あぶとアリジゴク
アリジゴクが、軒下に巣をつくりました。その上を一匹のあぶが飛んでいました。
「やあ。やけに嬉しそうじゃないか」アリジゴクが、頭の上をぶんぶん飛び回るあぶに向かって言いました。
「そりゃそうさ。やっとあの、暗くて臭い肥溜めから出られたんだもの」アリジゴクの上を、八の字を描いたり、とにかく自由に飛び回りながらあぶが答えます。「外の世界って、なんて明るくて素敵なんだろう!」
「ああ、ボクも早くそんな気分を味わいたいものだ」砂をハサミのような口ではね上げながら、アリジゴクが言いました。
「大丈夫。君だって成虫になれば、羽根が生えて飛べるようになるんだろ?」
「うん。でもボクたちは、大人になった途端死んじゃうんだよね」アリジゴクが妙に澄んだ声で言いました。
「何よこの成績!」
家の中から、人間の女性の怒鳴り声が聞こえてきました。
「うわまた始まったぞ」神妙な飛び方になったあぶが言いました。
「何なの、あれ?」アリジゴクが巣の底から顔を出します。でも、いくら首を伸ばしても、すり鉢のような巣の砂の壁と、その上に広がっている青空しか見えません。
その青空の真ん中に、あぶはホバリングして止まっていました。家の中を、うかがっています。「この家の子が、塾に行き始めたんだよ。どこかの、小学校を受験するんだって」
「言われたことは、ちゃんとやりなさい!」
雷鳴のような女性の声に、あぶは思わず三メートルばかり飛びのきました。
「エーン」
小さな女の子の泣く声が聞こえてきました。どたどたどた、と縁側の廊下を走る音が続きます。アリジゴクの巣はすぐその下にありました。
「かわいそうになあ」
「全くだね」またあぶが戻ってきました。「でも、あの女の子も、大人になったらきっとあんなお母さんになるんだろうな」
「そんなものかねえ」
アリジゴクが答えたその時でした。
「うわ! 汚らしいハエ!」
お母さんの声――続いてシューッという音。ぶん、という音がして、アリジゴクの巣の中にあぶがどさっと落ちてきました。初めてアリジゴクは、あぶの顔を間近で見ました。
「やられたよ」弱々しい声で、あぶが言いました。「殺虫剤だ――噂には聞いてたけど、ひどいもんだ」
「動けないのかい?」ぴくぴくけいれんしているあぶに向かって、アリジゴクが言いました。
「ああ――俺はもう死ぬ。だめみたいだ」
「ひどいじゃないか。やっと自由になれたばかりだというのに!」ものすごく悲しくなって、アリジゴクは叫びました。
「だめだ。もう、目の前が暗く――」
それが、あぶの最後の言葉でした。ぴくん、と体を震わせると、それっきり動かなくなりました。
「なんてひどいこと――」せっかく、友人になれたばかりのあぶの死に、アリジゴクは涙しました。力を失ったあぶの体は、ずりずりと巣の中央に向かってずり落ちてきます。
アリジゴクは本能に勝てませんでした。さっきまで友人だったあぶの、殺虫剤がたっぷりとかかった体に食いついたのです。
そして、アリジゴクもまた、数分後に命を落としました。
ある晴れた、春の一日の出来事でした。
END




