

事実を見つけることと、罪を証明することは違う。

記者だったころは、公開できれば仕事は終わった。警察は、その先を引き受ける。

「分かりました」

「本当に?」

「少なくとも、今の説明は」

久保田はため息をついた。

「あなたが納得したのは初めてですね」

その直後に、水岬からの電話が鳴った。

午後、透子は相沢が残した数値を地図へ落とし込んだ。

白石が地図を見て言った。

「これが事実なら、三浦だけじゃなく、町の歴代幹部が知っていた可能性がある」

「だから誰も話さない」

「記事にするか」

「まだ」

「相沢が殺されたなら、早く外へ出した方が安全だ」

「未確認の地図を出せば、関係のない旅館まで犯人扱いされる」

「昔の君なら出した」

「何度も言わないで」

白石は少し黙り、名刺の裏へ個人番号を書いた。

「危険だと思ったら、警察より先でもいい。電話しろ」

「記者に助けを求めると、記事にされそう」

「取材源は守る」

「私は取材源じゃない」

「友人だと言うと、君は逃げるだろ」

透子は名刺を受け取った。

新聞社を辞めてから、元同僚との連絡を避けてきた。自分が失敗した場所とつながるのが怖かった。

しかし真実を一人で抱えれば、相沢と同じ危険へ近づく。

透子は地図のコピーを白石へ預けた。

「私に何かあったら、久保田さんへ」

「記事じゃなく?」

「まず警察」

「成長したな」

「腹が立つ」

久しぶりに、透子は少しだけ笑った。

その直後、旅館水岬から電話が鳴った。

夕方、旅館水岬から電話が来た。

三浦清司が会いたいという。

水岬は石段街の上部に建つ老舗旅館だった。磨かれた木の廊下、季節の花、控えめな香。従業員は客の名前を覚え、幼い子どもには目線を合わせて話す。三浦の経営手腕と接客は、町でも敬意を集めていた。

壁に旅館組合の表彰状と、昔の集合写真が飾られている。

「お忙しいところ、ごめんなさいね」

三浦は湯呑みを差し出した。

「こちらこそ」

「清泉寮へ入ったそうですね」

町は警察より情報が早い。

「誰から聞きましたか」

「心配した方がいたんです。建物は危険ですから」

「閉じ込めた人も、心配していたんでしょうか」

三浦の表情は変わらなかった。

「事故だったと聞いています」

「扉は外から施錠されました」

「古い建物です。歪んだのでは?」

「配管も偶然開いた?」

三浦は湯呑みに視線を落とした。

「霧島さん。あなたは、お父様によく似ている」

透子の背中が固くなった。

「思い込みが強くなると、周りの声が聞こえなくなるところが」

「父の事故を、詳しくご存じなんですね」

「当時、私は旅館組合の役員でした。お父様は水岬の設備にも関わっていましたから」

「何を壊したんです」

「古い点検路へ無断で入り、配管と封鎖壁を傷つけた。湯が止まり、宿泊客を移さなければならなくなりました」

「封鎖壁?」

三浦は一瞬だけ黙った。

「使われていない区画を閉じた壁です」

「父はなぜ入ったんです」

「本人に聞くべきでしょう」

「答えてくれません」

「なら、それが答えなのではありませんか」

三浦は続けた。

「あなたが相沢さんの死を気にする気持ちは分かります。発見者ですもの。でも、不確かな疑いで町の過去を掘り返せば、傷つく人がいます」

「すでに一人、死んでいます」

「だからこそ、静かに弔うべきです」

透子は返事をせず、壁の集合写真へ目を向けた。

二十年前の旅館組合の写真。若い三浦が中央に立ち、その後ろに野々村典子がいる。作業着姿の男が二人、端に写っていた。

一人は片桐直人。

もう一人は、父の霧島修司だった。

「この写真を見ても?」

三浦は立ち上がり、額を壁から外した。

「懐かしいものです」

透子はスマートフォンを出した。

「撮影はご遠慮ください」

「なぜです」

「個人の顔が写っていますから」

透子は写真の背景を見た。

人々の後ろに、配管の標識がある。青く塗られた弁の上に、白い数字で「2」と記されていた。

「これはどこですか」

三浦が額を抱える手に、わずかに力が入った。

「昔の設備です。もうありません」

「清泉寮ですか」

「覚えていません」

三浦は写真を伏せて机へ置いた。

透子は相沢のメモを思い出した。

二口は一つに戻る。

二つの湯口が、地下で一つの排水路へ合流する。

もし相沢が第二湯口の近くで溺れたなら、遺体は排湯に流され、水沢脇の取水柵まで運ばれる。

発見場所は、死亡場所ではない。

透子は久保田刑事へ電話した。

「相沢さんの肺に入った水と、発見現場の水を比較してください」

「もう鑑定中です」

「温泉成分まで」

「理由を聞きましょう」

透子は第二湯口と排水路の推論を説明した。

久保田はしばらく黙っていた。

「三浦さんに会いましたね」

「そこまで伝わるんですか」

「あなたは目立つ」

「父の事故のことを、三浦さんは詳しく知っていました」

「それだけで疑うのは危険です」

「疑っているとは言っていません」

「声がそう言っています」

通話が終わり、透子は民宿へ戻った。

玄関の郵便受けに、折り畳まれた紙が入っていた。

古新聞の切り抜きだった。

二十年前の片桐直人失踪を報じる記事。

記事の末尾には、最後に直人を見た可能性のある人物として、設備係の名が記されている。

霧島修司。

父の名前に、赤い線が引かれていた。

その下へ、手書きで一言添えられている。

次に消えるのは、誰だ。

第四章 失踪の痕跡

祖母の家は、時間を捨てられない人の家だった。

古い領収書、新聞の切り抜き、町内会の回覧板、旅館から届いた挨拶状。引き出しを開けるたび、年月の違う紙が現れる。祖母はそれらを無秩序にため込んでいたのではなく、封筒へ年号を書き、出来事ごとにまとめていた。

透子は居間へ段ボール箱を並べ、一つずつ中身を確認した。

昭和、平成、令和。

町の祭り、閉館した旅館、道路工事、源泉の修繕。

二十年前の箱から、清泉寮の領収書が出てきた。祖母が湯治に通った記録だ。その年の秋を最後に、領収書は途切れている。

同じ封筒には、水道工事会社の伝票があった。

施工場所、清泉寮地下配湯区画。

工事内容、緊急封鎖。

日付は、片桐直人が失踪した翌日。

施工責任者の欄は黒く塗り潰されていた。

透子は伝票を机へ置き、深く息を吸った。

直人が消えた翌朝、地下の何かが封鎖された。

直人さんの声。

午後になって、透子は父へ電話をかけた。

呼び出し音が長く続いた。切ろうとした直前、低い声がした。

「どうした」

父とは、祖母の葬儀以来ほとんど話していない。修司は現在、長野の工場で設備保守の仕事をしている。伊香保へ戻ることを拒み、葬儀にも焼香だけ済ませてすぐ帰った。

「相沢玲司さんを知ってる?」

電話の向こうで、何かが落ちる音がした。

「誰から聞いた」

「祭りの夜に亡くなった。私が見つけた」

「透子」

父の声が急に強くなった。

「その名前を口にするな」

「なぜ」

「水岬には近づくな。清泉寮にもだ」

「もう行った」

「父さん、十年前に何を見たの」

「何も見てない」

「祖母が記録を残してる。地下の封鎖壁を壊したんでしょう」

「壊してない」

「じゃあ何をしたの」

「町を出ろ」

「説明して」

「今すぐ出ろ。あそこは――」

父はそこで言葉を切った。

「何」

「相沢のことは忘れろ」

通話が切れた。

知っていて、十年間黙っていた。

片桐直人の最後の目撃者として名前が出ながら、何も語らず町を去った。封鎖壁へ入った。何かを見た。そして今も、娘へ黙れと言う。

父との電話を切ったあと、透子はしばらく祖母の家から出られなかった。

床の間には、家族で撮った古い写真がある。

十年前の出来事を思い出そうとすると、最後の夜ばかりが浮かぶ。

だが、それ以前の父は町を嫌っていなかった。

早朝に配管を見回り、雪の日にも旅館へ向かい、湯が正常に出ると嬉しそうに帰ってきた。幼い透子へ、温泉は山から借りているものだと言った。

父自身の言葉だった。

その父が、第二湯口の不正を知りながら黙ったのか。

父に地下設備室へ連れていかれた日、配管音が大きいからと渡されたものだ。

当時の責任者の名の下に、三浦清司の携帯番号がある。横に父の字で「壁の件、女将へ報告済」と書かれていた。

事故当日、父は三浦へ報告している。

三浦は封鎖壁の奥に何があるかを、少なくとも十年前には知った。

透子は番号へ電話をかけようとして、止めた。

今の三浦へ直接問いただしても、認めるはずがない。こちらが何を持っているか教えるだけになる。

代わりに紙を撮影し、久保田へ送った。

数分後、久保田から電話が来た。

「原本を預かれますか」

「父の物です。本人へ確認してから」

「三浦さんの当時の番号と一致するか調べます」

「父は電話で、相沢の名前を口にするなと言いました」

「相沢さんと接触があった可能性は?」

「分かりません」

「お父さんの現在地は」

「長野です」

「確認します。疑っているわけではなく、安全のためです」

安全という言葉に、透子は父の切迫した声を思い出した。

「父も狙われると思いますか」

「過去の証言者なら可能性はあります」

透子は父へもう一度電話をかけたが、出なかった。

留守番電話へ、警察から連絡があること、知らない相手へ会わないことを吹き込んだ。

自分を守るために父が黙ったのなら、今度は自分が父を危険へ引き戻している。

それでも止められない。

透子は仏壇へ向かい、写真の祖母へ訊いた。

「私に、どうしてほしかったの」

日が傾くころ、母から電話があった。

「お父さんから聞いた。何をしてるの」

「相沢さんの死を調べてる」

「また記者みたいなことを」

「父さんが十年前に見たものとつながってる」

「だからこそ、やめなさい」

母の声には怒りより恐怖があった。

「あのとき、家へ電話が来たの。あなたが何時に学校を出たか、全部知っていた。私は毎朝、後ろを見ながら買い物へ行った」

「父さんから手紙が来た」

「お父さんは、自分一人が黙れば済むと思った。でも町を出てからも、夜中に壁を叩く音がすると言って起きた」

「なぜ私に話さなかったの」

「あなたまで過去へ戻したくなかった」

「もう戻ってる」

「透子」

母は泣きそうな声で言った。

「真実が分かっても、家族は元に戻らない」

「分かってる」

「分かってない。あなたは、分かれば救われると思ってる」

「救われなくても、知らないままにはできない」

「あなたはお父さんに似た」

「三人目」

「何が?」

「同じことを言われた」

母は小さく息を吐いた。

「なら、せめて一人で行かないで」

「由紀さんと警察がいる」

警察が常に一緒というのは嘘だった。

透子は通話を終えたあと、その嘘をノートへ書いた。

祖母の日記の間から、野々村へ宛てた未投函の手紙も見つかった。

私たちは、修司に背負わせすぎました。

直人さんのことを知りながら、若い者が何とかしてくれると思っていた。十年前も、修司が壁を開ければ自分たちは話さずに済むと思った。

透子が戻ったとしても、あの子に同じ役目を押しつけてはいけない。

手紙には続きがなく、封筒にも入っていなかった。

祖母は書いたあと、野々村へ渡せなかったのだろう。

透子は手紙を写真に撮り、原本を日記へ戻した。

野々村へ見せるべきか迷った。

責める手紙ではない。

それでも、亡くなった友人から届くはずだった言葉は、野々村の二十年をさらに重くするかもしれない。

伝えることが常に優しさではない。

だが隠すことも、相手のためと決めつければ町と同じになる。

透子は野々村本人に選んでもらおうと考え、手紙を鞄へ入れた。

夕方、野々村から電話が来た。

「清泉寮へ来られるかい」

声は小さく、周囲を警戒していた。

「今から?」

「暗くなる前に」

清泉寮の正面には警察の立入禁止テープが残っていた。野々村は裏手の小屋で待っていた。かつて薪や清掃道具を置いた場所らしく、壁に古い湯桶が並んでいる。

「警察には話したんですか」

「話せることだけは」

「話せないことを、私に?」

野々村は椅子へ座り、両手を膝に置いた。節くれだった指が小刻みに震えている。

「ばあさんに約束したからね」

「祖母に?」

「いつか透子ちゃんが戻ったら、何も知らないまま追い出されないようにしてくれって」

透子は向かいへ座った。

「二十年前、何があったんです」

野々村は窓の外を見た。

「清泉寮は、湯が来なくなってた。共同の湯だから、どの宿にも同じように回す決まりだった。でも、大きな旅館へ行く湯は減らなかった」

「第二湯口」

野々村の目が動いた。

「知ってるんだね」

「図面を見ました」

「直人さんが作った。正確には、造らされたんだ」

「誰に」

「旅館組合と水源会社の人間さ。町が潰れるって、みんな怯えてた。大きな宿が倒れれば、働く人も店も全部駄目になる。だから小さい宿から少しずつ湯を減らして、水岬やほかの旅館へ回した」

「違法な配湯ですね」

「最初は一冬だけのはずだった」

野々村は乾いた笑いを漏らした。

「悪いことは、いつもそう言って始まる。一回だけ。今だけ。みんなのため」

「片桐直人さんは?」

「工事をしたあと、記録が書き換えられていることに気づいた。自分の名前まで消されてた。責任を押しつけられると思ったんだろうね。原簿を持って、公表すると言った」

「失踪した夜、ここへ来た」

「地下で話し合いをした。三浦さんもいた。水源会社の人も、組合長も」

「父は?」

野々村はすぐに答えなかった。

「修司さんは若かった。設備の手伝いで呼ばれただけだ」

「直人さんを最後に見た?」

「見てないと思う」

「思う?」

「私も全部を見たわけじゃない」

野々村は唇を湿らせた。

「夜中、地下から音がした」

「どんな音です」

「金属を叩く音。三回鳴って、少しして二回返った」

透子は息を止めた。

「人の声は?」

「聞こえた気がする。でも、三浦さんは工事の音だと言った。危ないから近づくなって」

「翌朝、封鎖工事があった」

「そうだよ」

「直人さんは、その中にいたんですか」

野々村は顔を覆った。

「分からない。分からないんだよ。私は見てない。見なければ、知らないのと同じだと思ってきた」

「同じではありません」

野々村は手を下ろし、透子を見た。

「記者さんは、そう言える。私はこの町で生きなきゃならなかった。清泉寮が閉じて、仕事をなくして、水岬の洗い場で雇ってもらった。娘を学校へ通わせてもらった。三浦さんは悪魔じゃない。あの人に助けられた者は大勢いる」

「だから一人が消えても黙った?」

「そうだよ!」

野々村の声が震えた。

「黙った。毎日、湯を掃除して、客に気持ちいいでしょうと言って、地下の音を忘れたふりをした。あんたに責められなくても、二十年ずっと自分で責めてる」

小屋の中に、遠い水音が聞こえた。

「すみません」

野々村は首を振った。

「謝るのは私の方だ。由紀ちゃんにも、本当のことを言えなかった」

「直人さんは、『湯を盗んでいるのではない。人の名前まで消している』と言ったそうですね」

「相沢さんから聞いたのかい」

「いいえ」

「直人さんの最後の言葉だよ。私が聞いた最後の」

野々村は立ち上がり、棚の湯桶を一つ手に取った。底に桔梗の焼き印がある。

「これは、ばあさんと清泉寮で使っていた印だ。何かを預けるとき、二人だけに分かるようにしてた」

「カセットテープを知っていますか」

野々村の手が止まった。

「祖母の家に、『直人さんの声』と書かれたケースがありました」

「中身は?」

「空です」

野々村は湯桶を棚へ戻した。

「今日はここまでだ」

「テープを持っているんですね」

「帰りな」

「野々村さん」

「まだ、決められないんだよ」

何を決められないのか、透子には分かった。

清泉寮を出る前、透子は旧浴場の前で足を止めた。

戸の隙間から、空の浴槽が見える。底には茶色い湯垢が輪になって残り、壁には「湯は大切に」と書かれた古い札が掛かっている。

野々村はここで二十年間、何を思って掃除をしていたのだろう。

地下から音を聞いた夜。

封鎖壁が造られた朝。

客が途絶え、宿が閉じた日。

それでも浴槽を磨き、いつか湯が戻るように道具を捨てなかった。

透子は浴場の入口に、桔梗の印が付いた湯桶が三つあることに気づいた。祖母、野々村、そしてもう一人のための印だったのかもしれない。

「この桶は?」

透子が訊くと、野々村は背を向けたまま答えた。

「捨てられないだけだよ」

「祖母と何を預け合っていたんです」

「記憶さ」

野々村は戸を閉めた。

「一人で覚えていると、いつか自分の方が間違ってると思い始める。だから、ばあさんと同じことを覚えていると確かめた」

証言は、事実を外へ伝えるためだけではない。

野々村と別れたあと、透子は祖母が晩年まで通っていた小さな理髪店へ寄った。

店主の榎本は、父と同じ世代だった。客のいない店内で、古いラジオだけが鳴っている。

「修司のことを調べてるんだってな」

「町では、何でも早いですね」

「悪い話ほどな」

榎本は椅子へ座るよう促した。

「父は、片桐直人さんの失踪に関わっていましたか」

「関わるという意味による」

「最後に見た可能性がある」

「修司は、あの夜の会議には入れてもらえなかった。若い設備係だったからな。外で工具を運ばされていた」

「直人さんを見た?」

「清泉寮へ入るところは見たと言ってた。出てくるところは見てない」

「なぜ警察へ言わなかったんです」

「言ったさ」

透子は顔を上げた。

「父は証言した?」

「直人が清泉寮へ入ったと。だが翌日には、酔っていて時間を勘違いしたことにされた。修司も、そういう調書へ判を押した」

「自分で?」

「上から言われたんだろう。水源会社の仕事を切られる。旅館にも入れなくなる。お前がまだ子どもだった」

「十年前の事故のあと、父と話しましたか」

「町を出る前の日に来た。髪を切ってくれって」

「何か言ってました?」

「壁の中に、人がいると言った」

榎本は鏡越しに透子を見た。

「俺は、警察へ行けと言った。修司は、もう行けないと答えた。家族を守るって」

「誰かに脅された?」

「そこまでは聞かなかった。聞くのが怖かったんだ。俺も同じ町で店を続けたかった」

店内の鏡に、透子と榎本が並んで映っている。

榎本は引き出しから古い封筒を出した。

「修司が置いていった」

中には、父が使っていた設備点検票の控えがあった。十年前の事故当日、封鎖壁付近で異常な空洞反響を確認したこと、内視鏡調査を提案したことが書かれている。

「原本は?」

「旅館組合が回収した」

「これを警察へ」

「持っていけ」

「榎本さんも証言を」

榎本は首を振りかけ、鏡の中の自分を見た。

「野々村さんが話したなら、俺だけ黙るわけにもいかないな」

祖母の家へ戻り、透子は遺品の中から日記を探した。

祖母は毎日書く人ではなかった。天気、買い物、近所の葬儀。短い記録が飛び飛びに続いている。

片桐直人の失踪から一週間後のページに、こうあった。

典子さん、眠れず。地下の音を聞いたと言う。

修司、直人さんは出ていないと言う。

十年前の事故の日には、さらに短い一文があった。

修司が壁の中を見た。今度こそ、なかったことにはできない。

だが翌日のページには、透子たち一家が町を出たことだけが記されていた。

証拠を隠し、いつか誰かが戻るのを待った。

図面と日記を残しただけだ。

夕暮れが部屋へ入り、紙の文字を薄くした。

真実は、見つけた瞬間に道を示すわけではない。

民宿へ戻ると、由紀が玄関前で待っていた。

「野々村さんに会いましたね」

「誰から?」

「町の人が見てました」

「この町には、見ている人だけは多い」

由紀は皮肉を受け流した。

「父のこと、何か聞いたんですか」

野々村の証言を、本人の許可なくどこまで伝えるべきか。だが由紀には、自分の父について知る権利がある。

「直人さんは、配湯の不正を公表しようとしていました。失踪した夜、清泉寮の地下で関係者と会った」

「その後は」

「分かりません」

「嘘」

「本当に」

「みんなそう言う。分からない、覚えてない、昔のことだって」

由紀の目に涙が浮かんだ。

「父は家族を捨てた。そう思ってきたんです。母は町を出て、私は祖母に育てられた。学校では、逃げた男の娘って言われた。今さら、実は被害者かもしれないなんて言われても、どうすればいいんですか」

「知りたくない?」

「知りたい。でも、怖い」

由紀は涙を拭った。

「父が本当に正しい人だったのかも分からない。工事に関わったなら、父も湯を盗んだ側でしょう。相沢さんは父の名誉を戻すと言った。でも、そんな簡単な話じゃない」

「ええ」

「透子さんは、真実なら何でも受け止められるんですか」

夜、祖母の家へ戻り、再び遺品を調べた。

諦めかけて仏壇の前へ座ったとき、底板の端に小さな傷があることに気づいた。指を掛けると、板が持ち上がった。

広げると、手描きの地下水路図だった。

水岬の地下から清泉寮方向へ伸びる点検路。途中に太い線で封鎖壁が描かれている。

壁の横に、短い記録があった。

中は空洞。

三回たたくと二回返った。

壁の向こうに人がいる。

日付は、十年前の事故当日。

透子の手が震えた。

二十年前に封鎖された壁の向こうから、十年後にも音が返ったはずはない。

父は、人がいると思ったのか。

人骨を見つけたのか。

それとも、そう見せかけて何かを隠したのか。

図面を裏返す。

祖母の字があった。

修司は罪を犯したのではない。

罪を見せられた。

第五章 湯口の夜

父の図面は、正確な地図ではなかった。

配管の太さも距離も、現場で急いで描いたように歪んでいる。それでも相沢が撮った地下通路の写真、清泉寮の壁に残っていた配湯図、二十年前の集合写真を重ねると、一つの線が浮かび上がった。

第二湯口へ入る道は、清泉寮側ではない。

水岬の裏手、観光客が通らない旧作業道に、使われていない湯口がある。

透子は祖母の座卓へ資料を並べ、透明な紙へ線を写した。父の図面では、封鎖壁の手前に小さな四角が描かれている。相沢の写真にも、同じ位置に錆びた制御盤らしいものが見える。

由紀は向かいに座り、父の名前が書かれた配湯図を見つめていた。

「今夜、行くんですか」

「行く」

「警察に言わないで?」

「久保田さんには、第二湯口の可能性まで伝えてある。でも、正式に捜索するには所有者や管理会社の許可がいる」

「待てないんですね」

「待っている間に、倉庫の帳簿は消えた」

透子は言ってから、自分の声が以前の記者時代と同じになっていることに気づいた。確信すると周囲が見えなくなる。三浦が指摘した父との共通点は、否定し切れない。

「由紀さんは来なくていい」

「どうして」

「危険だから」

「父のことです」

由紀は顔を上げた。

「相沢さんは、父の名前を返すと言ってくれた。その人が死んで、野々村さんも怖がっている。私はずっと、町をきれいに見せる仕事をしてきました。湯気の動画、朝食、紅葉、雪。見せたくないものは画面の外へ追い出してきた。でも、父まで外へ追い出したくない」

防水ライト、予備電池、軍手、簡易マスク、ロープ、救急用品。由紀は水岬の古い設備台帳から、配管の圧力が下がる時間帯を調べた。

「午前一時前後に、第一湯口の流量調整があります」

「第二湯口も影響を受ける?」

「正式には存在しないから、台帳にはない。でも同じ源泉なら、圧力が変わるはずです」

封鎖壁までの距離が書かれていない。通路の高さも、分岐の数も曖昧だ。

「お父さんへ電話して、場所を聞けませんか」

「出ないと思う」

「それでも」

透子は発信した。

呼び出し音のあと、留守番電話へ切り替わる。

「父さん。図面を見つけた。今夜、第二湯口へ行く」

由紀が驚いて透子を見た。

「止めたいなら、場所を説明して。連絡がなければ、この図面で入る」

通話を切った。

「脅してるみたいです」

「父は、私が止めても行く人間だと知ってる」

「似てるんですね」

「三浦さんにも言われた」

記者時代、危険な場所へ一人で入ったことは何度もある。災害現場、暴力団の事務所、立入禁止の工事現場。正義感だけではなく、他の記者より先に事実を得たいという欲もあった。

相沢の死を解くため、父の過去を知るため、そして自分が再び「書ける人間」だと確かめるため。

「由紀さん」

「はい」

「途中で危険だと思ったら戻る。証拠より命を優先する」

「透子さんが言うと説得力がない」

「自分に言ってるの」

由紀はしばらく透子を見てから、頷いた。

そのとき、透子のスマートフォンが鳴った。

父からだった。

「行くな」

挨拶もなく言った。

「場所を教えて」

「第二湯口は生きてる。廃止されたふりをしてるだけだ」

「やっぱり知ってた」

「十年前、圧力が残っていた。封鎖壁の前で人骨を見た。壁を開けようとしたら、青い弁を操作され、湯が流れた」

「誰が操作したの」

「見てない」

「三浦さん?」

「名前は言えない」

「まだ守るの?」

「お前を守りたい」

「私を守るために黙って、相沢さんが死んだ」

電話の向こうで父の呼吸が止まった。

相沢の死は父の責任ではない。

だが透子の中に積もった怒りが、最も傷つく形で出た。

「そうだな」

父は静かに答えた。

「俺が十年前に言っていれば、違ったかもしれない」

「違う。今のは」

「入口を下りたら、青い弁の先に縦穴がある。直人が非常用に作った。湯が来たら上へ逃げろ」

「父さん」

「図面に描けなかった。見つかれば塞がれると思ったから」

父はそこで通話を切った。

由紀が黙って見ていた。

「お父さんも、ずっと地下から出られてないみたいですね」

「どういう意味?」

「町を出ても、あの壁の前にいる」

今夜、壁の向こうを確かめることは、父を救うことではない。

それでも、時間を止めた場所を開かなければ、誰も先へ進めない。

出発前、二人は水岬の元設備係だった老人、黒岩を訪ねた。由紀が幼いころから知る人物で、現在は山麓のアパートで暮らしている。

黒岩は第二湯口という言葉を聞くと、玄関の鎖を外そうとしなかった。

「帰れ」

「父が地下にいるかもしれないんです」

由紀が言った。

「直人さんは逃げた」

「本当にそう思ってるんですか」

「そういうことになってる」

「そういうことになってる、じゃない」

由紀は扉へ手を置いた。

「私、二十年間、父に捨てられたと思って生きてきた。知っていることがあるなら、今言ってください」

扉の向こうで、鎖が外れた。

黒岩は痩せた老人だった。部屋には古い配管部品が箱に入れられ、壁へ作業資格の証明書が掛かっている。

「第二湯口へ入るなら、青い弁には触るな」

それが最初の言葉だった。

「なぜです」

「今も圧が残ってる。急に開けば、人間くらい簡単に飛ばす」

「使われているんですか」

「予備だと言われてた。だが、水岬の湯量が落ちた夜だけ、誰かが動かしてる」

「誰が?」

黒岩は由紀を見た。

「女将は鍵を持ってる。支配人もだ。昔の設備係なら、合鍵を作った者もいる」

「父が失踪した夜、いましたか」

「外にいた。地下から直人の声がした」

由紀の顔が動かなくなった。

「何て?」

「由紀、と呼んだ。何度も」

「助けなかったんですね」

「入口を塞がれた。組合長に帰れと言われた。警察を呼ぶと言ったが、仕事も家もなくなるぞと」

「それで帰った」

「ああ」

黒岩は目を伏せた。

「翌朝、三浦さんが、直人は帳簿を持って逃げたと言った。信じたふりをした。信じなければ、自分が何をしたか分かってしまうからな」

「入口は水岬の裏だ。階段を下り、青い弁を越えた先に排気用の縦穴がある。昔、直人が非常口代わりに作った」

透子は図を受け取った。

「警察へ証言できますか」

「今さら俺の言葉に価値があるか」

「由紀さんにはあります」

黒岩は由紀へ頭を下げた。

「すまなかった」

由紀は許すとも、許さないとも言わなかった。

「父がいた場所を見つけてから、聞きます」

帰り道、由紀はほとんど話さなかった。

祖母の家へ着いてから、相沢の最後の未読メッセージをもう一度開いた。

「相沢さんは、一人で三浦さんに会った」

「ええ」

「危険だと分かっていたのに」

「証拠があれば、話し合えると思ったのかもしれない」

「私たちも同じですか」

透子は装備を鞄へ入れた。

「同じにならないために、二人で行く。場所は久保田さんへ送っておく」

透子は地図と予定時刻をメッセージにして、送信予約を設定した。午前二時まで解除しなければ、自動で久保田へ届く。

「最初から送ればいいのに」

「止められる」

「やっぱり都合よく危ない」

由紀は今度は少し笑った。

笑いが消えると、父の写真を胸ポケットへ入れた。

今夜向かう場所、同行者、持っている資料、警察へ送信予約をした時刻。事故が起きたとき、残された者が足取りを追えるようにした。

由紀も、自分のスマートフォンで短い動画を撮った。

「片桐由紀です。これから第二湯口と思われる旧設備へ入ります。父、片桐直人の失踪に関する資料を探します」

「公開するの?」

「戻らなかったら、自動投稿されます」

「解除を忘れないで」

「透子さんも」

二人は互いの設定時刻を確認した。

死ぬつもりはない。

それでも、相沢も野々村も、自分が殺されるとは思っていなかっただろう。

透子は祖母の写真へ一礼した。

由紀は父の写真へ小さく声をかけた。

「行ってくるね」

その言葉が、父親の帰りを待つ子どものものではなく、父親のいる場所へ向かう大人の言葉に聞こえた。

外へ出ると、山の夜気が冷たかった。

町の灯りは美しく、地下にあるものを何一つ感じさせない。

透子は鍵を閉めた。

「戻ってきましょう」

由紀が言った。

「必ず」

二人は午前零時を過ぎてから祖母の家を出た。

水岬の裏手へ回ると、舗装は途切れ、古い石組みの作業道になった。両側に笹が生い茂り、足元には温泉水の成分で白く固まった跡がある。

「この道、従業員でも使いません」

由紀が小声で言った。

「昔の配管点検用?」

「たぶん。女将は、危ないから近づくなって」

道の先に、低い石造りの建物が現れた。

屋根は半分苔に覆われ、入口には「使用停止」と書かれた錆びた板が掛かっている。だが、完全に放置されているようには見えなかった。扉の前だけ雑草が踏まれ、錠前には新しい油が光っている。

由紀はポケットから細い鍵を出した。

「それは?」

「水岬の倉庫用です。古い設備は同じ型の鍵を使ってることがあります」

一度目は回らなかった。二度目、鍵を少し持ち上げながら回すと、錠が開いた。

「従業員としては、完全に解雇案件ですね」

「今さらでしょう」

由紀がかすかに笑った。

扉の内側から、温かい空気が流れ出した。

階段が地下へ続いている。

階段の下は、人が一人通れるほどの点検路だった。

床には赤茶色の泥が厚く堆積している。

透子はしゃがみ、指先で少量を採った。相沢の靴底に付いていたものと、色も粒子もよく似ている。

「ここへ来たんだ」

由紀が呟いた。

「相沢さんは、ここを歩いた」

しばらく進むと、青い弁が現れた。

二十年前の集合写真に写っていたものと同じ形だった。

弁の脇に「2」の刻印がある。

「第二湯口」

透子がライトを近づけると、弁の根元に新しい擦り傷があった。最近、誰かが動かしている。

中には濡れた手帳、鉛筆、空の薬草茶の瓶が残されている。手帳の表紙に相沢のイニシャルがあった。

ページの大半は水で読めない。残った部分には、流量の測定時刻と、短い行動記録が書かれていた。

20:05 茶。味に違和感。

20:18 第二弁、開。

20:24 めまい。

「M」

由紀が呟いた。

「三浦とは限らない」

「でも、女将は相沢さんと会っていた」

透子は手帳と瓶へ触れず、位置を撮影した。

「警察へ送ります」

電波は弱かったが、画像を久保田へ送信する。送信中の表示が続き、完了したか分からない。

由紀は手帳の最後のページへライトを当てた。

鍵は清泉三。原本は壁の奥。

「相沢さんは、封鎖壁の奥まで知ってた」

「だから殺された」

事故ではない。

由紀は空瓶を見つめた。

「水岬の物が、殺すために使われた」

「旅館そのものが殺したわけじゃない」

「分かっています。でも、私はこれをきれいな場所として発信してきた」

「きれいだったことまで嘘にはならない」

透子は自分へ言うように答えた。

善い記憶と罪の証拠は、同じ場所に存在できる。

それを受け入れることが、由紀にも透子にも必要だった。

天井から落ちる水滴が、金属板を一定のリズムで叩いていた。三回、間を置いて二回。

父の図面にあった記録。

そう思った直後、壁の向こうで、別の音がした。

由紀が透子の腕をつかんだ。

「今の、聞こえました?」

「聞こえた」

点検路の先に、コンクリートの封鎖壁がある。父の写真と同じ亀裂が走っていた。下部には湯が染み出し、赤い泥を作っている。

壁の手前に、黒い小さな物が落ちていた。

透子が拾い上げる。

側面に、相沢玲司の名前がシールで貼られている。

「相沢さんの」

由紀の声が震えた。

電源を押すと、一度だけ画面が光った。記録ファイルがいくつか残っている。再生すると、激しい雑音の中に相沢の声が聞こえた。

『流量差、毎分……記録と合わない。第二……現在も使用』

『明日の祭りが終わる前に公表する。これ以上待てない』

由紀が口元を押さえた。

次の声は、少し柔らかかった。

『由紀さんには、父親の名を返す。逃げた男として終わらせない』

そこで録音はノイズに変わった。

由紀は壁へ手をつき、俯いた。

「私、最後のメッセージを読まなかった」

「あなたのせいじゃない」

「祭りの投稿が忙しいって、あとで返そうと思ってた。相沢さん、何度も会おうって……」

透子は言葉を探したが、慰めはどれも軽く聞こえた。

由紀の父を追った相沢は、町の美しい映像が流れる祭りの夜に殺された。由紀はその時間、画面の中へ笑顔を届けていた。

透子は封鎖壁の下へライトを向けた。

泥の中に、白い小さな欠片がある。

拾い上げると、根の付いた人の歯に見えた。

「父の……?」

由紀が膝をついた。

「触らないで」

透子は歯を元の位置へ戻し、スマートフォンで写真を撮った。

そのとき、背後で金属が回る音がした。

青い弁が、ひとりでに動いたように見えた。

だが弁の向こう、湯気の中に人影がある。

「誰!」

人影は答えない。

配管が激しく震えた。

次の瞬間、点検路の側溝から熱湯が噴き出した。

「走って!」

二人は来た道へ戻ろうとした。だが入口側の防火扉が閉まり始めている。遠隔ではなく、人影が手動レバーを操作しているのだ。

透子は湯の中を蹴って走った。

足元の泥が滑る。由紀が転び、透子は腕をつかんで引き起こした。

熱湯は膝近くまで上がった。長靴の中へ入り、皮膚を刺す。

防火扉が閉じ切る直前、透子は隙間へ鉄片を差し込んだ。だが扉の向こうから強い力で押され、鉄片が曲がった。

「ほかの出口は?」

「分からない!」

「お父さんから聞いてない?」

由紀は息を荒くしながら周囲を見た。

「排気口……子どものころ、父が、地下で迷ったら風を探せって」

由紀が天井近くを指した。

「あそこ!」

由紀が下から身体を支える。

「もう一度!」

格子が外れ、暗い縦穴が現れた。

「先に上がって」

「透子さんが」

「私は下から押す」

由紀を穴へ押し上げる。縦穴は狭く、肘と膝で身体を支えなければならない。由紀が数メートル登り、「出口がある」と叫んだ。

背後から湯が縦穴へ流れ込み始める。靴が重く、指が滑る。

点検路の湯気の向こうに、人影が立っている。

ただ、右手に下げた鍵束が、ライトを反射した。

真鍮製の大きな鍵が何本も付いている。

水岬の従業員が、古い設備を開けるときに使う鍵束だった。

人影は透子を見上げていた。

透子は縦穴を登り切り、由紀に引き上げられた。

二人は地面へ倒れ、しばらく息を整えた。

「見ました?」

由紀が訊いた。

「人影だけ。鍵束を持っていた」

「水岬のものですか」

「似ていた」

「女将も持っています」

由紀の声が小さくなった。

「設備責任者も、支配人も。昔からいる従業員なら何人か」

「決めつけない方がいい」

「でも、録音には」

透子はボイスレコーダーを確認した。水に濡れ、画面は消えている。振ると内部で水音がした。

それでも、記録媒体が無事なら復元できる可能性がある。

二人はそのまま久保田刑事へ連絡した。

病院で火傷の処置を受けたあと、明け方近くに警察署で事情を話した。

久保田は怒っていた。

「証拠を見つけたから結果が良かった、とは言いません」

「分かっています」

「分かっていない。あと数分遅ければ、二人とも死んでいた」

由紀が俯く。

透子は濡れたボイスレコーダーの証拠袋を見た。

「封鎖壁の下に歯のようなものがありました」

「写真は確認しました。現場を保全します」

「すぐに捜索を」

「管理会社と所有者に令状を取ります」

「その間に操作される」

「今度は警察官を配置します」

久保田は疲れた顔で透子を見た。

「あなたの推論は当たっているかもしれない。相沢さんは発見場所とは別の水で溺れた可能性が高い」

「鑑定が出た?」

「予備結果です。肺から、沢水より温泉配湯設備に近い成分が出た」

由紀が息を呑んだ。

「殺されたんですね」

「まだ断定はしません。ただ、事故という前提は外します」

夜が明けるころ、透子と由紀は民宿へ戻った。

壊れたボイスレコーダーのデータは、警察の技術担当が一部を復元した。昼過ぎ、久保田から音声ファイルが送られてきた。

雑音の中に、相沢と女の声がある。

『公表すれば、配湯の不正だけでは済まない』

相沢が言う。

『済ませなければいい。調べるべきことは、全部調べる』

女の声が低く答えた。

『一人を救って、町を殺すつもりですか』

由紀は再生を止めた。

「女将の声です」

透子も、そう聞こえた。

しかし録音は短く、雑音が多い。声紋鑑定に耐えるかは分からない。

「三浦さんは、相沢さんと会っていた」

「祭りの前に」

「そして相沢さんは死んだ」

由紀は窓の外へ目を向けた。

山の朝霧が晴れ、旅館水岬の屋根が見えていた。

「私、町の評判を守りたいって言いました」

「ええ」

「もう、父の名前を守ります」

透子は答えなかった。

その決意が、由紀から仕事も居場所も奪うかもしれないことを知っていた。

それでも、止める言葉はなかった。

第六章 温泉の代価

相沢玲司の死が殺人の可能性を帯びたという噂は、警察の正式発表より早く町を巡った。

朝には土産物屋の店主が知り、昼にはタクシー運転手が客へ「まだ何も決まっていません」と説明し、夕方には旅館の予約係がキャンセルの電話を受け始めた。

民宿つむぎにも、三件の取消しが入った。

「事件の場所は遠いんですよね」

「温泉は安全なんでしょうか」

「子どもを連れていって大丈夫ですか」

女将は一件ずつ丁寧に答えた。電話を切るたび、予約台帳の名前へ細い線を引く。

透子は厨房でその音を聞いていた。

鉛筆が紙を走る、かすかな音。

一人の死が、数字へ変わっていく。

「気にしなくていいよ」

女将は透子の視線に気づいて言った。

「私のせいです」

「あなたが殺したわけじゃない」

「調べて、広げた」

「広げたのは殺した人だよ」

女将はそう言ったが、予約台帳を閉じる手は重かった。

午前十時、久保田刑事から連絡が入った。

相沢の血液から睡眠導入剤が検出された。

治療目的で処方された記録はない。濃度は意識を失うほどではないが、足元がふらつき、判断力が落ちる量だった。

「飲酒は?」

透子が訊いた。

「少量。事故を説明できるほどではありません」

「誰かに飲まされた」

「その可能性を調べています」

「三浦さんの音声は」

「本人の声と断定できない。録音の前後も欠けています」

「第二湯口は?」

「管理会社は、古い予備配管で現在は使っていないと説明しています」

「嘘です。湯が流れていた」

「現場で確認しています。ただし、あなたたちが入ったあと、配管の状態が変わっている」

「誰かが操作した?」

「警察官を置く前に、圧力調整が行われた形跡があります」

証拠は、常に半歩先で消される。

「三浦さんを事情聴取していますか」

「捜査上のことは答えられません」

久保田は少し間を置いた。

「霧島さん。今後は単独で動かないでください。あなたと片桐さんが狙われた可能性があります」

「分かりました」

「その返事を、信用していいですか」

「努力します」

「一番信用できない答えですね」

通話が切れた直後、民宿の固定電話が鳴った。

透子が出ると、何も聞こえない。

「もしもし」

遠くで水の音がした。

それから、低い男の声が一言だけ言った。

「町を潰すな」

電話は切れた。

昼前、久保田から追加の鑑定結果が届いた。

相沢の胃から、祭り会場では販売されていない薬草茶の成分が検出された。水岬が客室用に出している特製茶と似た配合だった。

「三浦さんが飲ませた証拠になりますか」

「茶葉だけではなりません。水岬の従業員や取引先も入手できます」

「睡眠導入剤は、その茶に?」

「可能性があります」

相沢の上着からは、水岬の旧配湯施設で使われている断熱材の繊維も見つかった。

点は増えている。

だが一本の線として三浦へ届くには、まだ足りない。

透子は相沢の会社を訪ね、机を見せてもらった。警察の捜索後で、引き出しには封印が貼られている。

机の横に、小さな写真立てがあった。

裏面に由紀のSNSアカウント名が書かれている。

増田は言った。

「相沢さん、あの写真を見て、町を壊したいわけじゃないって言ってました」

「何をしたかったんでしょう」

「流れを正したいって。湯も、記録も」

正すことで、町が傷つく可能性を相沢はどこまで考えていたのか。

死者に尋ねることはできない。

透子は写真立てを元の位置へ戻した。

無言電話のあと、透子は町を歩いた。

事件を追うなら、帳簿と証言だけでなく、三浦が守ると言った生活を見なければならないと思った。

「昨日から客足が三割減った」

透子が名乗る前に、店主は言った。

「テレビが来れば、もっと減る。殺人事件の温泉饅頭なんて、誰が買う」

「相沢さんをご存じでしたか」

「水の点検で来た。真面目な人だったよ」

「その人が殺された可能性があります」

「分かってる」

「だからって、うちのパートさんの時給を誰が払う。真実が金を持ってきてくれるのか」

次に入った食堂では、女主人が予約表を見せた。

「三浦さんには、夫が倒れたとき助けてもらった」

「どんなふうに?」

「店の借金を銀行へ一緒に説明してくれた。娘を水岬で雇ってくれた。あの人が悪いことをしたなんて、信じたくない」

「信じたくないことと、起きたことは違います」

「そんなの分かってるよ」

女主人は布巾を絞った。

「分かってるから苦しいんじゃないか」

一人が透子を見つけ、声をかけた。

「霧島さんの娘だろ」

「はい」

「親父さん、十年前に設備を壊したって話だったな」

「そういうことにされました」

「また町を騒がせるのか」

「騒がせたのは、殺した人です」

運転手は顔をしかめたが、隣の年配の男が口を挟んだ。

「俺は修司と同級生だ。あいつが理由もなく設備を壊すとは思ってなかった」

「なら、なぜ言わなかったんです」

「言える空気じゃなかった」

「空気は、誰が作るんですか」

「温泉、危なくないですよね」

透子へ訊いた。

「水質の安全と、事件は別です」

「ニュースだとよく分からなくて。夫は旅行をやめようって。でも、この子が楽しみにしてたから」

透子は、その姿を見ながら相沢の遺体を思い出した。

民宿へ戻る途中、水岬の従業員が裏口に集まっていた。三浦が一人ずつ声をかけている。

「予約が減っても、今月の給与は予定どおり出します」

「女将、でも」

「心配しなくていい。お子さんの入学金も、約束どおり旅館の貸付制度を使えます」

三浦は従業員の家族の事情まで覚えていた。

一人の若い仲居が透子へ近づいた。

「女将を疑ってるんですか」

「捜査しているのは警察です」

「逃げないで答えてください」

仲居の目には涙があった。

「私、夫と別れて、この町へ戻ってきた。子どもを抱えて働ける場所がなかった。女将が寮を用意してくれたんです。あの人がいなければ、私たちは」

「そのことを否定するつもりはありません」

「なら、書かないで」

「何を?」

「女将が悪い人みたいに」

「悪い人か、良い人かを書くつもりはありません」

「じゃあ何を書くんです」

「何をしたかです」

「同じです」

透子が記者だったころ、事実と評価は別だと信じていた。

だが読む人にとって、事実の選び方は評価になる。

三浦の罪を記せば、彼女に救われた者の記憶まで否定されたように感じる人がいる。

それでも、救われた人がいることは、殺された人を消す理由にはならない。

両方を同時に書く方法を、透子はまだ見つけられずにいた。

水岬の裏口から離れると、三浦が追ってきた。

「町を見て回っているそうですね」

「あなたが守ったと言うものを見ています」

「見えましたか」

「簡単ではないことは」

三浦は石段の下を見た。

「簡単な正義を振りかざす人なら、もっと楽でした」

「私が迷えば、やめると思いますか」

「迷わない人間は、人を殺します」

透子は三浦を見た。

三浦はそれ以上話さず、従業員の元へ戻った。

「保育園から電話が来ました」

「お子さん?」

「ほかのお母さんに、殺人の温泉で働いてるのって言われたみたいで」

「来月の勤務、減りますか」

「私には決められない」

「女将さんは大丈夫って。でも予約がないのに、大丈夫なわけないですよね」

透子は向かいへ座った。

「調べるのをやめてほしい?」

真帆はすぐには答えなかった。

「やめて、何もなかったことになったら怖いです。でも続けて、店がなくなるのも怖い」

「両方、怖くていいと思う」

「そんな答え、ずるい」

「ええ」

「三浦さん、私が離婚したとき、水岬で働かないかって声をかけてくれました。断ったけど、ありがたかった」

「それも事実です」

「相沢さんを殺したかもしれないことも?」

「まだ証明されていない。でも、調べる必要がある」

「事実って、一つなら楽なのに」

誰かを救った人が、誰かを殺す。

真帆は食器を片づけると、透子へ言った。

「会議で、私たちの生活もあるって言ってください」

「言います」

「でも、亡くなった人のことも消さないで」

「約束します」

透子は組合員ではないが、三浦から「説明を聞いてほしい」と招かれた。会場となった観光会館には、旅館経営者、商店主、タクシー会社、飲食店の代表が集まっていた。

敵意を露わにする者は少ない。だからこそ、視線の重さが分かった。

三浦は壇上に立った。

「相沢さんがお亡くなりになったことは、町にとって大きな悲しみです。警察の捜査には全面的に協力します」

穏やかで、よく通る声だった。

「一方で、根拠の定まらない情報がSNSや報道関係者へ流れ、町全体が危険であるかのような印象が広がっています。すでに多数のキャンセルが出ています」

「私たちは、事実を隠そうとしているのではありません。ただ、憶測によって働く人々の生活が奪われることを恐れています」

三浦の視線が透子へ向いた。

「元新聞記者である霧島透子さんが、個人的な推測をもとに古い施設へ入り、情報を集めていると聞いています」

透子は立ち上がった。

「私は相沢さんの遺体を発見しました。現場に不自然な点があり、調べています」

「警察へ任せるべきでは?」

商店主の男が言った。

「警察にも伝えています」

「じゃあ、あなたが動く必要はない」

「相沢さんが何を調べていたかを、警察がすべて知っているとは限りません」

「それで町が潰れたら、責任を取れるのか」

別の声が飛んだ。

「予約がなくなったら、うちは来月にも二人辞めてもらうしかない」

「子どもが高校へ上がるんです」

「昔の配管がどうだろうと、今の客には関係ないだろう」

予約表を見て、給料日を数え、家族の生活を支えている。三浦の言う「町」は抽象的な看板ではなく、目の前の一人一人だった。

「皆さん」

三浦が手を上げると、会場は静まった。

「霧島さんを責めるための場ではありません。ただ、真実という言葉が、常に人を救うわけではないことを分かっていただきたいのです」

小さな旅館の主人は、二十年前に配湯量が急に減った記録を持っていると囁いた。

「父が何度も組合へ抗議した。でも、計器が古いと言われた」

「見せていただけますか」

「名前は出さないでくれ。今も組合に入っている」

別の女性は、三浦を責めないでほしいと言った。

「うちの息子が事故を起こしたとき、被害者への補償を手伝ってくれた。あの人は人を見捨てない」

透子は、直人を見捨てた人だとは言わなかった。

年配の旅館主は、透子の肩へ顔を近づけた。

「昔のことは、昔の人間に任せろ」

「昔のことが、相沢さんの死につながっています」

「お前の父親だって黙って逃げた」

「脅された可能性があります」

「みんな何かに脅されて生きてる。借金、従業員、家族。それでも町を捨てなかった人間が残したんだ」

だがそれを証明するには、感情ではなく記録が要る。

透子は簡単な言葉を選ばないと決めた。

そのとき、三浦の従業員が「女将がお呼びです」と近づいてきた。

会議後、三浦は透子を別室へ呼んだ。

「公開の場で名前を出す必要がありましたか」

透子が訊いた。

「あなたも公開を望んでいるのでしょう」

「私への圧力です」

「生活を失う人の顔を見てほしかっただけです」

三浦は湯を注いだ。

「二十年前、町は本当に終わりかけていました」

「第二湯口を認めるんですか」

「緊急の配湯調整があったことは否定しません」

「記録を改ざんした」

「数字を現実に合わせたのではなく、現実を生き延びるために数字を変えた」

「同じことです」

「違います」

三浦の声が初めて強くなった。

「当時、水岬だけで百人近くが働いていました。仕入れ業者、クリーニング、タクシー、土産物店まで含めれば、その何倍もの生活がかかっていた。湯が止まり、旅館が倒れれば、町は連鎖的に死ぬ」

「だから清泉寮から湯を奪った」

「清泉寮の従業員の多くは、水岬で雇いました」

「片桐直人さんは?」

三浦の目が止まった。

「失踪した方のことは知りません」

「地下で会った」

「誰から聞いたのです」

「答えません」

三浦はゆっくり息を吐いた。

「あなたは、正しい配湯を守って全員が倒れるのと、記録を曲げて町を残すのと、どちらを選びますか」

「人を殺さない方を選びます」

「質問をすり替えないで」

「すり替えているのは、あなたです。配湯の不正と相沢さんの死を別にしている」

「結びつける証拠はない」

「相沢さんと話していましたね」

三浦は答えなかった。

「祭りの前、第二湯口の近くで」

「相沢さんとは何度も話しました。水源管理の方ですから」

「『一人を救って、町を殺すつもりですか』と言った」

三浦の指が、湯呑みの縁で止まった。

「録音があるんですね」

「あなたの声ですか」

三浦は透子をまっすぐ見た。

「仮にそうだとしても、殺人の証拠にはならない」

透子は立ち上がった。

「あなたが守ったものも調べます。奪ったものだけではなく」

「そうしてください」

三浦は静かに言った。

「すべてを知ってから、それでも同じ顔で私を責められるなら」

祖母の家へ戻り、透子は二十年前の資料をさらに調べた。

野々村典子も、洗い場係として名を連ねている。

透子は紙を置いた。

三浦の善意は、偽物ではなかった。

職を失った者を雇い、子どもの学費を援助し、町の行事を支えてきた。だからこそ人々は彼女を信じ、彼女のために黙った。

翌朝、父から封書が届いた。

透子へ。

電話で話せなかったことを書く。

十年前、私は水岬の地下配管から異音が出ていると連絡を受けた。古い点検路へ入り、封鎖壁の亀裂を見つけた。壁を叩くと空洞の音がした。下部の穴から内視鏡を入れ、人の骨のようなものを見た。

私は警察へ知らせると言った。

その夜、家へ電話があった。

電話の相手は名乗らなかった。お前が学校から帰る道、母さんが買い物をする店、祖母が通う共同浴場を順に読み上げた。

脅しではない、と言った。

翌日、私は無断侵入と設備破損の責任を認める書類に署名した。お前たちを連れて町を出た。

黙ったことで、隠した側に入った。

透子は便箋を読み終え、畳の上へ置いた。

父への怒りは消えなかった。

だが、その形が変わった。

なぜ黙ったのか、と責めることはできる。

しかし当時十八歳だった自分の通学路を読み上げられ、家族を守るために町を出た父へ、正義を選べと言い切れるのか。

透子自身、記事で他人の家族を傷つけたあと、新聞社から逃げた。

夕方、久保田から電話が来た。

「相沢さんの足取りが一部分かりました。祭りの夜、午後八時十分ごろ、水岬の従業員用通路へ入る姿が防犯カメラに映っています」

「一人で?」

「はい。三十分後、カメラが一時停止している」

「誰が止めた?」

「管理端末から操作されています」

「権限は」

「複数人が持っています」

「三浦さんも」

「含まれます」

透子は父の手紙を見た。

「久保田さん。二十年前の失踪と十年前の父の事故は、同じ封鎖壁につながっています」

「手紙を証拠として提出できますか」

「父に確認します」

「お願いします」

通話を終えた直後、別の着信が入った。

野々村典子だった。

「透子ちゃん」

声が震えている。

「どうしました」

「帳簿は一冊じゃない」

透子は立ち上がった。

「何を持っているんです」

「ばあさんに預けるはずだったものが、まだ私のところにある。直人さんの声も」

「今、どこですか」

「清泉寮。昔の浴場に――」

通話の向こうで、戸が開く音がした。

野々村の息が止まる。

「誰だい」

透子はスマートフォンを耳へ押し当てた。

「野々村さん? そこを出てください」

小さな物音。

湯呑みが卓上へ置かれるような音。

それから、低い女の声がかすかに聞こえた。

「もう、休んでいいのよ」

電話が切れた。

第七章 もう一つの死

清泉寮へ着くまでの十分が、透子には一時間のように長かった。

由紀が車を運転し、透子は助手席から何度も野々村へ電話をかけた。呼び出し音は鳴る。だが出ない。

「もっと速く」

「これ以上は危ないです」

由紀の両手はハンドルを強く握り、指の関節が白くなっている。

透子は久保田刑事へ連絡した。

「野々村さんから証拠を渡すという電話がありました。途中で誰かが入ってきて、切れました」

「場所は」

「清泉寮です」

「建物へ入らず、外で待ってください」

「できません」

「霧島さん」

「命がかかっています」

「だから待てと言っています」

返事をせず、透子は通話を切った。

由紀が車を停めるより先に、透子はドアを開けて走った。正面玄関は施錠されている。裏へ回ると、以前使った木戸が半開きになっていた。

「野々村さん!」

廊下は暗く、湿った畳の匂いがした。

旧浴場の戸が開いていた。

野々村典子は、湯の中へ身体を横たえていた。

頭は縁に寄りかかり、目を閉じている。まるで眠っているようだった。

「野々村さん!」

由紀と二人で身体を引き上げ、床へ寝かせる。呼吸はない。首に脈も感じられない。

透子は胸骨圧迫を始めた。

肋骨の下で身体が沈む。

「救急へ!」

由紀が電話をかける。

野々村の袖から水が滴っている。だが胸元の服はほとんど濡れていない。浴槽へ自分で入ったなら、こんな濡れ方にはならない。

相沢と同じだ。

水の中で死んだように見せられている。

救急隊が到着するまで、透子は手を止めなかった。

だが野々村が戻ることはなかった。

久保田は現場へ入るなり、透子を廊下へ連れ出した。

「待てと言いました」

「生きている可能性があった」

「犯人がまだ中にいた可能性もあった」

「いませんでした」

「結果論です」

久保田は怒鳴らなかった。抑えた声の方が、怒りが深いと分かった。

「あなたが死ねば、誰が責任を取るんです」

透子は言葉を失った。

「私たちは遺体を調べられる。証拠も調べる。でも、生きている人間を戻すことはできない」

浴場の中で鑑識が写真を撮り始めた。

由紀は壁際に立ち、両腕を抱えている。

「電話で、女の声が聞こえました」

透子が言った。

「何と」

「『もう、休んでいいのよ』」

「聞き覚えは」

三浦の声に似ていた。

ただ、電話越しで小さく、断定はできない。

「似ている人はいます。でも証拠にはならない」

「名前を」

「三浦清司さん」

久保田は表情を変えなかった。

「分かりました」

野々村の死亡推定時刻は、透子へ電話をかけた直後と見られた。

浴槽に外傷はなく、入浴中の事故に見える。だが湯は長時間前に止められ、すでに冷めていた。野々村の衣服は片袖と背中だけが濡れ、足元には引きずられた跡がある。

ほかの欠片は、犯人が拾ったのか見当たらない。鑑識員が排水口の網から、小さな陶片と茶葉を回収した。

野々村の右手には、細い繊維が握られていた。濃紺の絹糸。抵抗した際、相手の衣服から取れた可能性がある。

「水岬の制服は?」

透子が由紀へ訊いた。

「女将の帯締めに、同じ色があったと思います。でも旅館の装飾布にも使います」

犯人は、証拠を一つずつ曖昧な範囲へ置いているようだった。

野々村は最後に相手を見た。

透子は浴場の戸口で、冷めた水面を見た。

相沢のときは間に合わなかった。

野々村には電話を受けた。それでも間に合わなかった。

自分が真実へ近づくほど、周囲の人が死ぬ。

一瞬、調査をやめるべきではないかと思った。

だが、やめれば二人の死は事故に近い言葉へ戻される。

野々村の遺体が運ばれたあと、清泉寮には夜明けまで灯りが残った。

透子は警察車両の中で、電話の録音を何度も聞いた。野々村の声、戸が開く音、湯呑みのような小さな音、女の声。

着物の袖が畳へ触れるような、乾いた音だった。

「三浦さんは、普段着物です」

透子が言うと、久保田は録音を止めた。

「着物を着る人はほかにもいる」

「水岬の制服も和装です」

「そうです。だから音だけで人物は決められない」

「分かっています」

「分かっていて、三浦さんの名前を出している」

「声が似ているからです」

久保田は疲れた顔で窓の外を見た。

「あなたが最初から三浦さんを疑っていることは理解しています。動機も機会もある。しかし、疑いが強いほど、違う可能性を落とす」

「由紀さんも疑っていますか」

「全員を調べます」

「相沢さんと親しかった。父の件を隠していた。野々村さんから証拠を受け取る予定を知っていた」

「あなたが列挙すると、十分な容疑者に聞こえますね」

「だからこそ、防犯カメラの映像を作った人は由紀さんを選んだ」

「まだ映像が加工されたとは決まっていません」

透子は窓越しに、由紀が警官から事情を聞かれている姿を見た。

父の失踪を追う者が二人死んだ。

最も分かりやすい物語は、由紀が復讐や口論の末に殺したというものだ。町にとっても、二十年前の隠蔽より、一人の娘の暴走で終わる方が都合がいい。

「久保田さん」

「何です」

「町が求める分かりやすい物語に、捜査を合わせないでください」

「警察を何だと思っています」

「町の人間が集まった組織です」

久保田は透子を睨み、やがて小さく息を吐いた。

「私の父は、この町で土産物屋をしていました」

「二十年前、店が潰れかけた。水岬から団体客を回してもらい、何とか残った。三浦さんには恩があります」

「なら」

「だからこそ、証拠だけを見ます。恩も、あなたの推理も、捜査の結論にはしない」

久保田は車のドアを開けた。

「あなたも同じようにしてください」

午前四時、由紀の聴取はいったん終わった。

二人は清泉寮近くの自動販売機で温かいお茶を買った。由紀は缶を握ったまま、飲もうとしない。

「野々村さん、私が来るのを待ってたかもしれない」

「電話は私にかけました」

「でも、父のテープなら私に渡すものです」

「あなたを巻き込みたくなかったのかもしれない」

「もう巻き込まれてる」

由紀は暗い建物を見た。

「野々村さんは、父が逃げたって言うたびに目を逸らした。私は、それが父を嫌ってるからだと思ってた」

「本当のことを言えなかった」

「そのせいで、私は野々村さんにも冷たくした」

「知らなかったんです」

「知らないことは、傷つけていい理由になりますか」

自分が書いた記事で傷ついた人々も、透子が知らなかった場所にいた。知らなかったから責任がないとは思えない。

「ならないと思う」

透子は言った。

「でも、知ったあとに何をするかは選べる」

由紀は缶を開け、一口飲んだ。

空が薄く青み始めたころ、水岬の支配人が現れた。

「由紀さん、女将が心配しています」

「女将は、野々村さんが亡くなったことを知ってるんですか」

「町中に連絡が回っています」

「早いですね」

「あなたがいると、由紀さんまで危険なことをする」

「閉じ込めた人へ言ってください」

「清泉寮の件は、古い設備の故障です」

「警察はそう決めていません」

支配人は由紀へ向き直った。

「旅館へ戻りなさい。今なら、女将も事情を理解してくれる」

「戻って、何も言わないふりをしろって?」

「水岬で働く人間として、軽率な発言をしないでほしいだけだ」

「相沢さんが死んでも、野々村さんが死んでも?」

「事件かどうかは警察が」

「またそれ」

由紀は立ち上がった。

「私は今まで、町に都合のいい写真を選ぶ仕事をしてきました。でも、父の写真まで消されるのは嫌です」

「片桐さんの件と今回を結びつける証拠はない」

「見つけます」

支配人は透子を見た。

「責任を取れるんですか」

「何の責任です」

「この人の仕事も、町での暮らしも失わせる責任です」

「由紀さんが選びます」

「外から来た人は、簡単にそう言う」

「私はここで育ち、ここから追い出されました」

「だから復讐しているんでしょう」

自分が正しかったと証明したい気持ちもある。

その迷いを見抜いたように、支配人は由紀へ言った。

「この人は記事を書いたら去れる。残るのは君だ」

由紀は静かに答えた。

「だから、私が決めます」

透子は由紀へ謝ろうとしたが、由紀は首を振った。

「本当のことです。透子さんは去れる」

「去らないと言っても、今は信じられないですね」

「はい」

「それでも調べます」

「私もです」

野々村の死は、町で小さな波紋を広げた。

共同浴場の入口には花と線香が置かれた。長年掃除をしていた野々村を知る客が、「いつも湯加減を気にしてくれた」と話した。

一方で、清泉寮へ証拠を隠していたという噂も流れた。

「二十年も黙っていたなら共犯だ」

「今さら町を売った」

そんな言葉を聞き、由紀は花を片づけようとした男の前へ立った。

「野々村さんは殺されたんです」

「だからって、昔のことを掘り返した責任はある」

「殺した人ではなく、殺された人を責めるんですか」

ただし記録するとき、誰が何を恐れて言ったのかを切り離してはいけない。

野々村を責めた男の旅館では、すでに三十件以上のキャンセルが出ていた。彼は妻と二人で経営し、借入金の返済を抱えている。

事情は言葉を正しくしない。

だが、言葉が生まれた理由にはなる。

由紀は共同浴場の前へ桔梗を一輪置いた。

「私、野々村さんを許せるか分かりません」

「許さなくていいと思う」

「でも、守ってくれたことには感謝してる」

「両方でいい」

「透子さん、最近そればかり」

「人が一つじゃないから」

由紀は花を見つめた。

「父も、そうですか」

「きっと」

翌日、司法解剖の予備結果が出た。

体内から、相沢と同系統の睡眠導入剤が検出された。

久保田は民宿の談話室で透子と由紀へ説明した。

「野々村さんは薬で意識を失ったあと、水に顔を沈められた可能性が高い」

「同じ犯人ですか」

由紀が訊いた。

「薬が同じ種類というだけでは断定できません。ただ、二人とも配湯の件を知っていた。事故に見せかけられている。関連を前提に調べます」

「清泉寮へ入った人物は」

「付近の防犯カメラを確認しています」

久保田のスマートフォンが鳴った。画面を確認したあと、表情が曇る。

「片桐さん。昨夜、午後十時四十二分ごろ、清泉寮の裏手へ入りましたか」

「私たちが着いたのは十一時過ぎです」

「映像に、あなたらしい人物が映っています」

由紀の顔が強張った。

「そんなはずありません」

「水岬の制服に、あなたが使っている白いバッグ。顔も一部確認できます」

「私はその時間、旅館にいました」

「証明できますか」

「祭り後の企画会議で、SNSのライブ配信をしていました」

由紀はスマートフォンを開き、投稿履歴を見せた。

午後十時三十八分から十時五十分まで、水岬の厨房から生配信をしている。由紀本人が画面に映り、料理長と話していた。

「録画を後から流した可能性は」

「ライブです。コメントにもその場で答えています」

久保田は映像を確認した。

「では、防犯カメラの時刻が違う」

透子が言った。

「映像を見せてください」

「捜査資料です」

「時刻表示以外で、時間を特定できるものがあるかもしれない」

久保田は迷ったあと、静止画だけを見せた。

夜の清泉寮裏手。画面右下に二十二時四十二分。白いバッグを持った女が木戸へ向かっている。横顔は確かに由紀に似ている。

「この送迎車は、毎日同じ時刻ですか」

由紀が頷く。

「午後十時二十分に駅を出て、ここを通るのは十時二十五分ごろです」

「カメラは十五分以上進んでいる」

久保田は映像担当へ電話した。

その時間、由紀はまだライブ配信の準備中で、画面には映っていない。アリバイは不完全だった。

「バッグと制服は、旅館に置いてあれば誰でも使えます」

透子が言った。

「顔は?」

久保田が訊く。

「映像が粗い。髪型と輪郭だけです。由紀さんに見せるための格好だった可能性がある」

「誰がカメラの時計を変えられるんです」

「清泉寮の管理は旅館組合です」

由紀が答えた。

「端末は水岬の管理室にもあります。女将、支配人、設備担当……私もSNS撮影で使うことがあります」

自分も容疑者から外れないと気づき、由紀の声が弱くなった。

由紀の聴取が始まる前、警察は野々村の娘、佐和子へ連絡を取った。

佐和子は東京から夕方に到着し、清泉寮の前で透子と会った。

「母が、あなたへ電話をしたんですね」

「証拠を渡すと言っていました」

「私には何も言わなかった」

佐和子は母の部屋を見回した。

「町を出ようと何度も誘いました。でも、清泉寮があるからって。閉まった宿なのに、何を守ってるんだろうと思ってた」

箪笥の奥から、野々村が書いた手紙が見つかった。

宛名は由紀だった。

由紀ちゃんへ。

あなたに恨まれて当然です。

それでも、直人さんが最後まであなたの名を呼んでいたことだけは、伝えたい。

手紙は書きかけで終わっていた。

佐和子は封筒を持ったまま言った。

「これを由紀さんに渡してください」

「あなたからの方が」

「私は母を責めていました。町に縛られて、家族を選ばなかったって。今、母が何を恐れていたか分かりません」

「分からないままでも、渡せます」

「あなたは、分からないことをそのままにできる人ですか」

「前は、できませんでした。全部に答えを付けたかった」

「今は?」

「答えがないことも記録しようと思っています」

佐和子は手紙を透子へ渡した。

聴取を終えた由紀は、警察署の廊下で手紙を読んだ。

「父は、私の名前を呼んでた」

「黒岩さんも同じことを言っていました」

「野々村さんは、二十年これを書けなかった」

「最後には書こうとした」

「遅すぎるって思ってもいいですか」

「いいと思う」

「ありがとうって思っても?」

「それも」

由紀は泣きながら笑った。

「人を一つに決めないって、苦しいですね」

「ええ」

「でも、父のことも一つに決めたくない」

由紀は手紙を丁寧に折り、父の写真と一緒にしまった。

警察は由紀を任意で聴取した。

相沢との関係を隠していたこと。父の失踪を調べていたこと。野々村から証拠を得ようとしていたこと。どれも、外から見れば動機に変えられる。

野々村の部屋は荒らされていた。

押し入れの箱が床へ投げ出され、箪笥の引き出しが抜かれている。帳簿もカセットテープも見つからなかった。

犯人は、野々村が何を持っているか知っていた。

だが野々村は電話で「まだ私のところにある」と言った。

長年恐れながら証拠を守った人が、簡単に見つかる場所へ置くだろうか。

透子は部屋を見回した。

祖母と野々村だけが使った印。

「久保田さん」

透子は鑑識を呼び止めた。

「この湯桶を調べてください」

野々村は、最後まで隠していた。

紙は配湯帳簿の一部だった。

二十年前の流量記録。表の数字は黒いインクで書かれ、その上から赤鉛筆で修正されている。修正後の数値は公開資料と一致するが、修正前の数値では清泉寮から大量の湯が減らされ、水岬へ回されていた。

三浦清司。

水源会社の当時の責任者。

片桐直人。

ただし直人の印の横には、本人の字と思われる大きな斜線が引かれていた。

カセットテープは、警察署の古い再生機でデジタル化された。

雑音のあと、若い男の声が流れた。

『野々村さんへ。念のために残します。第二湯口は、当初説明された緊急配湯ではありません。土地台帳と流量記録が書き換えられています。清泉寮の湯を減らしただけじゃない。工事に関わった人間の名前も消されている』

由紀は両手を口元へ当てた。

父の声を、二十年ぶりに聞いたのだ。

『今夜、地下で話します。三浦さんは町のためだと言うでしょう。組合長も同じです。でも、誰かの暮らしを守るために、別の誰かの存在を消していいはずがない』

『もし戻らなかったら、由紀に伝えてください。父親が逃げたとだけは、思わせたくない』

由紀の肩が震えた。

「お父さん」

透子はそばにいたが、触れなかった。

これは慰める時間ではない。

録音には、三浦を含む関係者の名があった。だが直人が地下へ入った後のことは記録されていない。

帳簿も数ページだけで、原本ではない。

「これで三浦さんを逮捕できませんか」

由紀が久保田へ訊いた。

「相沢さんや野々村さんの殺害を示す直接証拠はありません。二十年前の件も、不正配湯を知っていたことまでは示せますが、片桐さんが死亡したかどうか、誰が何をしたかは別です」

「父の骨が壁の向こうにある」

「確認が必要です」

「早く壊してください」

「封鎖壁の先は地盤が不安定で、温泉管も通っています。消防と専門家の準備が必要です」

「また待つんですか」

由紀の声が鋭くなった。

「二十年待ったんです」

久保田は目を逸らさなかった。

「今度は、待たせたまま終わらせません」

帳簿の紙を一枚ずつ確認していた透子は、最後のページの余白に新しい鉛筆書きを見つけた。

野々村の字だった。

満月の夜、午前二時。

第一湯口を止めれば、水沢の底への道が開く。

透子は窓の外を見た。

雲の切れ間に、白い月が浮かんでいる。

満月は、その夜だった。

第八章 水沢の底

午前一時四十分、水沢沿いの道に人影はなかった。

祭りの夜に相沢が発見された取水柵も、今は警察の規制灯が赤く点滅しているだけだった。山から下りてくる冷気が水面を這い、薄い霧を作っている。

透子、由紀、久保田刑事の三人は、石壁の陰で流量が下がるのを待っていた。

本来なら、消防と水源管理会社の技術者、複数の警察官をそろえて入るべき場所だった。だが野々村の記録が示す時間は一晩に一度、わずか二十分ほどしかない。さらに、帳簿が発見されたことは旅館組合にも伝わっている。朝を待てば証拠を移される可能性があった。

久保田は上司へ現場確認の許可を取り、外に応援を待機させていた。

「中へ入るのは私だけです」

久保田が言った。

「ここまで来て?」

透子は防水ライトを確認した。

「場所を見つけたら、専門班を呼ぶ。それが手順です」

「野々村さんの記録を読めるのは私たちです」

「文字なら私も読めます」

「父の図面と違う場所があれば判断できない」

由紀も言った。

「壁の刻印や工具を見れば、父のものか分かるかもしれません」

久保田は二人を見比べ、深く息を吐いた。

「私の指示に従う。危険だと言ったら戻る。勝手に離れない」

「分かりました」

「霧島さんの『分かりました』は信用していません」

「今回は努力ではなく、従います」

午前一時五十八分。

水沢の流れが、目に見えて弱くなった。

第一湯口の定期的な圧力調整で、上流の弁が閉じられたのだろう。普段は水面の下にある石壁の下部が現れ、黒い穴が口を開けた。

「点検口だ」

久保田が先に降りた。

一方には「第一」と彫られた石標。

「第二湯口」

透子が言った。

点検口へ入る直前、由紀は父の写真を防水袋へ入れ、胸元にしまった。

「持っていくんですか」

久保田が訊いた。

「父を探しに行くので」

「遺体があると決まったわけでは」

「分かっています」

由紀は言葉とは逆に、写真を強く押さえた。

透子は父の手描き図面を畳み、同じように内ポケットへ入れた。

二人とも、死者や不在の父を案内人にして地下へ入ろうとしている。

「時間です」

久保田が先頭に立った。

地上の警察官が、三人の腰の安全ロープを確認する。

透子は一度、町の灯りを振り返った。

何百人もの人が、地下で何が見つかるかを知らず眠っている。

分岐の前で、久保田は通路の壁へ反射板を取り付けた。

「帰り道の目印です」

「一本道では?」

由紀が訊く。

「地下では、来た道が同じに見えなくなる。停電や湯気が出れば、なおさらです」

久保田は腰の無線機を確認した。

電波は弱く、雑音が混じる。外の応援班へ現在位置を伝えたが、返事は途切れ途切れだった。

「二十分で水位が戻ります」

「野々村さんの記録では、第一湯口を止めれば道が開くとだけ」

透子は水面を見た。

「再開時刻までは書いていない」

「通常の圧力調整なら、午前二時二十分に戻る」

由紀が台帳の記憶をたどった。

「でも、誰かが手動で早めることもできます」

久保田は時計を見た。

「十五分で引き返します」

「封鎖壁まで届かなければ?」

「明日、正式な装備で入る」

「証拠を移される」

「そのために地上を警戒させています」

通路の入口には警察官がいる。三浦が自由に操作できるとは限らない。

それでも、誰かが二十年間この設備を管理し、警察が入る直前にも状態を変えた。地上の監視だけで完全とは思えなかった。

肩が配管へ触れる。金属の内側を湯が走るたび、低い振動が骨へ伝わる。

「ここを、父が歩いた」

由紀が呟いた。

「相沢さんも」

透子は赤い泥に残る跡を照らした。

古い靴跡と、新しい靴跡が重なっている。警察の現場確認で付いたものもあるが、その下に大きな作業靴の形が残っていた。

「水位の記録でしょうか」

久保田が測った。

「一定の高さごとに日付がある。直人さんの字かもしれない」

一番新しい日付は、失踪の三日前だった。

「配湯の差を、自分で測っていた」

透子は写真を撮った。

直人は帳簿だけでなく、現場の水位を記録していた。数字を改ざんされても、壁は実際の流れを残している。

さらに奥で、古い安全帽が落ちていた。

「父の名字」

由紀が手を伸ばした。

久保田が止める。

「触らないで。位置を記録します」

「二十年、ここに?」

「水に流されず残ったのなら」

由紀は手を引き、拳を握った。

人々が眠る町の下で、直人は助けを求めていた。

「久保田さんのお父さんの店も、三浦さんに助けられたと言いましたね」

透子が前を歩く久保田へ訊いた。

「今、話すことですか」

「この先で三浦さんの罪を示すものが見つかったら、あなたも町を傷つける側になる」

「警察官です」

「警察官でも、町の人です」

久保田は足を止めなかった。

「父の店は三年前に閉めました。三浦さんが助けたから、二十年長く続いた。その間に私を大学へ行かせ、警察官にした」

「恩を感じていますか」

「感じています」

「それでも逮捕できる?」

「証拠があれば」

「迷わず?」

久保田は振り返った。

「迷うことと、やらないことは別です」

修司は迷い、やらなかった。

時計を見ると、残り九分だった。

通路の先で、風が動いた。

「空洞が近い」

久保田がライトを上げた。

久保田がライトを斜めに当てると、金属工具で繰り返し打った跡が浮かぶ。

「向こうからではありません」

「こちら側から?」

「誰かが封鎖後に入り、さらに奥へ進もうとした」

透子は父の図面を思い出した。

十年前、修司が壁を開けようとしたときの傷かもしれない。

その上から新しい塗料が塗られ、遠目には見えなくされている。

「父は、ここまで来た」

透子が呟く。

「私の父も」

由紀が答えた。

二人の父は、十年の時間を隔てて同じ通路を歩いた。

一人は閉じ込められ、一人は見つけて逃げた。

三人は第二の通路へ入った。

由紀がライトを止めた。

「見て」

「父の字です」

由紀は指で触れようとし、思い直して手を引いた。

「私の持ち物に、よくローマ字で名前を書いてくれた。同じ形です」

直人は、この場所へ来た。

助けを待ちながらか、証拠を残すためか、それは分からない。

さらに進むと、父の図面にあった封鎖壁が現れた。

十年前に修司が開けようとした亀裂は、表面だけ新しいコンクリートで補修されている。下部の一か所が、水圧で崩れていた。

久保田が内部を照らした。

空洞がある。

先に入った久保田が、突然動きを止めた。

「来ないでください」

その声で、透子には分かった。

だが由紀は隙間をくぐった。

「待って」

空洞の奥、崩れた土砂のそばに、人骨が横たわっていた。

片桐直人。

由紀はその場へ膝をついた。

父の図面が正しかった。

修司は十年前、この骨を見た。娘の通学路を読み上げられ、壁を閉じたまま町を去った。

人骨の手元には、錆びた工具箱があった。

久保田が手袋を着け、慎重に蓋を開ける。

中には油紙に包まれた帳簿、土地台帳の写し、会議録が入っていた。湿気を吸っているが、文字は残っている。

会議録の日付は片桐直人失踪の夜。

出席者欄に、三浦清司、水源会社責任者、旅館組合長、片桐直人。

本文には、第二湯口を恒久運用すること、配湯記録を書き換えること、異議を唱えた直人から資料を回収することが記されている。

救助は設備停止と警察への通報を伴い、本件全体の公表を避けられない。

協議の結果、午前四時まで待機。

午前四時十五分、応答なし。

由紀が紙を見た。

「応答あり……」

声がかすれた。

「生きてた」

久保田は会議録を証拠袋へ入れた。

「ここから出ましょう。応援を呼びます」

無線を取り出したとき、照明が消えた。

通路に設置されていた古い作業灯が、一斉に落ちた。

続いて、背後で水門が閉まる音がした。

「戻る!」

久保田が走った。

封鎖壁を抜けると、第二通路の奥に人が立っていた。

真鍮の鍵束を右手に下げている。

三浦清司だった。

着物ではなく、濃い作業着と長靴を身につけている。髪は後ろで束ねられ、顔には疲労が刻まれていた。

「三浦さん」

久保田が警察手帳を示した。

「水門を開けてください」

「もう遅いんです」

三浦は制御盤の前に立ったまま答えた。

「何が遅いんです」

「全部」

由紀が前へ出た。

「父を、ここへ閉じ込めたんですか」

三浦は由紀を見た。

その顔に、初めて明らかな痛みが浮かんだ。

「突き落とすつもりはなかった」

「でも、助けなかった」

「直人さんが帳簿を持って逃げようとした。取り合いになって、足場が崩れた。下から声がした。助けてくれと」

「なぜ助けなかった!」

由紀の叫びが地下へ響いた。

三浦は目を閉じた。

「助ければ、すべてが終わると思った」

祭りの再開を翌日に控え、旅館には予約客が戻り始めていた。従業員たちは給料が出ると喜び、商店は仕入れを増やし、子どもたちは提灯を飾っていた。

その夜、直人は原簿を持ち、公表すると言った。

「私は、あと五分だけ考えようと言った」

三浦の声は乾いていた。

「五分たてば、別の方法が見つかると思った。もう五分、もう五分と繰り返した。その間、直人さんは下で壁を叩いていた」

「声が弱くなった。水源会社の人は、もう助けても間に合わないと言った。組合長は、直人さんが町を出たことにすれば家族へ補償できると言った」

「補償?」

由紀が笑った。泣きながら、壊れた笑い方だった。

「私たちは、逃げた男の家族として追い出された」

「私は、あなたのお祖母さんへ仕事を」

「そんなもの、父の代わりにならない!」

三浦は言葉を失った。

透子は訊いた。

「相沢さんを殺したのも、あなたですか」

三浦はゆっくり透子へ顔を向けた。

「公表を思いとどまってほしかった」

「祭りの夜、ここへ呼んだ」

「水岬の部屋で話したあと、旧配湯施設へ案内した。全部を見せれば、町がどうなるか理解してくれると思った」

「飲み物に薬を入れた」

「眠らせて、資料だけを取り上げるつもりだった」

「また、つもりですか」

三浦の顔が歪んだ。

「相沢さんは、薬が効き始めても録音を止めなかった。私を告発すると言った。由紀さんに父親の名を返すと。私は……彼を押した」

相沢は排水路へ落ちた。

意識が薄れ、温水の中でもがいた。三浦は手を伸ばさなかった。二十年前と同じように、流れが声を消すのを待った。

遺体は二つの湯口が合流する排水路を流れ、水沢の取水柵へ引っかかった。

「野々村さんは」

「電話をしているのが聞こえた。テープを渡せば、直人さんの死が明らかになる。相沢さんを殺したことも、全部つながる」

「だから薬を飲ませ、浴槽へ沈めた」

「野々村さんは、二十年苦しんでいた。もう休みたいと言っていた」

「あなたが休ませたんじゃない」

透子の声は低かった。

「殺したんです」

三浦の目に涙が浮かんだ。

「私が守らなければ、町は死ぬ」

「町は、あなた一人のものではありません」

「あなたは知らない。倒産の通知を従業員へ渡す夜を。子どもを抱いた母親から、来月も働けますかと訊かれることを。私は守った。二十年、旅館を立て直し、雇用を増やし、清泉寮の人たちも受け入れた」

「守った生活は本物です」

透子は言った。

「だから、奪った命も本物です」

三浦は人骨のある空洞へ目を向けた。

「直人さんが死んだあと、私は毎年、由紀さんの誕生日に贈り物を送りました」

「祖母からだと思っていました」

由紀の声が震える。

「名乗る資格がなかった。せめて生活だけは困らないようにと」

「それで父を返したつもり?」

「違う」

三浦は首を振った。

「返せないと分かっていたから、ほかの人を守り続けた。救った人数が増えれば、あの夜の選択が正しかったことになると思った」

善行を重ねるたび、直人を見捨てた一夜が町を救った礎に見えた。

「十年前、修司さんが壁を見つけたとき、全部終わらせる機会だった」

透子は父の名に反応した。

「父を脅したのは、あなた?」

「直接電話をしたのは、当時の水源会社の人です。私は止めなかった」

「また、止めなかった」

三浦は目を伏せた。

「修司さんが町を出たあと、私は水岬で働き続けた。あなたのお祖母さんに、必ず家族を支えると言った。でも断られた」

「祖母は知っていたから」

「ええ。あの人は私を責めず、許しもしなかった。それが一番つらかった」

「つらかったから、相沢さんを殺した?」

「違う。相沢さんが公表すれば、直人さんを見捨てたことだけでなく、私がその後にしたこと全部が、罪を隠すためだったと言われる」

「実際、そうだった部分もある」

「でも救われた人は本物よ!」

三浦の声が地下に響いた。

「私は、あの人たちの人生まで偽物にされたくなかった」

透子は静かに答えた。

「誰も偽物にはできません。あなたが殺人を認めても、救われた人の人生は消えない」

「町の人は、そう思わない」

「あなたが決めることじゃない」

三浦の顔から、最後の迷いが消えた。

三浦は制御盤へ手を掛けた。

「この原簿が出れば、町全体が犯罪者になる。水岬だけでは済まない。行政も、会社も、亡くなった人の家族も責められる」

「もう止められません」

「止められます」

三浦がレバーを引いた。

配管の奥で巨大な音がした。

「全員、壁の中へ!」

久保田が叫んだ。

だが封鎖空洞へ戻れば、逃げ道がなくなる。

三浦は証拠も人骨も、全員ごと湯で流すつもりだった。

久保田が三浦へ向かった。足元の泥で滑り、配管へ肩を打ちつける。鈍い音がし、右腕を押さえて倒れた。

「久保田さん!」

透子が駆け寄る。

「いいから、弁を」

由紀は壁の刻印へライトを向けた。

YUKIの文字の横に、半分泥に埋まった小さな赤いハンドルがある。

「父が教えてくれた」

由紀が呟いた。

「地下で迷ったら、青は流す、赤は止める」

旧式の非常弁だった。

由紀がハンドルを回す。錆びて動かない。

「透子さん、時間を!」

透子は三浦の前へ立った。

「相沢さんは最後まで、あなたに公表する機会を与えたんじゃないですか」

三浦の視線を由紀から逸らす。

「何を」

「録音の中で、警察へ行く前に話していた。あなたが自分で認める可能性を残していた」

「黙りなさい」

「野々村さんも、二十年テープを隠した。すぐに告発しなかったのは、あなたが町を守ったことを知っていたからです」

「黙れ!」

三浦が透子へ掴みかかった。

二人は湯の中へ倒れた。

熱が服を通して皮膚を焼く。三浦の手は驚くほど強かった。透子の首へ指が食い込む。

「町を守った人間が、なぜ殺人者になるの」

三浦は泣いていた。

透子は三浦の手首をつかんだ。

「守る相手の中から」

「都合の悪い一人を外した時からです」

三浦の力が一瞬緩んだ。

そのとき、金属が軋む大きな音がした。

由紀が非常弁を回している。両手の皮が裂け、血がハンドルへ付いていた。

「動いて!」

久保田が左手で無線機を操作し、位置情報を送信した。

『地下第二分岐、緊急。熱水流入。消防を』

透子は三浦を押しのけ、由紀のところへ走った。

三浦は制御盤へ戻ろうとしたが、久保田が足へしがみついた。

「離して!」

「警察です。三浦清司、動くな」

「町が死ぬのよ!」

「もう二人死んでる!」

久保田の怒声が響いた。

由紀が最後の力で弁を回し切った。

流れ込んだ湯が、足元でゆっくり引いていく。

遠くから、金属を叩く音が聞こえた。

今度は、消防隊が封鎖された水門の向こうから送る合図だった。

救助隊が到着し、水門が開かれた。

三浦は逃げなかった。

片桐直人の人骨の前へ戻り、泥の中に座り込んだ。

「ごめんなさい」

誰へ向けた言葉かは分からなかった。

由紀は父の名札を証拠袋越しに両手で抱えた。

「お父さん」

今度は、はっきり声にした。

地上へ出たとき、夜は明け始めていた。

救急車、消防車、警察車両が水沢沿いを埋めている。町の人々も遠巻きに集まっていた。

透子は担架へ乗せられる久保田を見送り、由紀と並んで規制線の外へ出た。

人骨と原簿が見つかったことは、すでに伝わっているらしい。

誰も声をかけなかった。

安堵も、感謝も、非難さえなかった。

町の人々は、透子を見て、視線を逸らした。

沈黙だけが、朝の湯気より濃く、石段街の方角に溜まっていた。

第九章 叫ばれない声

三浦清司の逮捕は、午前八時のニュースで報じられた。

老舗旅館「水岬」の女将、連続殺人の疑い。

画面には、旅館の玄関、規制線の張られた水沢、ブルーシートで覆われた地下点検口が繰り返し映った。報道各社の車が石段街へ入り、観光客より多くのカメラが町を歩いた。

昼までに、水岬は営業休止を発表した。

宿泊客は系列旅館へ移され、従業員は自宅待機となった。玄関に掛けられた休館の札の前で、記者たちが中継を続けている。

透子は民宿の二階から、その光景を見ていた。

首には三浦につかまれた指の痕が残り、脚の火傷には包帯が巻かれている。身体を動かすたびに痛んだが、何もしないでいる方が苦しかった。

テレビの字幕は、三浦を「温泉街を支えた名物女将」と紹介し、その直後に「二人を殺害した疑い」と続けた。

正反対の言葉が一人の人物に並んでいる。

どちらも事実だった。

相沢玲司と野々村典子の殺害について、三浦は大筋で認めた。

二十年前の片桐直人の死については、転落そのものは事故だったと供述した。ただし救助を見送り、封鎖したことは認めている。当時の水源会社責任者と旅館組合長はすでに亡くなっていた。会議へ参加した者の中には病床にある者や、記憶が曖昧な者もいた。

原簿と会議録が見つかっても、二十年分の責任を法廷で切り分けるには時間がかかる。

一方で町は、待ってくれなかった。

民宿つむぎの電話も鳴り続けた。

「事件のあった温泉には入りたくない」

「水は安全なのか」

「町ぐるみで隠していたのではないか」

女将は謝り、説明し、頭を下げた。電話の相手には見えなくても、毎回深く頭を下げた。

透子が手伝おうとすると、女将は首を振った。

「あなたは休んで」

「私も説明します」

「今、あなたが電話に出たら余計に騒ぎになる」

責める声ではなかった。

だからこそ、透子は何も言えなかった。

午後、旅館組合と水源管理会社が合同会見を開いた。

会見では、三浦個人の犯罪に捜査が集中していること、現在の温泉水の安全性に問題はないこと、過去の配湯記録については行政の調査を待つことが発表された。

二十年前の組織的な改ざんも、片桐直人の救助を見送った会議録も、「捜査中」を理由に説明されなかった。

三浦一人の罪として終わらせようとしている。

透子は画面を見ながら、そう感じた。

その物語なら、観光地は再開できる。

だが、三浦を生み、二十年の沈黙を支えたものは残る。

帳場の奥にある小部屋で、二人は向かい合った。

「今月だけで、売上が半分以下になると思う」

「すみません」

「謝ってほしいんじゃない」

女将は目を伏せた。

「あなたがしたことが間違いだとも言えない。相沢さんも野々村さんも殺された。直人さんは二十年も地下にいた。それを知らないふりはできない」

「はい」

「でも、ここには従業員がいる。仕入れ先もある。私一人の正義で、みんなへ給料を払えるわけじゃない」

透子には、続く言葉が分かった。

「辞めます」

「まだ何も言ってない」

「言わせる方がつらいでしょう」

女将の目に涙が浮かんだ。

「少しの間だけ、町を離れるという方法もある」

「十年前と同じですね」

「違う」

「追い出す人が優しいだけです」

言ったあと、透子は後悔した。

女将は悪くない。

この民宿で、帰る場所のなかった透子を雇ってくれた。祖母の死後、一人になった家へ毎日食事を届けてくれた。

「ごめんなさい」

「こっちこそ」

二人はしばらく黙った。

町の沈黙は、三浦の命令だけで作られたものではない。

明日の営業を続けたい。

透子はその日で民宿を辞めた。

祖母の家へ荷物を運ぶ途中、石段街で何度もカメラを向けられた。

「第一発見者の霧島さんですか」

「三浦容疑者の犯行にいつ気づきましたか」

「町ぐるみの隠蔽だったのでしょうか」

答えずに歩いた。

父、修司だった。

十年前より背が小さく見えた。髪は白くなり、古い旅行鞄を足元へ置いている。

「どうして」

「警察に呼ばれた」

「証言するの」

「ああ」

透子が鍵を開け、二人は居間へ入った。

父は仏壇の前へ座り、祖母の写真に長く手を合わせた。

「図面を隠してくれたんだな」

「祖母は、父さんが罪を犯したんじゃない、罪を見せられたって書いてた」

「違う」

父は首を振った。

「見せられたあと、黙る方を選んだ。お前を守るためだったと言えば、少しは聞こえがいい。でも、怖かった。仕事も、家も、町の人間も全部失うのが怖かった」

「実際、失った」

「それでも真実を言わなかった」

「私たちを守ろうとしたんでしょう」

「守るという言葉は便利だ」

父の声が震えた。

「三浦さんも同じ言葉を使った。町を守る。従業員を守る。私は家族を守る。そう言えば、壁の向こうの人を見捨てたことが少しだけ軽くなる」

今も、勇敢だったとは思えない。

だが弱さを認め、戻ってきた父を、単純に責めることもできなかった。

「明日、町の人の前でも話す」

「警察だけでいいんじゃない」

「それじゃ、また書類の中へ沈む」

父は透子の目を見た。

「お前が書くなら、俺のことも書け。脅された被害者としてだけじゃなく、黙った人間として」

「つらい記事になる」

「分かってる」

「私が書いたことで、また傷つくかもしれない」

「それでも、今度は自分で選ぶ」

記事で傷ついた家族へ謝罪に行ったとき、議員の娘は言った。

私たちのことを何も知らないのに、正しいことを書いた顔をしないで。

今度は逃げない。

すべてを美しい物語へまとめることも、三浦一人を怪物として切り捨てることもしない。

翌日、修司は観光会館前で証言した。

正式な会見ではなかった。

報道陣と町の人々が集まる中、自分の名前を名乗り、十年前に封鎖壁の奥を見たこと、脅しを受けて虚偽の書類へ署名したこと、家族を連れて町を出たことを話した。

「私は被害者であると同時に、隠蔽へ加わった一人です」

「なぜ今さら」

「十年前に言っていれば」

「子どもを守るためだったんだろう」

「俺たちの生活はどうなる」

修司は逃げずに立っていた。

父も、自分を許してはいないだろう。

それでも二人は初めて、同じ事実の前に立っていた。

由紀は水岬の公式SNSアカウントへのアクセス権を失った。

由紀は個人アカウントを作り、最初の投稿に父の写真を載せた。

片桐直人。水源設備技術者。二十年前に失踪したとされていましたが、町を出てはいませんでした。

父は地下水路で発見されました。

続く投稿で、相沢玲司が調査していたこと、野々村典子が証拠を守ったこと、自分が二人との関係を隠したことも書いた。

投稿は数時間で拡散した。

うちの父も昔、配湯がおかしいと言っていた。

由紀はコメントを消さなかった。

「きれいなものだけを残してきたから」

透子へ言った。

「今度は、汚い言葉も残します。これも町の声だから」

修司の証言の翌日、町民向けの説明会が開かれた。

会場の観光会館には椅子が足りず、立ったまま壁際へ並ぶ人もいた。壇上には行政、水源管理会社、旅館組合の代表が座っている。三浦の席だけが空いていた。

配湯記録の改ざんは、いつから把握していたのか。

片桐直人の失踪届を、なぜ町を出たものとして扱ったのか。

質問の多くに、同じ答えが返った。

「調査中です」

「確認できていません」

「個別の事案には回答を控えます」

「じゃあ、何を説明しに来たんだ」

「温泉は安全ですって、それしか言ってない」

「予約がなくなった補償はどうする」

「一部の過去の不適切な運用が、現在の温泉の安全性を損なうものではありません」

透子は手を上げた。

「一部とは、どこまでですか」

「霧島です。見つかった原簿には複数の旅館と会社、当時の組合役員の印があります。三浦清司一人の判断ではありません」

「資料の全容は警察が確認中です」

「二十年前の不正配湯を、三浦容疑者個人の犯罪として終わらせるつもりですか」

「そのような意図はありません」

「なら、改ざん前後の流量データを公開してください」

行政担当者は隣の水源会社代表と小声で話した。

「個別旅館の営業情報が含まれますので」

「共同の水源です。誰にどれだけ配ったかは、町の資源の記録でしょう」

すぐに別の場所から声が飛ぶ。

「公開したら、また旅館名が晒される!」

「昔の経営者はもう死んでるんだ」

「今働いている人まで犯罪者にする気か」

透子は壇上ではなく、会場へ向き直った。

「今働く人を犯罪者にしたいわけではありません。ただ、記録を閉じれば、責任のない人も含めて疑われ続けます」

「記事を書く人間はそう言える」

後方の男が立った。

「うちは昨日、修学旅行が全部キャンセルになった。従業員二十人をどうする。記録を公開すれば客が戻るのか」

「すぐには戻らないと思います」

透子は答えた。

「真実を出せば全部良くなる、とは言えません。町はもっと傷つくかもしれない。でも隠せば、次に都合の悪い人が出たとき、同じ仕組みが使われます」

「理屈で飯は食えない」

「はい」

「じゃあ黙れ」

「それもできません」

怒号と拍手が同時に起きた。

ただ一つ、行政は一か月以内に過去の流量記録を可能な範囲で公開し、第三者を含む調査委員会を設置すると約束した。

会場を出た透子を、相沢の妹が待っていた。

相沢美奈と名乗った。兄より十歳ほど若く、黒いスーツの胸元に喪章を付けている。

「兄のことを調べてくださったそうですね」

「私が調べ始めたときには、相沢さんはもう」

「兄は、危ないことを一人でやる人でした」

「家族には、水源の数字がおかしいとしか言わなかった。正義感が強いというより、間違った数字をそのままにできない性格だったんです」

「由紀さんのことは」

「名前だけ聞いていました。守りたい人ができた、と」

「相沢さんの資料を記事に使う可能性があります」

「兄を英雄にしないでください」

思いがけない言葉だった。

「どういう意味ですか」

「兄は、家族へ相談せず危険へ入った。警察にも早く言わなかった。自分なら三浦さんを説得できると思ったのかもしれない。立派なところだけ書かれたら、私たちは兄に怒ることもできなくなる」

「分かりました」

「でも、何を見つけようとしていたかは書いてください」

「はい」

美奈は頭を下げた。

次に透子を訪ねたのは、野々村の娘だった。

母とは長く疎遠だったという。

「町を出ようと誘っても、清泉寮を離れなかった」

彼女は母の古い手帳を持ってきた。

「私は、母が町を好きだからだと思っていました。でも手帳には、直人さんの音を聞いた日から、毎年同じ日に『ごめんなさい』と書いてある」

「母は臆病だったんでしょうか」

娘が訊いた。

「黙ったことは事実です」

透子は慎重に答えた。

「でも、証拠を捨てなかったことも事実です」

「それで償いになりますか」

「私には決められません」

「決めないで書いてくれますか」

「そのつもりです」

事件の記事を書けば、読者は人物へ役割を求める。

告発者。

犯人。

だが、野々村は沈黙した証人であり、証拠を守った人でもある。相沢は真実を追った被害者であり、家族を置いて危険へ進んだ人でもある。

「お父様の証言は、事前に打ち合わせたものですか」

「三浦容疑者への個人的な恨みが調査の動機ですか」

「片桐さんと共同で告発サイトを作る予定は」

透子は答えず、玄関へ入った。

説明責任がある。

そう考え、扉の内側で息を潜める人の時間を想像しなかった。

透子はカーテンを閉めた。

自分が書く記事も、誰かの扉の前に立つことになる。

だからこそ、何を求め、どこで引くかを決めなければならない。

その夜、透子の元勤務先の新聞社から電話が来た。

「独占で書かないか」

「条件は」

「早いな」

「条件なしで連絡する人じゃないでしょう」

「全国版で大きく扱える。ただし、焦点は連続殺人と女将の二面性だ。配湯制度や町全体の責任まで広げると、裏取りに時間がかかる。行政や観光業界への影響も大きい」

「三浦一人の暴走として書けと?」

「事実として、殺したのは三浦だ」

「直人さんを助けないと決めた会議は一人じゃない。記録改ざんも、父への圧力も」

「そこは続報でやる」

「続報が出る前に、最初の記事が物語を決めます」

「透子。読者には中心人物が必要だ。構造だけ書いても読まれない」

「構造を消して人だけ悪魔にすれば、読まれても意味がない」

「昔の君なら、まず出していた」

「昔の私は、速さを正しさと勘違いしていました」

部長はしばらく黙った。

「戻る気はないのか」

「ありません」

「では、資料だけでも」

「渡しません」

通話を切った。

相沢が残した流量データ。

直人の音声。

野々村の帳簿。

父の図面と手紙。

由紀の証言。

三浦が守った雇用の記録。

相沢の妹へ、兄の資料と由紀との関係をどこまで書くか。

野々村の娘へ、音声と手紙を引用してよいか。

由紀へ、父が不正工事へ参加したことも含めて書くか。

由紀だけは条件を付けた。

「父を美化しないでください。でも、最後に私の名を呼んだことは書いて」

白石には資料の裏取りを頼んだ。土地台帳、会社登記、当時の旅館組合役員。公開前に弁護士にも原稿を見せ、捜査を妨げる部分と、名誉を不当に傷つける表現を削った。

「ずいぶん慎重になったな」

白石が言った。

「遅い?」

「いや。これだけの話は、速さで勝つ記事じゃない」

透子は空白の画面を開いた。

透子は夜通し書いた。

相沢を正義の英雄だけにはしなかった。由紀との関係を隠し、警察へ渡す前に一人で三浦と対峙した危うさも記した。

野々村を臆病者にも聖人にもしなかった。二十年沈黙しながら、証拠を捨てずに守った矛盾を書いた。

父を脅迫の被害者として書き、同時に十年間黙った責任も書いた。

三浦については、最も時間がかかった。

直人を助けず、相沢と野々村を殺した犯人。

人は一つの言葉では書けない。

だからこそ、記録する必要がある。

夜明け前、記事は完成した。

題名は、相沢の資料の余白にあった問いから取った。

透子は独立系のニュースサイトと、自分で作った公開ページへ同時に掲載した。実名を出す範囲は、警察発表と本人の同意を確認した。原資料の画像は、個人情報を隠した上で添付した。

公開ボタンを押す前、指が止まった。

民宿の女将も、由紀も、父も、自分も、戻れない場所へ進む。

それでも、書かないことが中立ではないと、もう知っていた。

透子は公開した。

記事は午前中に全国へ広がった。

批判が殺到した。

観光地を狙った扇情記事だ。

父親の復讐に事件を利用している。

一方で、証言も届き始めた。

清泉寮の元従業員から、配湯が急に減った夜の記録。

水源会社の元職員から、改ざんを命じられたという匿名の連絡。

行政は第三者委員会の設置を発表した。配湯制度の調査、水源データの公開、旅館ごとの使用量の検証が始まった。

町の平穏は完全に壊れた。

しかし、沈黙も壊れた。

記事の公開から二十四時間で、閲覧数は百万を超えた。

テレビは記事を引用し、専門家が地域共同体の同調圧力を論じた。だが短い番組の中では、三浦は「善意が暴走した女将」、町は「秘密を抱えた閉鎖社会」という分かりやすい言葉へ変えられた。

透子の意図とは違っても、記事はもう彼女の手を離れていた。

相沢の妹からは、「兄の欠点も書いてくれてありがとう」と短い連絡が来た。

野々村の娘は、母の手帳を公開資料として使うことへ同意した。

記事は誰かを救い、別の誰かを傷つける。

透子はその両方を一覧にし、更新記事のためのノートへ残した。

書いた後に起きたことも、自分の仕事の一部だった。

公開翌朝、祖母の家の窓ガラスに石が投げ込まれた。

乾いた破裂音で目を覚ました透子が玄関を開けると、庭に拳大の石が落ちていた。窓には蜘蛛の巣状の亀裂が走っている。

警察へ連絡しようとして、足元に小さな花束があることに気づいた。

野の桔梗が三本、新聞紙に包まれている。

その下に、名前のない手紙が置かれていた。

書いてくれてありがとう。

私も、知っていました。

でも、一人では言えませんでした。

透子は割れた窓と花束を見た。

町は一つの声ではない。

石を投げる手と、花を置く手が、同じ夜の道を歩いている。

透子は桔梗を拾い、祖母の仏壇へ供えた。

ここに残ろうと思った。

受け入れられるためではない。

同じ沈黙が再び作られないよう、声を記録するために。

第十章 湯気の消えた朝

事件から四か月が過ぎた。

秋の紅葉が終わり、伊香保の山には最初の雪が降った。

観光客は一時期の半分まで減ったが、石段街から人の姿が消えたわけではない。事件を知って訪れる者もいれば、何も知らずに湯を楽しむ者もいる。町は傷を負ったまま、商売を続けていた。

旅館水岬は休館したままだった。

玄関の大きな暖簾は外され、庭の木々だけが手入れされている。従業員の一部はほかの旅館へ移り、残った者は再建の方針が決まるのを待っていた。

三浦清司は、相沢玲司と野々村典子に対する殺人罪で起訴された。

片桐直人の死については、殺人ではなく保護責任や死体遺棄、当時の隠蔽行為を含めた複数の容疑が検討されている。時効や証拠の問題が複雑に絡み、法的な結論はまだ出ていない。

だが町にとって、法廷の結論だけが真実ではなかった。

配湯制度の調査では、第二湯口が二十年間にわたり断続的に使われていたことが確認された。大規模旅館へ有利な配分が続き、小さな宿や共同浴場が不足を負担していた。

行政は水源の共同管理組織を作り直し、流量データを公開する方針を決めた。

数字は、もう一部の者だけが見る帳簿には置かれない。

片桐直人の遺骨が由紀へ返されたのは、雪の朝だった。

建物はまだ古く、屋根には修理用の青いシートが掛かっている。取り壊す案もあったが、由紀と元従業員たちが保存を求めた。現在は、町の水源史を伝える資料館と小さな共同浴場へ再生する計画が進んでいる。

片桐家の親族、清泉寮で働いていた人々、水源会社の現役職員、旅館関係者。相沢の家族も参列し、野々村の娘は母の写真を抱いていた。

由紀は黒いコートを着て、父の遺骨を両手で抱えていた。

片桐直人。

相沢玲司。

野々村典子。

地下に残された人。

声を守った人。

それぞれの死は違う。けれど三人とも、町が見ないことを選んだ場所にいた。

式の終わりに、由紀が短く話した。

「父を、立派な人だったとだけ言うつもりはありません」

声は震えていたが、顔を上げていた。

「父は第二湯口の工事に関わりました。町を守るという説明を受け、不正の一部を作った人でもあります。でも途中で、それが間違いだと声を上げた。私は父の全部を知りません。それでも、逃げた人ではなかったことを、やっと言えます」

由紀は遺骨を抱き直した。

「お父さん。おかえりなさい」

雪の中で、誰かが泣く声がした。

由紀は事件後、観光PRの仕事へは戻らなかった。

代わりに、町で働く人々の記録を動画で発信し始めた。

閉鎖した湯治宿で使われていた食器。

高齢の元仲居が語る、団体客で廊下が埋まった時代。

映像には美しい紅葉も雪景色も出てくる。だが画面の外へ追い出されていた労働や失敗も映るようになった。

父、修司は追悼式へ出席したあと、長野へ戻った。

透子との関係も、急に元へ戻ったわけではない。二人で食事をしても、十年間の空白が会話の間へ座っている。

それでも月に一度、手紙が届くようになった。

父は、旅館で設備係をしていたころの記憶を書いた。

初めて一人で弁を交換した日。

幼い透子を地下室へ連れていき、配管の音を聞かせたこと。

事故のあと、車を運転しながら何度も引き返そうと思ったこと。

透子も返事を書いた。

今も完全には許していないこと。

だが、知らないまま憎むより、知った上で向き合いたいこと。

手紙は、親子を元通りにはしなかった。

透子は祖母の家の一室を改装し、「水沢記録室」と名付けた。

記録室には、事件に関する資料だけでなく、町の写真、閉館した宿の帳簿、従業員の日記、祭りのチラシ、源泉の測定表が集まった。

「こんなものでも、役に立つかい」

「もちろんです」

水源会社の若い職員は、公開された流量データの読み方を住民へ説明する勉強会を開いた。

ある午後、久保田刑事が記録室を訪れた。

地下で傷めた肩はまだ完全には上がらず、コートを脱ぐ動作がぎこちない。

「警察資料を持ち出したわけではないですよね」

「第一声がそれですか」

「あなたの場合、確認が必要です」

透子は湯を出した。

「三浦さんは?」

「供述は続けています」

「何か話しましたか」

久保田は湯呑みを両手で包んだ。

「町の湯を止めないでほしい、と」

「それだけ?」

「最近は、それだけです」

三浦は今も、町を守ろうとしている。

「記事の続きは書くんですか」

久保田が訊いた。

「書きます」

「裁判が始まれば、また町が騒がしくなる」

「分かっています」

「三浦さんを、どう書くつもりです」

「まだ決めていません」

「犯人でしょう」

「犯人です。でも、それだけにすると、また同じことが起きる気がする」

透子は書棚に並ぶ資料を見た。

「三浦さんが守った人の証言も集めます。奪われた人の証言と並べて書く」

「擁護だと言われますよ」

「断罪だとも言われます」

「大変な仕事を選びましたね」

「選んだというより、戻ってきたんです」

久保田は少し笑った。

「今度は無断で地下へ入らない仕事にしてください」

「努力します」

「その言葉、やっぱり信用できない」

清泉寮の再生計画では、地下の第二湯口を完全に閉じるのではなく、一部を安全な見学区画として保存する案が出た。

殺人現場を観光に利用するのか。

由紀は公開説明会で言った。

「見せ物にするためではありません。見えない場所へ戻さないためです」

最終的に、封鎖壁と第二湯口の一部は保存されることになった。片桐直人が刻んだYUKIの文字も、透明な保護板の向こうに残される。

祖母の家の前には取材車が停まり、買い物へ出れば知らない人から写真を撮られた。石を投げた者は見つからず、夜の物音に目を覚ます日が続いた。

それでも朝になると、玄関へ別のものが置かれていた。

古い写真。

配湯の請求書。

名前のない証言メモ。

町の外へ出た元従業員から、段ボール箱で資料が届くこともあった。

やがて由紀が棚を持ち込み、白石が不要になった資料箱を届け、民宿の女将が古い机を譲った。

「辞めてもらった人に、机を持ってくるのも変だけど」

女将は言った。

「私も、知ってたことを書いておこうと思って」

彼女は事件前に町で交わされていた噂、三浦から予約への影響を抑えるよう頼まれたこと、透子へ退職を求めた日の気持ちを書いた封筒を置いた。

「公開するかは、あなたが死んでから決めてもいい?」

「勝手に殺さないでよ」

水沢記録室。

年が明けると、三浦の公判前整理手続が始まった。

透子は証人として呼ばれる可能性があり、事件当夜の記録を改めて警察へ提出した。公開記事に書いた内容と供述が食い違わないか、何度も確認を受けた。

三浦側の弁護人は、相沢の死について突発的な行為であり、野々村についても長年の精神的圧迫による判断能力の低下があったと主張する方針だと報じられた。

「三浦さんも二十年苦しんだ」

「苦しんだから殺していいのか」

「町のために尽くしたことは考慮されるべきだ」

「被害者は考慮されなかった」

記録室にも、三浦を擁護する手紙と、厳罰を求める手紙が届いた。

ある日、拘置所の三浦から手紙が届いた。

記事を読みました。

あなたが書いたことで、水岬の従業員は職を失い、町は傷つきました。

それでも、相沢さんと野々村さんを殺したのは私です。

直人さんを助けなかったのも、私です。

最後に一つだけお願いします。

透子は何度も読んだ。

三浦はまだ「町を守る」という言葉の中にいる。だが、その言葉が自分を殺人へ導いたことも見始めている。

透子は返事を書かなかった。

代わりに、手紙の存在を弁護人と検察へ伝え、原本を保管した。

記録は、相手を理解するためだけではない。

清泉寮の再生計画をめぐる住民会議では、第二湯口を公開するかどうかが最大の争点になった。

「子どもたちへ殺人現場を見せるのか」

「町の恥を永久に展示する必要はない」

由紀は資料を持って壇上へ立った。

「隠した結果が、二十年です」

「公開と見せ物は違うのか」

「違うものにする責任が、私たちにあります」

人骨があった空洞そのものは非公開にし、封鎖壁の一部、配湯図、改ざん前後の記録、当時の町の経済状況を示す。

直人を正義の象徴だけにせず、第二湯口の工事へ参加した事実も記す。

三浦についても、殺人と隠蔽だけでなく、雇用を守った記録を並べる。

「そんな展示では、誰が悪いか分からなくなる」

参加者の一人が言った。

「分からなくするのではありません」

透子は答えた。

「犯罪をした人は明確です。ただ、なぜ周囲が止められなかったかまで示さなければ、一人を悪者にして安心するだけになります」

四人の差で、第二湯口は記録として残ることになった。

会議後、反対票を入れた年配の女性が透子へ近づいた。

「私は今でも、見せない方がいいと思ってる」

「はい」

「でも、決まったなら、うちにある写真を使って」

女性は若いころ水岬で働いており、二十年前の従業員食堂や寮の写真を保管していた。

「三浦さんが守ったものも、本当にあった。それを抜きにしたら、何でみんな黙ったか分からないから」

透子は写真を受け取った。

「必ず、両方を残します」

水沢記録室では、月に一度「話さなかったことを話す会」を開くようになった。

配湯が減った宿の元仲居。

直人の失踪を噂した同級生。

父の修司も、一度だけオンラインで参加した。

三浦が強く命令したという人もいれば、周囲が先回りして従ったという人もいる。

野々村がすぐに証言しようとしたという人と、最初から口を閉ざしたという人がいた。

記憶は水のように、通った場所で形を変える。

だから一人の記憶を真実そのものにはできない。

しかし、違う流れを重ねれば、地形が見えてくる。

父から届いた手紙には、こんな一文があった。

あの壁を叩いたとき、返ってきた二回の音を、俺は人の返事だと思った。

透子はその手紙を、記録室の非公開資料箱へ入れた。

記録することと公開することは、同じではない。

一月の終わり、父が記録室を訪れた。

長野から日帰りで来たという。入口の札を見上げ、なかなか中へ入ろうとしなかった。

「自分の家だよ」

「今は、お前の仕事場だ」

十年前の事故記録の前で足を止める。自分が署名した虚偽の報告書と、祖母が隠した図面が並んでいた。

「これを見る人は、俺をどう思う」

「分からない」

「卑怯者だと思うだろうな」

「そう思う人もいる」

「お前は?」

透子は父を見た。

「卑怯だったと思う」

父は頷いた。

「でも、私を守ろうとしたことも分かる。どちらかを消すつもりはない」

「厳しいな」

「父さんが、両方書けと言った」

「そうだった」

会話は途切れた。昔のように自然な親子へ戻ったわけではない。

父は帰る前、作業鞄から小さな金属片を出した。

青い弁に付いていた古い名板だった。

「町を出るとき、持ってきた。証拠を一つだけ残したかった」

「今まで、なぜ出さなかったの」

「これを見れば、戻らなきゃならない気がした」

「戻ってきたね」

「ああ」

父は展示資料として預ける同意書へ署名した。

玄関で靴を履きながら、透子へ言った。

「今度、母さんも連れてくる」

「無理に来なくていい」

「無理かどうかは、母さんが決める」

「待ってる」

二月、記録室で最初の小さな展示を開いた。

片桐直人の作業道具、相沢の流量比較表、野々村が証拠を隠した桔梗印の湯桶を、遺族の同意を得て展示した。

壁には、三浦が再雇用した元清泉寮従業員の名簿も置いた。

「殺人犯の善行を飾るのか」

「直人さんも不正工事をしたのに、被害者として扱うのか」

透子は説明文へ、どちらの事実も書いた。

直人は工事へ参加し、その後に異議を唱えた。

三浦は人々を雇い、三人の死へ責任を負った。

展示の出口には、来場者が意見を書ける白い紙を置いた。

初日は非難で埋まった。

三浦さんに学費を貸してもらった。

直人さんは無口だが、道具を大切にする人だった。

野々村さんは、冬でも一番早く浴場を開けてくれた。

相沢さんは数字の間違いを絶対に見逃さなかった。

冬の終わりに近い朝、透子は一人で水沢へ向かった。

水沢の前には、由紀がいた。

「早いですね」

透子が声をかけると、由紀は振り向いた。

「湯気が少ない朝を撮りたくて」

気温は低いのに、水面の湯気は以前より薄かった。

配湯制度の見直しで、排水の流し方が変わったためだという。

「前の方が、温泉らしい映像でした」

由紀はカメラの画面を確認した。

「でも、これが今の水沢です」

「投稿するの?」

「します。加工しないで」

相沢が発見された取水柵は交換され、石の一部には小さな銘板が設置されている。

ここで発見された死をきっかけに、地下水路と配湯記録の調査が始まった。

名前を刻むかどうかで意見が割れたため、記録室と清泉寮に残すことになった。

相沢の死も、直人の二十年も、野々村の恐怖も、水そのものには残らない。

だから人が記録しなければならない。

「町を嫌いになりましたか」

由紀が訊いた。

「前より、簡単には好きと言えなくなった」

透子は言った。

「でも、嫌いだから残るわけでもない」

「じゃあ、どうして」

「知ってしまったから」

「義務ですか」

「たぶん、愛情に近いと思う」

由紀は少し笑った。

「面倒な愛情ですね」

「町も面倒だから」

山の端から朝日が差した。

光が水面を横切り、薄い湯気を金色に変える。

死者を戻さない。

由紀のカメラが朝の水沢を映している。

町は、何事もなかったようには戻らない。

戻ってはいけないのだと、透子は思った。

水面の下には、もう見えない古い流れがある。

誰かが変えた流れ。

誰かが守ろうとした暮らし。

そこから外された命。

それらを抱えたまま、水は新しい道を流れていく。

透子は最後に、水沢の音を手帳へ書き留めた。

そして顔を上げた。

湯気の向こうに沈んでいたのは、死体だけではなく、誰かの罪そのものだった。


 最後まで『温泉街の沈黙』をお読みいただき、ありがとうございました。


 物語を閉じた今、皆さまの心には、どのような風景が残っているでしょうか。


 夜の石段、旅館の窓から漏れる明かり、暗い水路を流れる水、湯気の奥に立つ人影。そして、誰もが何かを知りながら、言葉にすることを避けてきた町の沈黙。


 本作は、一人の男性の死から始まるミステリーです。しかし、書き進めるうちに、この物語で本当に描きたいものは、犯人を捜し出す過程だけではないと感じるようになりました。


 人は、なぜ黙るのでしょうか。


 自分を守るため。

 家族を守るため。

 仕事や生活を失わないため。

 大切な町を守るため。

 あるいは、真実を知ることが怖いから。


 沈黙には、さまざまな理由があります。


 誰かを傷つけないために選ばれた沈黙もあれば、自分の罪から目をそらすための沈黙もあります。そして厄介なことに、その二つは、時間がたつほど見分けがつかなくなっていきます。


 最初は善意だったはずの選択が、別の誰かを苦しめることがあります。


 一人の人生を守るためについた嘘が、何年もたってから、何の事情も知らない人の人生を奪うこともあります。過去を隠せば、その場では平穏が保たれるかもしれません。しかし、隠された事実そのものが消えるわけではありません。


 それはまるで、地中を流れる水のようです。


 目に見えなくても、確かに流れ続けています。塞いだつもりでも、別の場所に出口を探します。そして、長い時間を経て、思いもしなかった場所から地上へ現れるのです。


 本作で温泉と水を重要なモチーフにしたのは、そのためです。


 温泉は、人を癒やし、疲れを洗い流してくれるものです。一方で、湯気は目の前を曖昧にし、水は多くのものを押し流します。


 癒やすものと、隠すもの。


 記憶を呼び戻すものと、忘れさせるもの。


 その相反する性質を持つ温泉は、この物語の舞台であると同時に、登場人物たちの心そのものでもあります。


 主人公の霧島透子は、決して迷いのない強い人物ではありません。


 彼女は記者だった過去を持ちながら、真実を追うことに疲れ、故郷へ戻ってきました。人の嘘を見抜く力を持ちながら、自分自身の過去には目を向けられずにいます。


 透子にとって事件を調べることは、犯人を見つけるためだけの行動ではありません。町から逃げた自分、家族の痛みを理解しきれなかった自分、そして記者として伝えることを諦めた自分と、もう一度向き合うための旅でもありました。


 真実を明らかにすれば、すべてが正しく収まるわけではありません。


 罪を暴かれた者だけでなく、何も知らなかった人も傷つきます。町の信用は失われ、生活を脅かされる人も現れます。長い間守られてきた景色や関係が、同じ形では続かなくなるかもしれません。


 それでも透子は、沈黙を続けることを選びませんでした。


 それは彼女が正義の人だからではなく、沈黙によって失われてきたものの重さを知ったからです。


 誰にも語られなかった死。


 存在しなかったことにされた人。


 家族に届かなかった言葉。


 真実を知りながら、一人で抱え続けた者の時間。


 それらを再び沈めてしまえば、町の表面は守れても、その内側では同じ悲劇が繰り返されます。


 透子が選んだのは、町を壊すための告発ではありません。


 痛みを伴ってでも、町が新しい形で生き直すための一歩です。


 真実を公にすることと、誰かを断罪することは、必ずしも同じではありません。過去を知ることは、恨み続けるためではなく、同じ過ちを繰り返さないために必要なのだと思います。


 もちろん、すべての真実が人を救うとは限りません。


 知らないほうが幸せだったと思うこともあるでしょう。話さないことが思いやりになる場合もあります。


 それでも、誰かの命や尊厳を犠牲にして守られる沈黙は、いつか必ず限界を迎えます。


 この物語を通して、そんな沈黙の危うさを少しでも感じていただけたなら、作者としてこれほどうれしいことはありません。


 タイトルの『温泉街の沈黙』には、いくつかの意味を込めました。


 一つは、町の人々が事件について口を閉ざす、文字どおりの沈黙です。


 もう一つは、観光地が外から求められる姿を守るため、都合の悪い歴史を語らなくなることです。明るく、美しく、安心して訪れられる場所であり続けるために、影の部分が見えないようにされていく。その積み重ねもまた、町が作り出す沈黙ではないかと思います。


 そして最後の一つは、透子自身の沈黙です。


 彼女は長い間、自分の痛みを言葉にできずにいました。父への思いも、故郷への怒りも、記者を辞めた理由も、すべて心の中に閉じ込めていました。


 事件の真相に近づくことは、透子が自分の声を取り戻すことでもあります。


 誰かの言葉を記事にする仕事をしていた彼女が、最後には自分の言葉で町と向き合う。その変化を見届けていただけたなら幸いです。


 本作には、完全な勝者はいません。


 事件が解決しても、失われた命は戻りません。明らかになった真実によって傷ついた人々の人生も、すぐに元どおりにはなりません。


 それでも、湯気の消えた朝に光が差すように、人は過去を抱えながら、新しい一日を始めることができます。


 町もまた、人と同じなのかもしれません。


 過ちを犯し、傷つき、時には自らの歴史を恥じながら、それでも生きていく。大切なのは、何もなかったことにするのではなく、失われたものを忘れずに未来へ進むことです。


 物語の終わりに透子が見つめた温泉街は、始まりの頃と同じ町でありながら、もう以前と同じ場所ではありません。


 けれど、それは町が終わったということではありません。


 長い沈黙が終わり、ようやく新しい物語を始められる場所になったのだと思います。


 小説を読んでいる時間は、作者と読者が同じ風景の中を歩く、不思議な時間です。


 私が思い描いた石段と、皆さまが心の中に描いた石段は、きっと少しずつ違います。旅館の姿も、湯気の匂いも、登場人物たちの表情も、それぞれ異なっていることでしょう。


 その違いこそが、小説の面白さだと私は思っています。


 本を閉じたあとも、ふと温泉街を訪れたとき、石段の脇を流れる水の音に耳を傾けていただけたらうれしく思います。


 明るい旅館の窓の奥で、どのような人が暮らしているのか。


 古い建物や道に、どれほど多くの記憶が積み重なっているのか。


 そして、目の前にある美しい景色が、誰かの努力や決断によって守られてきたものなのだということを、ほんの少し想像していただけたらと思います。


 ただし、本作はあくまでフィクションです。


 物語に登場する人物、旅館、団体、事件、失踪、水源管理をめぐる不正などは、すべて物語上の創作です。特定の地域、施設、関係者を描いたものではありません。


 温泉地には、それぞれ固有の歴史と文化があり、そこで暮らす多くの方々によって大切に守られています。本作は、そうした温泉街の景観と、人と人との距離が近い土地ならではの空気に着想を得て構成した物語です。


 最後になりましたが、この作品を手に取り、透子とともに事件の真相を追い、最後の朝まで歩いてくださった皆さまに、心より感謝申し上げます。


 登場人物の誰かの言葉が、皆さまの心に残ること。


 この物語が、過去と向き合うことや、沈黙の意味について考える小さなきっかけになること。


 そして何より、一冊のミステリーとして最後まで楽しんでいただけることを願っています。


 湯気が晴れたあとにも、水は流れ続けます。


 町が新しい朝を迎えたように、透子の人生もまた、ここから先へと続いていきます。


 その先にある景色を想像しながら、この物語を皆さまの心の片隅に置いていただけましたら幸いです。


 本当にありがとうございました。


                         朝霧 颯

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