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水底のレイシア  作者: 彼岸茸


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22 冷たい屋敷

本日 2 回目の投稿です。

 レイシアの姿が見えなくなってから、数日が過ぎた。


 屋敷の空気は、あの日を境に決定的に変わってしまった。

 それは比喩ではなく、物理的な変化として現れていた。


 屋外に比べ、屋敷の中だけが異常に寒いのだ。

 廊下を歩くだけで、真冬の冷気が肌を刺す。暖炉にどれだけ薪をくべても、熱がどこかへ吸い取られていくように、部屋が暖まらない。


 吐く息が白くなるほどの寒さの中で、メイドたちは身を縮こまらせて働いていた。


     ◆


 厨房では、ロレーヌとジュリーがスープの準備をしていた。

 鍋からは湯気が上がっているが、その湯気さえも立ち昇った端から冷やされて消えていくようだ。


「……レイシアちゃん、本当に逃げ出したんでしょうか」


 野菜を刻みながら、ジュリーがポツリと漏らした。

 彼女の目の下には隈ができている。ここ数日、悪夢にうなされて眠れていないらしい。


「奥様はそう仰っていましたね。『恩知らずにも夜逃げした』と」


 ロレーヌの手は動いているが、その声は硬い。


「嘘です。あの子はそんな子じゃないってロレーヌさんも知ってるでしょ? それに、逃げるなら一言くらいあたしに……」

「ジュリー」


 ロレーヌが短く名を呼んで制した。

 だが、その瞳にはジュリーと同じ疑念と、深い後悔の色が宿っていた。


 ロレーヌもまた、何度かイザベルやエドモンにレイシアの行方を尋ねていた。

 返ってくるのは「知らない」「逃げた」「探すな」という冷淡な言葉だけ。それどころか、「お前たちの教育がなっていないからだ」と叱責される始末だった。


(もっと、話を聞いてあげればよかった)


 ロレーヌは唇を噛み締めた。

 レイシアが追い詰められているのは気づいていた。顔色が悪く、痩せ細っていくのも知っていた。


 けれど、自分も日々の業務に忙殺され、「休みなさい」と声をかけることしかできなかった。

 もっと強く介入していれば。イザベルに盾突いてでも、あの子を守るべきだったのではないか。


 そんな後悔が、屋敷の冷気と共に胸を締め付ける。


「……ロレーヌさん、あれ」


 ジュリーの震える声に、ロレーヌは顔を上げた。

 調理台の端に置いている銀のレードルが、カタカタと微かに震えていた。誰も触れていないのに、だ。


「また、だ……」


 ジュリーが青ざめる。

 こうした不可解な現象は、少し前から頻発していた。

 棚の皿が勝手に位置を変え、閉めたはずの扉が開いている。


「……きっと、風か振動のせいです」


 ロレーヌは努めて冷静に言った。

 だが、その背筋には冷たい汗が伝っていた。

 この屋敷には、「生きた人間」以外の何かが住み着いている。その確信が、日増しに強くなっていた。


     ◆


 夜。

 エドモン、イザベル、マリアンヌの三人は、食堂で夕食を摂っていた。

 豪奢な燭台に火が灯されているが、炎は頼りなく揺らめいている。


「……寒いな。薪をケチっているのか?」


 エドモンが不機嫌そうにナイフを置いた。

 冬用の厚手のコートを着込んでいるにも関わらず、体の芯が凍えるようだ。


「暖炉は最大にしてありますわ……気候のせいかしら」


 イザベルもまた、ショールを二枚重ねにして震えていた。

 彼女は時折、落ち着きなく視線を彷徨わせる。視界の端に、青白い影が映る気がするのだ。

ふと見ると何もいない。

 だが、食事に戻ろうとすると、また視界の隅に何かが立つ。じっと、こちらを恨めしそうに見つめる視線を感じる。


「おい、ジャン!」


 エドモンの怒声が響いた。

 部屋の隅に控えていたジャンが、ビクリと体を跳ねさせた。

 彼のやつれ方は異常だった。頬はこけ、目は落ち窪み、絶えず何かに怯えるように周囲を警戒している。


「は、はい……」

「ワインだ。空になっているぞ。気が利かないな」

「も、申し訳ありません……」


 ジャンが震える手でボトルを掴み、グラスに注ぐ。その時――


 ガタッ。


 誰もいないはずの、空席の椅子が動いた。


「ひっ!?」


 ジャンが短く悲鳴を上げ、ワインをテーブルにこぼした。赤い液体が、白いテーブルクロスに広がっていく。まるで血のように。


「な、何をしているのです! 汚い!」


 イザベルが叫ぶ。

 だが、ジャンは謝罪もせず、その空席を凝視していた。


「い、今……あそこに……」

「何だと言うんだ!」

「レイシアが……レイシアが、座って……」


 ジャンの言葉に、食堂の空気が凍りついた。

 マリアンヌがフォークを取り落とす。


「やめてよ! 気持ち悪い!」

「そ、そうですわ。あの子は逃げたのです。そういうことにしたでしょう?」


 イザベルが早口で否定する。

 だが、その声は上擦っていた。彼女たちもまた、見ていたのだ。廊下の曲がり角や、庭の植え込みの陰に立つ、メイド服を着た少女の影を。


 誰とも言わなかったが、その背格好はレイシアに酷似していた。


「……ふん。疲れているんだ、お前たちは」


 エドモンが無理やり話を終わらせようとした。

 しかし、彼の視線もまた、窓の外――古井戸がある方角を避けるように泳いでいた。


     ◆


 翌朝。

 ジュリーの不安は限界に達していた。

 夜中にうめき声を聞いたり、金縛りにあったりと、被害は確実に拡大していた。


 ロレーヌは意を決して、イザベルに直談判に向かった。

 このままでは、屋敷が崩壊する。


「奥様。お話がございます」


 サロンで刺繍をしていたイザベルは、不快そうに顔を上げた。


「何かしら。忙しいのだけど」

「屋敷の異変についてです」

「だから? 気の持ちようでしょう」

「いいえ、これはただ事ではありません」


 ロレーヌは一歩踏み込んだ。


「教会に相談し、神官様に来ていただくべきです……」

「黙りなさい!」


 イザベルが刺繍枠をテーブルに叩きつけた。

 その剣幕に、ロレーヌは息を飲む。


「教会ですって? そんなことをすれば、どうなるか分かっているのですか?」

「し、しかし……」

「『ロシュフォール家は呪われている』などと噂が立てば、社交界での立場がなくなります。ただでさえ、良からぬ噂があるというのに……これ以上、恥を晒せと言うのですか!」


 そこに、エドモンも入ってきた。話を聞いていたらしい。


「妻の言う通りだ。神官に余計な詮索をされるのは御免だ」


 エドモンもまた、頑として拒絶した。

 彼らが恐れているのは、怪奇現象よりも「外聞」と「秘密の露見」だった。


「ですが、旦那様。このままでは……」

「しつこいぞ、ロレーヌ! お前は黙って働いていればいいんだ。これまでそうしてきたようにな」


 エドモンの脅しを含んだ言葉。

 ロレーヌは拳を握りしめ、俯いた。


「……申し訳ございません。出過ぎた真似をいたしました」


 これ以上言っても無駄だ。

 彼らは、自分たちの保身しか考えていない。使用人の安全など、これっぽっちも気にしていないのだ。


 ロレーヌが部屋を出ようとした時、マリアンヌとすれ違った。

 彼女の顔色は悪く、目の下には隈ができている。すれ違いざま、彼女が独り言のように呟くのが聞こえた。


「……一番、寒い……わたくしの部屋……なんで……」


 その言葉に、ロレーヌは背筋が凍るのを感じた。


     ◆


 その夜。

 厨房に残っていたジュリーがロレーヌに尋ねる。


「……ロレーヌさん、ご主人様たちは何か言ってましたか?」


 泣きそうな顔でロレーヌを見た。


「『黙って言うことを聞け』だそうです」

「なんですか、それ……ここ、もう駄目ですよ。おかしくなっています」


 ロレーヌは何も言えなかった。否定できなかった。

 主たちは現実から目を逸らし、教会への相談も拒否した。この屋敷は今、外の世界から切り離された、密室の棺桶になりつつある。


「……そうね」


 ロレーヌは、冷え切った紅茶を見つめて呟いた。


「でも、まだ逃げるわけにはいきません。私たちがいなくなったら、誰が……」


 言葉が続かなかった。

 誰が何を守るというのか。この呪われた家を? それとも、自業自得の主人たちを?

 守るべきだった少女は、もういないというのに。


 その時――

 不意に、厨房の燭台の炎が揺れた。風はない。窓も閉まっている。


 フッ。


 炎が、まるで指で摘まれたように消えた。闇が二人を包み込む。


「ひっ……!」


 ジュリーがロレーヌにしがみつく。


 二人は暗闇の中で身を寄せ合い、ただ朝が来るのを祈ることしかできなかった。

 ここには何かがいる。

 理不尽に命を奪われ、冷たい底に沈められた「誰か」が、確実に帰ってきているのだ。

次回投稿は明日 正午頃の予定です。

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