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水底のレイシア  作者: 彼岸茸


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幕間 4 ジャンの計算

本日 2 回目の投稿です。

 使用人が並ぶ一角にある簡素な部屋で、ジャンは薄い布団に横たわっていた。

 夜は深い。窓の外からは虫の声さえ聞こえない。

 目を閉じればすぐに眠れるはずの労働量だったが、ここ数日、ジャンはまともに眠れていなかった。


 天井のシミを見つめる。

 そのシミが、不意に数字の羅列に見えてくる。


 実家の店の帳簿だ。

 目に焼き付いて離れない、真っ赤なインクで書かれた数字の羅列と、商会から送りつけられた督促状の冷徹な文面。

 父の急激に増えた白髪と、疲れ切って土色になった顔。

 そして、母が涙ながらに絞り出した、「なんとかならないの」という悲痛な声。


「……くそっ」


 ジャンは寝返りを打ち、頭を抱えた。

 ロシュフォール家に来たのは、口減らしと出稼ぎのためだ。 「ここで働けば、少しは返せる」。そう言われて送り出された。


 だが、現実は甘くない。

 一介の雑用係の給金など、たかが知れている。自分の食い扶持を稼ぐのがやっとで、膨れ上がった利息を返すことすらままならない。


 このままでは、実家は潰れる。家族は路頭に迷う。


 焦りが、ジャンの喉元までせり上がってくる。

 そんなジャンにとって、あの日、イザベルから呼び出されたことは巻き直しの契機だった。


     ◆


 少し前のことだ。

 ジャンは本館のサロンに呼び出された。

 場違いな空間に縮こまるジャンに、ロシュフォール子爵夫人イザベルは優雅に微笑みかけた。


「ジャン。真面目に働いているようね」

「は、はい! ありがとうございます!」


 直立不動で答えるジャンに、イザベルは紅茶を一口含んでから、本題を切り出した。


「ところで……あなたのご実家、商売がうまくいっていないそうね」

「えっ……な、なぜそれを……」

「そのようなことは、あなたが気にすることではありません。商会からの借金、大変な額だとか」


 心臓が凍る思いだった。

 顔面蒼白になるジャンを見て、イザベルは微笑んだ。


「怯えることはありません。わたくし、働き者のあなたを助けてあげたいの」

「た、助ける、ですか……?」

「ええ。あなたのご実家が負っている額くらいなら、ロシュフォール家の資産でどうとでもなります。利息分だけでなく、元金の一部も肩代わりしてあげてもよろしくてよ」


 提示された金額は、ジャンが十年働いても稼げない額だった。

 喉から手が出るほど欲しい。それがあれば、父も母も救われる。


「ほ、本当ですか!? 俺は、何をすれば……!」

「簡単なことです」


 イザベルの目が、すっと細められた。


「あの娘――レイシアを、少し分からせてあげなさい」


 ジャンは息を飲んだ。

 レイシア。新入りのメイドだ。真面目で、少し不器用だが、一生懸命な少女。

 ジャンと話す時は少し照れた感じがかわいらしいと思う。数少ない「仲間」だと思っていた。


「……レイシアを、ですか? でも、あの子はただ真面目に働いているだけで……」


 思わず反論が口をついて出た。

 あの子がいじめられているのは知っている。それに加担しろと言うのか。


「あら、あなたは何も知らないのね」


 イザベルは呆れたように首を振った。


「あの娘はね、夫を惑わし、この家の秩序を乱しています。卑しい身分でありながら、色目を使って入り込もうとする害虫なのです」

「え……」

「わたくしはね、家のための『躾』をしなければなりません。あの子に、自分の立場を理解させてあげたいだけ。あなたには、その手伝いをしてほしいのです」


 躾。

 その言葉の響きが、ジャンの良心を麻痺させる。

 いじめではない。虐待でもない。これは、家の秩序を守るための正当な行為なのだ。


 そう思わなければ、この甘い提案を受け入れられない。


「……具体的には、何をすれば」

「そうね。あの子が仕事でミスをするように仕向けてちょうだい。たとえば……井戸の水を汲むとき、少し苦労するように、とかね」


 イザベルは楽しそうに、残酷な指示を並べ立てた。

 ジャンは拳を握りしめ、そしてゆっくりと開いた。

 実家の家族の顔と、レイシアの笑顔が天秤にかけられる。そして、天秤は音を立てて傾いた。


「……承知いたしました」


     ◆


 それからのジャンは「自分は悪くない。家族のために仕方がないのだ」と、そう自らに言い聞かせながら、夜な夜な工作を行った。


 井戸のロープを、倉庫の奥に眠っていた古いものと交換した。さらに、ナイフで半分ほど切れ込みを入れる。

 夜の庭で、冷たい風に吹かれながら、ジャンは震える手で作業をした。


(大丈夫だ。あいつは軽い。落ちたとしても、すぐに引き上げればいい。少しくらい足を滑らせるかもしれないが、水に濡れる程度だ。死にはしない)


 心の中で言い訳を重ねる。

 これはただの悪戯だ。躾の一環だ。


 倉庫の木材もそうだ。ロープの結び目を緩めた。ジャン以外は立ち寄る場所でもないし、他のメイドが巻き込まれることはないだろう。


(これくらいならきっと避けられる。なに、怪我させるつもりじゃない。ちょっと驚かせるだけだ)


 その言葉を免罪符に、ジャンは罠を張り巡らせた。


 そして、あの朝が来た。


 物陰から見ていたジャンは、自分の計算が甘かったことを思い知らされた。

 脚に力をこめたレイシアが足を滑らせ、咄嗟に掴んだロープが切れた瞬間――


 彼女の体は、予想以上に深く、前のめりに井戸へ突っ込んだ。


「――っ!」


 心臓が止まるかと思った。

 水に落ちるなんて生易しいものではない。あの角度で落ちれば、井戸の内壁に頭を打ち付けるか、下手をすると首の骨を折るかもしれない。

 死ぬ。

 本当に、死ぬ。


 恐怖に戦慄した。

 レイシアが可哀想だからではない。

 自分が「人殺し」になってしまうという、根源的な恐怖だ。金のために人を殺したとなれば、借金返済どころではない。人生が終わる。


 だからジャンは走った。無我夢中で手を伸ばし、彼女の腕を掴んだ。


 引き上げた時、レイシアは震えていた。手は血だらけで、顔面は蒼白で、涙を流していた。

 その姿を見て、ジャンは安堵した。生きていた。俺は人殺しにならずに済んだ。


 そして、レイシアが「ありがとうございます」と縋り付いてきた時、ジャンの中に歪んだ安堵感が生まれた。


(そうだ。俺は助けたんだ……俺が罠を仕掛けたけど、俺が命を救った。だから、帳消しだ)


 ジャンがいなければ彼女は本当に死んでいたかもしれない。つまるところ、彼女の命の恩人だ。

 そう考えなければ、彼女に向けられる純粋な信頼の眼差しに耐えられそうにない。


「俺たちは似てるな」


 あの日、レイシアに言った言葉。

 あれは本心だった。


 だが、今となってはどうだろうか。自分と家族のために、彼女を手にかけそうになった。

 それで、「似ている」などと言えるだろうか。


(いや、レイシアだってエドモン様と寝たんだろう……それなら、結局は彼女も同類ってわけだ)


 それに、ジャンがマリアンヌの部屋に行ったことを、レイシアは知らないはずだ。


 自身の行動がレイシアを真に追い詰めたという考えには至らない。

 ただ、自己正当化の思考を繰り返すだけだった。


     ◆


 ジャンは布団の中で、枕の下に手を差し入れた。

 そこには、イザベルから受け取った革袋がある。ずしりと重い。この金があれば、実家は救われる。


 だが、その手触りは、あの時のレイシアの手首の感触と重なった。

 細く、冷たく、必死に生にしがみつこうとしていた手。


「……くそっ」


 ジャンは小さく呻いた。

 目を閉じると、井戸の底の暗闇が瞼の裏に広がる。

 そこからレイシアが、血走った目で見上げているような気がして、すぐに目を開ける。


 罪悪感が消えることはない。

 分かっている。自分はもう、取り返しのつかない一線を越えてしまった。 「いい人」の顔をしたまま、一人の少女を地獄へ突き落とす片棒を担いでいる。


 けれど、もう戻れない。

 ここで辞めれば、金は没収されるかもしれない。それだけでは済まないだろう。


 イザベルの折檻の対象が自分になるかもしれない。


「家族のために……仕方なかったんだ」


 ジャンは呪文のように呟いた。魔法の言葉だ。


 ――仕方なかった。


 これさえ唱えれば、どんな卑劣な行いも、不可抗力ということにできる。


「俺は悪くない。悪いのは借金だ。命令したイザベル様だ」


 そう自分に言い聞かせ、ジャンは革袋を強く握りしめた。

次回投稿は明日 7 時頃の予定です。

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