エピローグ レイシアの安寧
本日 3 回目の投稿です。
ふと、目が覚めた。
そこは、どこまでも続く暗闇の中だった。
寒い。けれど、不快ではない。
むしろ、その冷気が自分の体の一部であるかのように馴染んでいる。
レイシアはゆっくりと身を起こした――つもりだった。
だが、体の感覚が希薄だ。布団の重みも、床の硬さも感じない。まるで水中を漂っているような浮遊感だけがある。
「……あれ?」
自分の手を見た。そこにあるはずの掌が、薄く透けていた。
輪郭が霧のように曖昧で、向こう側の壁がぼんやりと見えている。
(わたし、死んだんじゃ……?)
記憶の糸を手繰り寄せる。
倉庫。崩れる木材。激痛。そして、ジャンに抱えられて古井戸へ運ばれたこと。
冷たい水の中に投げ込まれ、泥と骨の中に沈んでいった感覚。
そうだ。私は死んだのだ。
ジャンに殺され、エドモンたちに見捨てられ、あそこで終わったはずだ。
なのに、なぜ意識があるのだろう。
レイシアは戸惑いながら、屋敷の中をふわりと移動した。足を使っている感覚はない。
廊下を進むにつれて、断片的な記憶が奔流のように流れ込んできた。
――エドモンの寝室。老人のように干からびていく男の顔と恐怖に歪む瞳。その体を撫でた感触が残っている。
――大階段の踊り場。シャンデリアの鎖をねじ切った時の、金属の悲鳴。手すりをへし折った時の手応え。落下していくイザベルを見下ろした時の、胸のすくような快感。
――凍りついた寝室。震えるマリアンヌ。命乞いをする彼女の熱を、根こそぎ奪い取った時の、甘美なほどの冷たさ。
そして。
――古井戸のほとり。許しを乞う男に抱きつき、その命を凍らせて突き落とした感触。
(あ……)
それらは、レイシア自身の記憶だった。
けれど、レイシアであって、レイシアではない。
怒りと怨念だけに支配され、彷徨っていた「何か」の記憶。
(わたしが、やったんだ……わたしが、あの人たちを殺したんだ)
その事実に、レイシアは立ち尽くした。
殺人への忌避感や罪悪感がないわけではない。
けれど、それ以上に胸に広がったのは、奇妙な「達成感」と、底知れない「虚無感」だった。
終わったのだ。
わたしを苦しめた人たちは、もういない。復讐は果たされた。
ふと、ある二人の顔が脳裏をよぎった。
(ロレーヌさんとジュリーさんは?)
レイシアは屋敷中を探し回った。
使用人室、厨房、洗濯場、庭園……
どこにもいない。彼女たちの荷物もなくなっていた。
逃げたのだ。
あの二人だけは、この呪われた屋敷から生きて脱出したのだ。
「……よかった」
レイシアは透き通った手で、ほっと胸を撫で下ろした。
もし、怒りに任せて彼女たちまで手にかけてしまっていたら、きっと後悔してもしきれなかっただろう。
彼女たちは、レイシアにとって数少ない「優しい記憶」だったから。
◆
レイシアは、何かに導かれるように中庭へと向かった。
そこには、すべての終わりであり、始まりである古井戸が口を開けていた。
井戸の縁に浮かぶ。
覗き込むと、深い底の闇が心地よい。
ここは、レイシアの魂が帰る場所だ。
けれど。
(……汚い)
レイシアは眉をひそめた。
水底に、「異物」が混ざっている。
昨夜、自らの手で突き落とした男――ジャンの死体だ。
恐怖に顔を歪ませたまま凍りついた男が、中途半端に泥に埋もれている。
(邪魔だなぁ)
かつて愛したはずの男を見ても、もう何の感情も湧かなかった。
悲しみも、憎しみすらない。
ただ、自分の寝床に生ゴミが落ちているような、生理的な不快感だけがあった。
レイシアは軽く手を振った。
すると、井戸の水がごぼりと音を立てて盛り上がった。
ザバァッ!
ジャンの凍った死体だけが打ち上げられた。
それは濡れた雑巾のように宙を舞い、井戸の横の草むらに無造作に転がった。
「そこらへんに転がしておけば、誰か持っていくでしょ」
レイシアは冷ややかに見下ろすと、興味を失って視線を外した。
彼にもう、関心はない。
邪魔なものがなくなったので、再び井戸の底に意識を向け、すぅっと井戸の中へ降りていった。
重力に縛られない体は、空気のように軽く底へと沈んでいく。
井戸の底。
そこには、冷たい水と泥の中に、一人の少女の死体が沈んでいた。
手足が奇妙な方向に曲がっているのに、どこか顔は安堵を浮かべている。レイシア自身の肉体だ。
無惨な姿を見ても、もう痛みは感じない。ただ「抜け殻がある」という感想しか抱かなかった。
だが、レイシアが目を見張ったのは、その下だった。
自分の死体のさらに下。泥の中に埋もれるようにして、変色した骨が散乱していたのだ。
一人分ではない。二人、いや、三人……もっとかもしれない。
(これは……)
頭蓋骨の大きさからして、どれも若い女性のものだ。
メイド服の切れ端のような布も混じっている。
理解した。
ここに捨てられたのは、レイシアだけではなかったのだ。
ロシュフォール家は、これまでにも気に入らない使用人や、都合の悪くなった相手を、こうして「処理」してきたのだ。
(もしかしたら、わたしと同じ孤児院の子も……)
レイシアの胸に、どす黒い感情が渦巻いた。
それは、自分一人の怒りではなかった。
『寒い』『痛い』『悔しい』『許さない』
無数の囁き声が聞こえた気がした。
この井戸の底で、誰にも知られずに朽ちていった名も知らぬ少女たちの怨念。
それらが、レイシアの魂に絡みつき、溶け合っていく。
(そうか……わたしは、みんななんだ)
レイシアが強力な力を持てた理由。
それは、彼女が「最後の鍵」だったからだ。
積み重なった怨念の器となり、彼女たちの怒りも背負って、あの惨劇を引き起こしたのだ。
(わたしはもう、ただのレイシアではない。魔物に生まれ変わってしまったんだ……)
「……かわいそうに」
レイシアは泥の中の骨たちに触れようとした。指先はすり抜けたが、その想いは伝わった気がした。
「もう終わったよ。あの人たちは、もういないから」
囁き声が少しだけ静まった気がした。
レイシアは井戸を出て、再び地上へと戻った。
空を見上げる。曇り空だ。
屋敷の外へ行こうとした。あの鉄柵の門を抜けて、どこか遠くへ。
けれど、出られなかった。門のところで、見えない壁に弾かれたのだ。何度試しても、別の場所に行っても同じだった。
(出られない……)
地縛霊。そんな言葉が頭に浮かぶ。
この屋敷と井戸に縛り付けられ、ここから永遠に出ることはできない。
絶望してもおかしくない状況だった。けれど、レイシアの心は凪いでいた。
(それでも、いいや)
外に出ても、行く当てなんてない。
家族もいない。待っている人もいない。
「もう誰もここに来なければいい」
門に閂をかけたレイシアは屋根の上に佇んだ。
「ただ静かに、ここで……もう、誰も殺したくない」
復讐は終わった。
あとは、この静寂の中で、長い時間をかけて消えていくだけでいい。
それが、レイシアが望んだ「安寧」だった。
◆
その静寂が破られたのは、数時間後のことだった。
ガラガラガラ……
馬車の車輪の音が近づいてくる。
乱暴な足音が響き、門扉が激しく叩かれた。
「おい! いるのは分かっています! 出てきてください、エドモン様!」
口調こそ丁寧だが、男の怒鳴り声だ。
レイシアは眉をひそめ、門の方を見下ろした。
身なりの良い、けれど目つきの鋭い男たちが数人、苛立ちを露わにして立っていた。
そのうちの一人は見覚えがある。以前、昼食会をした時の人だ。
となると、この人たちは商会の人間たちだ。
「居留守か? ふざけた真似を……おい、門を壊せ!」
彼らは業を煮やし、強引に門を破壊して敷地内に入ってきた。
ズカズカと屋敷に近づき、玄関の扉を蹴り開ける。
「おい、返済はどうなってる――!」
先頭の男が叫びながらホールに入り――そして、悲鳴を上げた。
「う、うわぁぁぁぁっ!?」
そこには、シャンデリアの残骸と共に、串刺しになったイザベルの死体が転がっていたからだ。
腐敗臭こそ寒さで抑えられているものの、その光景は凄惨を極めていた。
「な、なんだこれは……死んでるのか!? 他の家族は……? おい、探せ!」
男たちはパニックになり、屋敷中を駆け回った。
「じじい……たぶんエドモンが寝室で死んでる!」
「娘もだ! 凍死してるぞ!」
男たちは顔面蒼白になりながら、遺体の確認に追われる。
そして、庭園を調べていた一人が声を上げた。
「おい! 井戸の横にも死体があるぞ!」
男たちが集まってくる。
そこには、奇妙な格好で凍りついたジャンの死体が転がっていた。
「なんだこいつは……?」
「服を見るに、使用人か……あるいはコソ泥か?」
「分からんが、カチカチに凍ってやがる。この屋敷、どうなってるんだ……」
彼らはジャンの顔を見ても、誰だか分からなかった。
貴族ではないことは明らかだが、わざわざ身元を調べる義理もない。
「……チッ、気味が悪い。おい、とにかく死体は全部運び出せ! こんなもんが転がってたら、屋敷が売れねえ!」
「この男もですか?」
「ああ、身元不明の死体として処理しちまえ。騎士に届けて、俺たちが疑われるのも面倒だ」
男たちは舌打ちしながら、エドモン、イザベル、マリアンヌ、そしてジャンの遺体を運び出し始めた。
荷車に無造作に積み重ねられていく死体たち。
ジャンは、かつて自分が仕え、そして共に破滅した主人たちの下敷きになり、どこかへ運ばれていく。
レイシアはその様子を冷ややかに見下ろしていた。
(あぁ、すっきりした)
あの四人がいなくなるのは清々しい。
ゴミ掃除をしてくれるというなら、手間が省けたというものだ。
しかし。
死体を運び出した男たちは、再び屋敷の中に戻ってくると、今度は家具を物色し始めた。
「くそっ、全員死んでやがるのか! これじゃ貸した金が回収できねえ!」
「おい、金目のものを探せ! 壺でも絵画でもいい、持てるだけ持ってけ!」
「帳簿もだ! 借用の証拠を押さえろ!」
男たちは死体をまたぎ、家具を荒らし始めた。
タンスを開け、宝石を懐に入れ、銀食器を袋に詰める。
その浅ましい姿は、生前のエドモンたちと何ら変わりがなかった。
レイシアの中で、静まっていた冷気が再びざわりと泡立った。
(……出ていって)
ここは、わたしたちの場所だ。
わたしと井戸の底のあの子たちの墓場だ。
土足で踏み込んで、荒らしていい場所じゃない。
ピキィッ……!
屋敷全体の空気が、一瞬で凍りついた。窓ガラスが一斉にヒビ割れ、壁に霜が走る。
「な、なんだ!? 急に寒く……」
男の一人が、白い息を吐いて震え上がった。
ガタガタガタガタッ!!
棚という棚が激しく振動し、残っていた食器や本が床に叩きつけられた。
「うわっ!?」
「じ、地震か!?」
違う。
レイシアが、彼らの前に姿を現したのだ。
ホールの階段の上。半透明の、青白い光を纏ったメイド姿で。
『……出ていけ』
その声は男たちの脳内に直接響くようだった。
『ここは、わたしの場所だ。荒らすな! 消えろ!』
男たちは目を見開き、腰を抜かした。
「ゆ、ゆ、幽霊だぁぁぁぁっ!!」
「ひいいぃぃっ! 助けてくれぇぇ!」
彼らは略奪した品物を放り出し、転がるようにして屋敷から逃げ出した。
馬車に飛び乗り、鞭を打って、一目散に去っていく。
二度と戻ってくることはないだろう。その恐怖に歪んだ顔が物語っていた。
◆
嵐が去った後。
屋敷には、再び深い静寂が戻ってきた。
家具は散乱し、窓ガラスも割れている。
けれど、あの目障りな当主たちの死体はない。略奪者たちも消えた。
レイシアは、ガランとしたホールに降り立った。
冷たい空気が心地よい。誰にも邪魔されない、静かな空間だ。
「……静か……」
レイシアは小さく呟いた。
これからは、ここは彼女の城だ。
(ロレーヌさんも、ジュリーさんもいないけれど……でも、もう誰もわたしを傷つけない。誰もわたしに命令しない)
レイシアは目を閉じた。
屋敷全体に自分の意識を張り巡らせる。
玄関、廊下、各部屋、そして庭の井戸まで。すべてが手に取るように分かる。
この屋敷に、これ以上、誰も足を踏み入れさせない。
もし入ってくる者がいれば――それが誰であれ、絶対に追い出してやる。
レイシアの安寧は、孤独の中にしかなかった。
彼女は深い闇の中で、長い、長いまどろみへと落ちていった。
無事完結しました!
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
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【次回作について】
現在、鋭意、執筆中です。
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【完結済みの過去作品】
新作をお待ちいただく間、もしよろしければこちらの完結済み作品もどうぞ。
『平穏を望む転生魔王、今度こそ世界を変える』
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※中世ヨーロッパ風異世界ファンタジー(全351話)
『半妖少女とゆく禍主退治の旅』
https://ncode.syosetu.com/n5967lm/
※和風異世界ファンタジー(全30話)




