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水底のレイシア  作者: 彼岸茸


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7 マリアンヌの悪戯

本日 2 回目の投稿です。

 なるべく目立たないようにする。

 レイシアができることはそれだけだった。


 小さなことでも、何か失敗をするとする。

 エドモンは紳士然とした態度で近寄って、レイシアに触れてくる。

 イザベルには「その程度のこともできないのですか!」と叱責される。


 少しでも表情が陰るとする。

 エドモンは心配する顔をして、レイシアを抱き寄せようとする。

 イザベルには「辛気臭い顔をやめなさい」と怒鳴られる。


 もっとも、何もなくともエドモンはレイシアに近づいてくるし、イザベルは罵声を浴びせてくる。


 だから細心の注意を払って、仕事に挑んでいた。

 笑顔も忘れない。ただし、ニコニコしすぎるのは良くない。エドモンの接触が増えるし、イザベルには「気味が悪い」と言われるのだ。

 ここ数日でほどよい微笑というものを見つけた。


 不気味なのは、二人の娘であるマリアンヌが時折にやにやとした笑みを向けてくることだ。

 何を考えているのか、レイシアには分からない。

 だからこそ不気味なのだ。


 それでも顔に貼りつけた微笑は外せない。レイシアにとって鎧のようなものだ。

 隙間だらけで壊れやすい鎧であっても、ないよりは多少マシだ。


 そう信じるしかない。


 ある日のことだ。

 廊下の掃き掃除をしているときだった。


 エドモンが嬉しそうにレイシアのところに来た。


「ご主人様、何かありましたか?」

「ようやく事業がうまくいきそうでな」

「それは……良かったです」


 差し障りのない受け答えをして、さりげなくその場から退こうとした。

 しかし、エドモンはレイシアを逃がさない。


「静かに祝杯を挙げようと思う。今晩、私の寝室に来なさい」


 エドモンの視線がレイシアの首元、胸、腰回りと舐めるように移っていく。

 レイシアの全身が総毛立った。


 それでも微笑の仮面を外さない。ここはなんとか乗り切るしかない。


「えと、仕事が溜まっていますので……祝杯であれば、イザベル様とされるのがいいと思います。あの……失礼します」


 レイシアは頭を下げてから、踵を返そうとした。

 しかし、突然エドモンが抱きついた。そして耳元で囁く。


「妻とは既に冷え切っている。私はレイシアに酌をしてほしいのだよ」


 ――気持ち悪い。


 精神的な意味でもそうだが、本当に吐いてしまいそうだ。

 ここでそんなことをしたら、エドモンは心配する振りをして、さらに性的な接触をしてこようとするかもしれない。

 だから、レイシアは微笑を保ったまま、こみ上げる酸っぱいものを無理やり飲み込んだ。


「も、申し訳ございません。ご主人様。お掃除をしないといけませんので」

「……邪魔をして悪かったな。気が向いたら、私の寝室に来ると良い」


 それには答えず、レイシアはもう一度お辞儀をしてから、掃除に戻った。

 しばらくエドモンの粘りつくような視線を感じたが、彼はいつの間にか姿を消していた。


(気持ち悪い……でも、このくらいのことで倒れちゃダメ。もっと、頑張らないといけないんだから)


 なんとか心を落ち着かせ、廊下の掃除を続ける。

 不備があればイザベルに何を言われるか分かったものではない。


 そんなことを考えたせいか、今度はイザベルがつかつかとレイシアの前にやってきた。

 彼女の顔は怒りに染まっている。


(また何か癪に障るようなことをしたのかな……)


 内心で青ざめるレイシアだが、微笑は崩さない。

 イザベルはすっと窓の桟に指を滑らせると、レイシアに言う。


「掃除もろくにできないのかしら?」


 これならまだ挽回できるはずだ。


「それでしたら、この後に――」

「夫に抱きつく暇があったら、与えられた仕事くらいさっさとなさい!」


 先のエドモンとのやり取りを見られていたようだ。

 しかし、抱きついてきたのはエドモンだ。決してレイシアからではない。


「ち、違います。あれは――」


 パァン。

 乾いた音が響いた。

 左頬に痛みを感じた。突然のことに頭が追いつかず、ぶたれたことに気づくのに、少し時間がかかった。


「身の程を弁えなさい、と言ったのに、毎日毎日!」

「わ、わたしはそんなこと――」


 もう一度、右頬をぶたれた。


「言い訳はやめなさい!」

「でも」

「まだ懲りないようですね」


 イザベルが射殺すような目で、右手を振りかぶる。


「ひ……ごめんなさい! 申し訳ございません!」


 思わず、両腕で頭を庇い、身体を小さくした。


「ふん!」


 レイシアの怯える様子に溜飲を下げたのか、イザベルはそれ以上何も言わずに立ち去った。

 レイシアは謂れのない暴力を受け、しばらく呆然としていた。

 ふと我に返ったが、左頬の痛みでうまく笑えない。


 それでも仕事はしなければならない。


(わたしがうまく言えないから……わたしがちゃんと説明できたら、イザベル様が嫌な思いをしなくても済むのに)


 掃除を終わらせ、道具をまとめる。掃除道具を収納している倉庫に向かう途中だった。

 クスクスと笑う声が背後から聞こえてきた。


 振り返ってみると、マリアンヌがじっとレイシアを見ていた。

 嗜虐的な笑みを浮かべている。


「ど、どうかされましたか、マリアンヌ様?」

「別に? それ、お母様にやられたの? 赤くなっているわ。痛そう」


 マリアンヌがレイシアの左頬を指す。


「い、いえ。そのようなことは決して……」


 そうだ、などと言えるはずがない。


「ふぅん」


 マリアンヌはそれだけ言って、去っていった。


(……何だったの?)


 やはり彼女が何を考えているのか、分からない。

 その後は特に何もなく、午前の仕事を終えた。


 昼ご飯の時に、ジュリーに顔の怪我について訊かれた。

 心配させたくないので、掃除中に転んで壁で打ったことにしておいた。


 そして午後の仕事に取り掛かろうとした時、ロレーヌから「お嬢様がお呼びです」と告げられた。

 嫌な予感がしつつも、マリアンヌの私室に向かう。


 扉をノックする。中から返事があったので、そっと扉を開ける。


「失礼します」


 窓辺の椅子に腰掛けたマリアンヌがいた。彼女はレイシアを見て笑みを深めた。


「来たわね。あなたにお願いがあるのよ」

「は、はい。何でしょうか?」

「書庫から本を持ってきてほしいの」


 マリアンヌは本のタイトルを告げた。


「あの、わたし、文字が分かりません……」

「あら、そうなの? でもなんとかなるでしょ? 急いでね。今読みたい気分なの」


 レイシアの事情など知ったことかとばかりに、マリアンヌは笑顔で言った。


「え? で、でも」

「ふぅん。使用人が口答えするの?」

「も、申し訳ございません」


 誰かに文字を教えてもらわないと、本を探すことさえできない。

 頭の中でタイトルを復唱しながら、ジュリーに助けを求める。彼女は文字が読めたはずだ。


 今の時間帯ならジュリーはまだ厨房で後片付けをしている。

 忙しい彼女を頼るのは気が引けるが、お願いするしかない。


 ジュリーに本のタイトルを伝えて、文字に起こしてもらう。


「あー、あたし書くのは苦手なんだけど、それでもいい?」

「はい、お願いします」


 ジュリーがタイトルを書いてくれたメモ紙を持って書庫に行く。

 蔵書はたくさんあり、この中から一冊の本を探すのは大変だ。

 ロレーヌが整理した場所らしいので、ジャンルと文字の順に並べられているが、レイシアはそんなことを知らない。


 ジュリーのメモ紙の文字は曲がっていて読みにくい。だが、ないよりは断然いい。

 なんとかそれらしき一冊を見つけるのに、かなりの時間を要した。


 急いでマリアンヌの部屋に戻る。


「とっても遅かったわね。どこかでサボってたの? お母様に言おうかしら」

「申し訳ございません。文字が難しくて……」


 マリアンヌに本を渡すと、彼女はタイトルを見てから目を細めた。


「なんだ。別の本だったら面白かったのに」


 彼女はつまらなそうに呟くと、本をレイシアに返した。


「はい、じゃあ元の場所に戻しておいて」

「え? 読まれるのではないんですか?」

「うーん、気分じゃなくなったわ。遅かったから」

「わ、分かりました……」


 それ以上、用はないらしく、レイシアは解放された。

 本を大事に抱え書庫に戻りながら、考える。


(わたしが遅かったから……頑張って文字を覚えなきゃ。ロレーヌさんに教えてもらおう)


 この日から、仕事終わりから寝るまでの間、勉強をすることになった。

次回投稿は明日 7 時頃の予定です。

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