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水底のレイシア  作者: 彼岸茸


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23 触れる肌

本日 1 回目の投稿です。

 ロシュフォール子爵家の当主、エドモン=ロシュフォールの機嫌は最悪だった。


 書斎の机に広げられた帳簿は、まるで血痕のように赤いインクで埋め尽くされている。

 商会への返済期日は迫っているのに、軌道に乗り始めたと思った事業は結局失敗したのだ。


 エドモンは帳簿を乱暴に閉じ、革張りの椅子に深く沈み込んだ。

 給金を払ってやっているというのに、メイドのジュリーが辞めたがっているという話を耳にした。平民風情が、貴族の屋敷で働ける名誉を何だと思っているのか。


「新しい使用人を探させなければ……」


 だが、孤児院から子供を買うにしても、それなりの金がかかる。

 今のロシュフォール家には、その端金さえ惜しい状況だった。


 こんな時に限って、とエドモンは舌打ちをする。

 すべては他人のせいだ。商会が待ってくれないのも、メイドが根性なしなのも、すべて自分以外の誰かが悪いのだ。


 帳簿など見たくないとばかりに、書斎から出る。

 そんなエドモンにイザベルが声をかけた。書斎に入るか迷っていた様子だ。


「……あなた」

「なんだ。今は忙しい」


 エドモンは顔も上げずに答えた。

 だが、イザベルの様子がおかしいことに気づき、眉をひそめた。彼女は額に包帯を巻いていた。昨日、階段で足をもつれさせて転んだらしい。

 それに、ちらりと見えた彼女の腕に内出血があった。


「やはり……教会に相談をしたほうがよろしいのではないでしょうか」


 イザベルの声は震えていた。


「使用人たちの噂、ただの噂とは思えません。わたくしも、最近……視線を感じるのです。あの子の、視線を」

「馬鹿馬鹿しい!」


 エドモンは机を叩いて立ち上がった。


「幽霊だと? そんな子供騙しの話を信じてどうする。神官を呼べば、屋敷の中を嗅ぎ回られることになるんだぞ。古井戸のことが露見してみろ。我々は破滅だ」

「で、ですが……このままでは……」

「黙れ! お前もマリアンヌも、神経過敏になっているだけだ」


 エドモンは一蹴した。

 イザベルは唇を噛み、無言で部屋を出て行った。


 エドモンは大きく息を吐いた。

 威勢よく怒鳴ってみたものの、不安がないわけではない。イザベルの怪我もそうだが、マリアンヌの様子も異常だ。


 娘は「寒い、寒い」とうわ言のように繰り返し、部屋に引きこもって厚着した上に、布団を被り続けている。


(……自尊心のために死ぬのは、愚か者のすることか)


 エドモンは冷徹に思考した。

 もし本当に何かがいるのなら、祓うしかない。外聞は悪いが、背に腹は代えられない。


 商会の人間が来る前に、屋敷を「正常」に戻しておかなければ、物件としての価値すら下がるかもしれない。


(明日だ。明日になったら、私が直接教会へ行こう)


 そう決めた瞬間、少しだけ気が楽になった。


     ◆


 夜。

 エドモンは寝室で一人、酒を飲んでいた。最高級のブランデーだが、今日はやけに味が薄く感じる。


 部屋は、妙に冷え込んでいた。

 暖炉には薪をたっぷりとくべてあるはずなのに、炎が小さく縮こまっている。


「……寒いな」


 エドモンはガウンの前を合わせ、グラスの中身を一気に煽った。

 酒精で体を温め、恐怖を麻痺させる。酔いが回るにつれ、強気が頭をもたげてくる。


「ふん……呪いだと? 馬鹿馬鹿しい」


 声に出して笑ってみる。乾いた笑い声が、広い寝室に吸い込まれていく。


 ふとレイシアの顔が脳裏に浮かぶ。地味で貧相だが、整った顔立ちに怯えたような瞳。

 そして、あの夜の手触り。


「……惜しいことをした」


 エドモンはグラスを揺らしながら、独りごちた。


「せっかく私の愛を受け入れた矢先に死ぬとはな」


 それは、あまりにも都合の良い妄想だった。

 恐怖と絶望で動けなくなっていた少女を、受け入れたと解釈していた。


「これからもっと可愛がってやるつもりだったのに。そうすれば跡継ぎだって――」


 そう吐き捨てた、その時だった。


 スッ……


 部屋の温度が、一段階下がった気がした。


 パチッ。


 暖炉の薪が爆ぜる音が響き、次の瞬間、炎が一気に勢いを失った。

 部屋が闇に染まり、僅かに残った熾火の明かりだけが、頼りなく揺らめいている。


「……なんだ? 風か?」


 エドモンは不機嫌そうに立ち上がろうとした。だが、視界の端に何かが映った。


 ベッドのカーテンの隙間。

 そこに、青白いものがちらちらと見えた。フリルにエプロン……見覚えのある、メイド服だ。


「……誰だ? ジュリーか?」


 返事はない。

 エドモンは目を凝らす。


 誰もいない。

 酔いのせいか? 見間違いか?


 エドモンは首を振り、ベッドに横になった。

 毛布を頭まで被る。妙な胸騒ぎがする。早く眠ってしまおう。明日は教会に行くのだ。


 目を閉じて、数秒。


 ――スゥッ。


 背中に、違和感があった。ガウン越しではない。直接、肌に。

 冷たい、氷のような何かが、肩口から背中にかけて、ゆっくりと撫でたのだ。


「う、わっ!?」


 エドモンは飛び起きようとした。

 だが、体が動かない。手足に力が入らない。


「な、なんだ……!?」


 恐怖で声が上擦る。

 背中の感触は消えない。小さく、華奢な、女性の手の感触。

 それが、まるで愛しむように、這うように、エドモンの背筋をなぞっていく。


 かつて、エドモンがレイシアにしたように。


『……肌に触れるのが、お好きでしたよね?』


 耳元で、声がした。

 脳髄に直接響くような、凍り付くような囁き声。


「っ……!!」


 エドモンは悲鳴を上げようとしたが、喉が凍りついたように声が出ない。

 ヒュー、ヒューと、掠れた呼吸音だけが漏れる。


 重い。胸が、苦しい。

 目には見えない何かが、エドモンの胸の上に乗り、押さえつけている。心臓を、凍った手で握り潰されているような圧迫感がある。


「だ、れだ……やめ、ろ……」


 エドモンの目が限界まで見開かれる。ぼんやりと白い顔が浮かんでいる気がした。目鼻立ちは分からない。

 ただ、それが自分を見下ろしていることだけは分かる。


『ご主人様』


 その呼び名は、かつては優越感を満たす甘美な響きだった。

 だが今は、死刑宣告のように聞こえる。


「あ、が……っ」


 エドモンは必死に空気を求めて口をパクパクさせた。だが、うまく息が吸えない。

 手を天井に向かって伸ばす。視界に映った己の手は、まるで老人のように見えた。


 何が起こっているのか理解できない。ただ、恐怖と、理不尽への怒りと、混乱だけがあった。


『……さようなら』


 最後に、耳元で微かな吐息のような声が聞こえた。


 ドクン。


 最後に一度、心臓が大きく跳ね、そして停止した。

 残されたのは、老人のように枯れ果てたエドモンの亡骸だけだった。


     ◆


 翌朝。

 重い雲が垂れ込める、陰鬱な朝だった。


 ロレーヌは日課である主人の着替えの手伝いのため、エドモンの寝室をノックした。


「ご主人様。朝でございます」


 返事はない。

 鍵はかかっていない。

 ロレーヌは首を傾げながら、扉を開けて中に入った。


「ご主人様?」


 エドモンはベッドに仰向けに寝ていた。

 一瞬、誰か分からなかった。まるで生気を奪われたかのように、髪は白く、見開かれた目は落ちくぼみ、皺だらけの皮膚は乾燥していたのだ。


 エドモンの手は宙を掴むように硬直している。

 その顔に張り付いているのは、筆舌に尽くしがたい恐怖と苦悶の表情だった。


「……!」


 ロレーヌは悲鳴を飲み込んだ。

 脈を測るまでもない。彼は死んでいる。死因が病気であれ何であれ、それだけは確信できた。


 彼を殺したのは病ではない。

 「何か」だ。


 ロレーヌは震える足で部屋を出た。

 誰かに知らせなければ。奥様に、お嬢様に。


 だが、その前にやるべきことがあった。


 ロレーヌは使用人室へ走った。

 そこには、不安げに待っているジュリーがいた。


「ロレーヌさん……?」

「ジュリー。荷物は?」

「私物なんてそんなにないですけど……」

「今すぐまとめて、出ていきなさい」


 ロレーヌはジュリーの肩を掴んだ。


「えっ? でも、朝食の準備が……」

「いいから! 早く!」

「ロレーヌさんは!?」

「私は……後始末があります。このまま誰もいなくなったら、奥様とお嬢様が生活できませんから」


 それは建前だった。

 ロレーヌは覚悟を決めていたのだ。自分もまた、レイシアを見殺しにした「傍観者」の一人だ。

 この屋敷の行く末を見届ける義務がある、と。


 だが、ジュリーだけは助けたかった。彼女はまだ若く、そしてレイシアのことを心から心配していた人間だから。


「……分かりました。ロレーヌさん、絶対、無事でいてくださいね」


 ジュリーは涙目で頷く。

 急いでまとめた荷物を担いで、使用人室を出ようとした時だった。


 ジュリーはふと、風の中に懐かしい声を聞いた気がした。


『ありがとうございました』


 ジュリーは足を止め、振り返った。メイド服の少女がお辞儀をしている姿を幻視した。


「レイシア……ちゃん……?」


 ジュリーの目から涙が溢れた。

 恐怖ではなかった。あの子は、自分を逃がしてくれたのだ。


「ごめんね、レイシアちゃん……!」


 ジュリーは涙を拭い、前を向いた。

 もう二度と、この屋敷には戻らないと決めた。

次回投稿は本日 19 時頃の予定です。

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