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水底のレイシア  作者: 彼岸茸


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26 届かない謝罪

本日 2 回目の投稿です。

 帝都の路地裏にある、安酒場。

 紫煙とアルコールの臭いが充満する店内で、ジャンは一番奥の席に座り、震える手でグラスをあおっていた。


 手元には、まだ金がある。

 イザベルから受け取った報酬だ。実家の借金の利息を払い、当面の危機を回避することはできた。家族は泣いて喜び、ジャンを「家の救世主」だと崇めた。


 だが、ジャンの心は少しも晴れていなかった。

 それどころか、日を追うごとにやつれていく。

 眠れば悪夢を見る。井戸の底から四肢の曲がった、血まみれの少女が這い上がってくる夢だ。


 起きている時でも、ふとした瞬間に視界の端に白い影が見える気がして、ジャンは酒に逃げるしかなかった。


「……おい、聞いたか? あのロシュフォール子爵家の話」


 隣の席から、酔っ払いたちの話し声が聞こえてきた。

 ジャンはビクリと肩を震わせ、耳をそばだてた。


「ああ、聞いたぜ。一家全滅だってな?」

「いや、夜逃げしたって聞いたぜ? 借金で首が回らなくなったとかなんとか」

「一家心中だって噂もあるぜ? 見栄のために死ぬなんて馬鹿らしいよな」


 客たちは面白おかしく語っている。

 だが、ジャンにとっては現実の恐怖だ。


「そういえば、屋敷でメイド服の幽霊を見たって奴がいるんだよ」

「へえ、幽霊屋敷ってやつか。なんかヤバいもんでも住み着いたんじゃないのか?」

「ああ。近くに行くだけで寒いらしいしな」


 ガタンッ!


 ジャンはグラスを取り落とした。

 安酒がテーブルに広がり、ズボンを濡らす。


「おいおい、兄ちゃん。大丈夫か?」


 客が怪訝そうな顔で声をかけてきたが、ジャンは答えられなかった。

 顔面は蒼白で、歯の根が合わないほど震えている。


(俺のせいだ……俺のせいだ……)


 井戸の罠に倉庫の細工……

 すべて、自分がやったことだ。


 あの一家が死んだのも、レイシアが化けて出たのも、元を辿れば自分が加担したからだ。

 このまま逃げ切れるわけがない。


 家族のために金を得た? そんな言い訳が、レイシアに通用するものか。

 次は自分の番だ。いや、もうすぐそこまで来ているかもしれない。


「……謝らなきゃ」


 ジャンはうわ言のように呟いた。


「謝れば……許してくれるかもしれない。だってあいつは、優しい奴だったから」

「あぁ? なんだって?」

「俺は……行かなきゃいけないんだ」


 ジャンは釣り銭も受け取らず、ふらふらと店を出た。

 自分でも馬鹿げているとは思う。化け物が出る屋敷に、わざわざ戻るなど自殺行為だ。


 けれど、見えない恐怖に怯えて暮らすよりは、直接会って謝罪し、許しを請う方がまだマシに思えたのだ。

 それは、どこまでも身勝手な、加害者の論理だった。


     ◆


 月明かりだけが頼りの夜道を、ジャンは歩き続けた。

 街の灯りが遠ざかり、街道沿いの木々が深くなるにつれ、気温が下がっていくのを感じる。


 数時間後。

 目の前に、巨大な鉄柵の門が現れた。

 ロシュフォール子爵家の屋敷だ。


 かつては煌々と明かりが灯っていた窓はすべて暗く、屋敷全体が巨大な墓標のように沈黙している。

 ジャンは内側から鍵がかかった門を乗り越え、敷地内へと侵入した。


 ヒュゥゥゥ……


 一歩足を踏み入れた瞬間、異様な冷気がジャンを包み込んだ。

 ただの夜気ではない。肌を刺し、骨の髄まで染み込んでくるような冷たさを感じる。


「レ、レイシア……?」


 ジャンは震える声で呼びかけた。

 返事はない。ただ、風に揺れる木々のざわめきが、嘲笑のように聞こえるだけだ。

 ジャンは記憶を頼りに、屋敷の裏手へと回った。


 かつて、近づかないよう厳命されていた場所。

 そして、レイシアを突き落とした場所。


 そこには、古井戸がぽつんと口を開けていた。

 月光を浴びた石組みは底知れぬ闇を抱えている。


 ジャンは井戸の前に立ち尽くした。

 ここまで来て、足がすくんだ。

 帰りたい。逃げ出したい。


 だが、背後の闇が壁のように立ちはだかり、もう後戻りはできないことを悟らせる。


「……レイシア。いるんだろ?」


 ジャンは井戸に向かって声を絞り出した。


「すまない。本当に……すまなかった」


 静寂だけが返ってくる。

 ジャンは必死に言葉を継いだ。


「悪気はなかったんだ。信じてくれ。俺だって辛かったんだ。実家の借金があって……家族が路頭に迷いそうで……イザベル様に命令されて、逆らえなくて……」


 口から出るのは、謝罪の皮を被った言い訳ばかりだ。

 自分も被害者だ。仕方がなかったのだ。

 そんな甘えが、言葉の端々に滲み出ている。


「俺たち、似た者同士だって言っただろ? お前なら分かってくれるよな? 俺は……俺はただ、生きたかっただけなんだ」


 その時。


 ピキィッ。


 足元の草が、音を立てて凍りついた。

 白い霜が、波紋のようにジャンを中心にして広がっていく。

 温度が急激に下がる。


 吐く息が白く凍り、睫毛に氷の粒がつく。

 背後に、気配があった。


「……ッ!」


 ジャンは振り返ろうとした。

 だが、体が動かない。恐怖で金縛りにあったのではない。体が冷え切って動かせないのだ。


 スッ……


 正面から誰かに抱きつかれた。

 それは、かつて井戸で助けた時、震えるレイシアがジャンに縋り付いた体勢と同じだった。


 ただ一つ違うのは、その腕が氷塊のように冷たいことだった。


「レ……レイ、シア……?」


 ジャンは歯を鳴らしながら呟いた。

 体に感じる感触。


 柔らかい、女性の体。


 だが、鼓動は感じず、体温もない。


 あるのは、底なしの虚無と、世界を凍らせるほどの怨念だけ。

 自分の息が荒くなるのを感じる。まるで命を吸い取られているかのように、倦怠感が増していく。


 耳元に、冷たい唇が寄せられる気配がした。


「ごめん。ごめんな……俺を、許して……」


 ジャンは涙を流しながら懇願した。

 この期に及んで、まだ自分が助かると思っている。

 「似た者同士」という幻想に縋っている。


 次の瞬間。


 ジャンの肺の中の空気が、一瞬で凍結させられた。


「ごふっ……!?」


 息ができない。

 喉が張り付き、声が出ない。

 抱擁が強まる。愛しさからではない。ジャンの体温を、生命力を、根こそぎ奪い取るための抱擁だ。


 体中の熱が吸い取られていく。

 薄れゆく意識の中で、耳元で涼やかな声が囁いた。


『――許せるわけ、ないでしょう?』


 それは、死刑宣告だった。

 優しかったレイシアの声。けれど、そこには一片の慈悲も含まれていなかった。


 ――似た者同士? いいえ、違う。 あなたはわたしを殺して生き延びようとした。わたしは殺されてここにいる。


 ジャンの体は、瞬く間に氷像のようになった。

 意識はある。恐怖もある。痛みもある。


 だが、指一本動かせない。まぶたを閉じることさえできない。


 レイシアの腕が離れた。

 支えを失ったジャンは、棒のように硬直したまま、ゆっくりと前に傾いた。

 目の前には、古井戸の暗い口。


(あ、ああ……やめ……!)


 心の中で叫ぶが、声にはならない。

 視界が回転する。


 ――ドボンッ!!


 巨大な水音が、静寂な夜に響き渡った。

 冷たい水が全身を包む。

 ジャンはそのまま、石のように沈んでいった。


 泳ぐことも、藻掻くこともできない。キンキンに冷やされた体は、浮力さえも拒絶して、一直線に底へと落ちていく。


 ゴツン。


 背中が底についた。

 泥の感触。そして、周囲に散らばる、無数の硬い感触。

 骨だ。


 かつてここに捨てられた少女たちの骨。

 その山の上に、ジャンは仰向けのまま突き刺さった。


 その衝撃で舞い上がったものがあった。


(レイシアの……死体……!?)


 虚ろな目がジャンを覗き込んでいるように見える。

 いや、レイシアは幽霊になったはずだ。


 水底の闇の中から、ジャンは目を見開いて、上を見た。


 遥か頭上、井戸の出口が、小さな円となって切り取られている。

 そこから、青白い月明かりを背負って、一人の少女が覗き込んでいるのが見えた。


 メイド服の少女。

 彼女は、かつてジャンがそうしたように、彼を見下ろしていた。

 助けの手は伸びてこない。


 彼女は静かに、何の感情も浮かべずにジャンを見つめ、そして――


 フッ、と姿を消した。

 後には、絶望的な闇と、冷たさだけが残された。


 ジャンはすぐには死ねなかった。

 レイシアの呪いか、それとも極限の寒さが感覚を狂わせているのか。意識だけが鮮明に残っている。


 肺が焼けるように苦しい。水圧が鼓膜を圧迫する。

 そして何より、周囲の骨たちが、歓迎するように体に触れてくる感触が、狂いそうなほど恐ろしかった。


『ようこそ』『ずっと一緒だよ』『逃がさない』


 無数の声が、水を通して頭蓋骨に響くようだ。


(助けてくれ……誰か、助けてくれ……!)


 叫びは泡となって消える。

 誰にも届かない。

 ここには彼と、彼が裏切った犠牲者しかいないのだから。


 ジャンは理解した。

 生きてここを出ることは二度とないのだと。

 暗く、冷たく、孤独な井戸の底で――死ぬまで罪を償い続けるしかないのだと。

次回投稿は本日 20 時頃の予定です。

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