表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
水底のレイシア  作者: 彼岸茸


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

25/31

21 レイシアの最期

本日 1 回目の投稿です。

 世界が灰色になってから、どれくらいの日が経っただろうか。

 レイシアはもう、何も考えずに目の前の仕事をこなすだけになった。


 あの日、包帯を捨ててから、レイシアは完全に「道具」になった。

 言われたことを、言われた通りにこなすだけ。


 食事の味はしない。痛みも遠い。

 ただ、心臓が動いているから生きているだけだ。


 ある日の午後、レイシアはマリアンヌの私室に呼ばれた。


「失礼いたします」


 扉をノックし、中に入る。そこには、先客がいた。


「ん……っ、お嬢様、もう……」

「ふふ、いいじゃない。減るもんじゃないわ」


 マリアンヌが、ソファに座るジャンに跨るようにして、唇を重ねていた。

 二人の着衣は乱れている。部屋には甘ったるい香水の匂いと、獣めいた熱気が充満していた。


 レイシアが入ってきたことに気づき、ジャンが弾かれたように体を離した。


「れ、レイシア……!?」

「あら、来たのね」


 ジャンは顔を真っ赤にして、慌ててズボンの位置を直している。

 その顔には、かつてレイシアに見せていた「優しさ」や「誠実さ」の欠片もなかった。あるのは、情けない狼狽だけだ。


「ち、違うんだ、これは……俺は……」


 ジャンが何か言い訳をしようと口を開く。

 だが、レイシアの虚ろな瞳と目が合うと、言葉を失ったように口を噤んだ。何を言っても無駄だと悟ったのか、それともレイシアの目に生気がなさすぎて怖気づいたのか。


 レイシアは眉一つ動かさなかった。

 ショックなどなかった。悲しみもなかった。

 ただ、乾いた納得だけがあった。


(ああ、やっぱり……ジャンさんにとって、わたしは邪魔だったんだ)


 自分は彼にとって、金づるであるイザベルとの契約を果たすための道具であり、マリアンヌとの情事のスパイスでしかなかったのだ。

 そう理解すると、胸の奥で燻っていた最後の火種が、シュッと音を立てて消えた。


「レイシア、倉庫に行ってきなさい」


 マリアンヌが、乱れた髪を指で梳きながら命じた。その顔は、頬を赤らめ、艶めかしい笑みを浮かべている。


「いらない荷物を整理しておいたの。奥の棚にしまってきてちょうだい」

「承知いたしました」

「重いから気をつけるのよ? ふふ」


 含みのある笑い声。

 ジャンは気まずそうに俯き、レイシアの方を見ようともしない。


 レイシアは無言で一礼し、部屋を出た。

 背後から、再び二人がじゃれ合う衣擦れの音が聞こえたが、もう何も感じなかった。


     ◆


 屋敷の裏手にある倉庫。

 古びた木造の建物の中は薄暗く、埃とカビの臭いが立ち込めていた。


 レイシアは指定された荷物を抱え、倉庫の奥へと進んだ。


 体は鉛のように重い。

 連日の過重労働と、食欲がなく、まともに食事が摂れないせいで、視界がぼんやりと霞んでいる。


(早く終わらせないと……終わらせて、戻って、また掃除をして……途中で「お願い」もされるから、それをやって……)


 思考がループする。

 単純な回路だけで、レイシアの足は動いていた。


 倉庫の壁際には、修繕用の太い木材の束が何本も立てかけられていた。その手前に、目的の棚がある。


 レイシアは荷物を棚に移そうと、足を踏み出した。

 足元の床には、積もった埃に紛れて、一本の細いロープが張られていた。


 だが、虚ろなレイシアの目には、それが映らなかった。


 グッ。


 爪先がロープに引っかかった。

 通常の精神状態なら、踏ん張れたかもしれない。

 だが、今のレイシアにはその気力も体力も残っていなかった。


「あ……」


 レイシアの体が、無防備に前方へと投げ出される。


 それと同時だった。


 バチンッ!


 乾いた音が響いた。足元のロープが引かれたことで、壁際の留め具が弾け飛んだ音だ。


 立てかけられていた数十本の木材――その一本一本が成人男性の力でも持ち上げるのがやっとという重量物が、支えを失った。


 ギギギと軋む音が鳴り、次の瞬間、木材の束が崩れ落ちてきた。


 レイシアが倒れ込んだその場所にめがけて。


 視界が、茶色い影に覆われる。

 逃げなければ。

 避けなければ。


 頭では分かっていた。けれど、体は動かなかった。


(ああ、これも仕掛けだったんだ)


 迫りくる質量を前に、レイシアの思考は妙に冷静だった。


 あの時の井戸のロープと同じ。

 ジャンが金のために用意した罠だ。


 彼は知っていたのだ。レイシアがここに来ることを。

 だから、マリアンヌの部屋で口を噤んだ。


 走馬灯のように、記憶がフラッシュバックする。


 井戸の底から手を伸ばしたあの瞬間。

 『俺たちは似てるな』という言葉。

 優しかった笑顔。

 泥だらけの手を握ってくれた温もり。

 イザベルから金を受け取る震える手。


 すべてが、レイシアをここへ導くための道筋だった。


(……もう、いいや)


 声を上げれば、誰かが気づくかもしれない。

 でも、誰が助けてくれるというのか。助けに来るのは、きっとまた、私を殺そうとした人たちだ。


 もう、疲れた。

 これ以上、痛いのも、辛いのも……裏切られるのも嫌だ。


 レイシアは抵抗することをやめ、静かに目を閉じた。

 乾いた諦めだけが、胸を満たしていた。


 ドォォォォン!!


 轟音と共に、凄まじい衝撃が全身を襲った。

 骨が砕ける鈍い音が聞こえ、内臓が潰れるのを感じた。


 「ぐっ、あ……」


 肺から空気が強制的に絞り出される。

 視界が明滅し、真っ赤に染まっていく。

 腕や足が、ありえない方向に曲がっているのが感覚で分かった。

 熱い液体が喉から逆流してくる。


 痛みはあるはずだ。激痛のはずだ。

 なのに、不思議と苦しくなかった。


 むしろ、奇妙な安心感が広がっていく。


(これで、休める……もう、働かなくて、いいんだ……)


 意識が急速に遠のいていく。暗い、暗い闇の底へ。


     ◆


 どれくらいの時間が経っただろうか。遠くで、ざわめく声が聞こえた。


「う……これは酷いな」

「本当に、愚鈍な娘ですね」


 光が差し込む。

 崩れた木材が、誰かの手によって退かされていく。

 レイシアの体は、瓦礫の下から引きずり出された。


 彼女は全身が傷つきながらも、まだかろうじて意識が残っていた。

 薄目を開けると、ぼんやりと三つの人影が見えた。


 エドモン、イザベル、そしてマリアンヌだ。その後ろに、青ざめた顔で震えているジャンの姿もある。

 エドモンが、ひしゃげたレイシアの体を見て、眉をひそめた。


「ああ、勿体ないことをしたな。まだ使い道はあったのに」


 まるで、壊れた壺を見るような目だった。

 彼の「信じている」という言葉も、「愛している」という囁きも、所詮は道具への愛着に過ぎなかったのだ。

 そんなことは分かっていたが。


「下賤な女には当然の報いです」


 イザベルがハンカチで鼻を覆い、しかめっ面で冷たく言い放つ。


「私の大切な壺を割り、井戸を壊し、家の空気を乱した罰が当たったのです。神様はちゃんと見ていらっしゃったのね」


 彼女にとって、これは事故ですらない。正当な「天罰」なのだ。


「あーあ、壊れちゃった」


 マリアンヌがつまらなそうに呟いた。彼女はレイシアの虚ろな瞳を覗き込み、くすくすと笑った。


「ねえ、見て。変な方向に足が曲がってる。お人形みたい」


 誰も、レイシアの名前を呼ばない。

 誰も、医者を呼ぼうとしない。

 ……誰も、悲しまない。


「……ジャン」


 イザベルが顎でジャンを指した。


「このゴミを片付けなさい。こんなものがあると、屋敷の品位に関わります」

「え……あ、あの、医者を……」

「馬鹿を言わないでちょうだい。もう手遅れです。それに、こんな不祥事が外に漏れたら困りますからね」


 イザベルは無慈悲に告げた。


「古井戸に捨ててしまいなさい。どうせもう使っていない井戸です。いつものように底に沈めてしまえば、誰も気づきません」

「そ、そんな……」

「やりなさい。それとも、あなたも借金を抱えたまま路頭に迷いたいのかしら?」


 脅しを含んだ声に、ジャンがビクリと震えた。

 彼は助けを求めるようにエドモンやマリアンヌを見たが、二人は興味なさそうに背を向けていた。


 ジャンは、泣きそうな顔でレイシアを見た。

 まだ、レイシアの意識は僅かに残っていた。目が合った。


「……ごめん。ごめんな、レイシア」


 ジャンは震える声で謝罪した。けれど、その手はレイシアの体を抱え上げていた。


「俺には、こうするしかないんだ……許してくれ……」


 許してくれ。

 自分が助かるために。保身のために。


 ジャンはレイシアの体を抱え、裏庭の古井戸へと運んだ。

 レイシアの体はまだ微かに温もりが残っている。

 それを感じるたびに、ジャンは嗚咽を漏らした。だが、足は止まらなかった。


 古井戸の縁に立つ。

 ジャンは蓋を外し、レイシアを抱え直す。


「……楽になれるから。な?」


 ジャンは自分に言い聞かせるように呟くと、目を閉じて、レイシアの体を放り投げた。


 フワリ。

 体が宙に浮く感覚。


 直後、冷たい風が頬を撫で、暗闇がレイシアを飲み込んだ。


 ドボンッ!


 冷たい水が全身を打ち据える。

 衝撃で、残っていた感覚が吹き飛んだ。水底へと沈んでいく。


 冷たい。

 暗い。


 底には、泥と、何かの動物の骨のような感触があった。

 水が肺に入ってくる。苦しいはずなのに、意識は急速に透明になっていく。


(ああ、これで終わる)


 やっと、眠れる。

 そう思った。


 けれど。

 最期の瞬間に脳裏に焼き付いていたのは、彼らの顔だった。


 「勿体ない」と言ったエドモン。

 「当然の報い」と笑ったイザベル。

 「壊れちゃった」と嘲笑ったマリアンヌ。


 そして、「許してくれ」と言いながら、レイシアを投げ捨てたジャン。


 ――許してくれ?

 ――楽になれるから?


 ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな!


 諦めの中に、どろりとした黒い感情が生まれた。

 それは死の淵で変質し、決して消えることのない怨念の火種となった。


 ――わたしは、あなたたちを。わたしの心を、体を、人生を奪ったあなたたちを。


(許さない)


 レイシアの瞳から、光が完全に消えた。

 けれど、その唇は最期に微かに動き、呪詛の言葉を紡いでいた。


(絶対に、許さない……)


 水面が静まり返る。

 古井戸の底、誰にも知られない闇の中で、一人の少女の命が終わった。

 そして、ロシュフォール家を破滅へと導く「何か」が、産声を上げた。

次回投稿は本日 19 時頃の予定です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ