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水底のレイシア  作者: 彼岸茸


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20 裏切りの会話

本日 1 回目の投稿です。

 壺が割れたあの日から、レイシアから生気は失われていた。

 頬は削げ落ち、目の下には消えない隈が張り付いている。


 その日の朝も、レイシアはふらつく足取りで廊下を掃除していた。

 雑巾を絞る手には力がなく、ただ惰性で動いているだけだ。


「レイシア」


 声をかけられ、レイシアはゆっくりと顔を上げた。

 メイド長のロレーヌだった。早朝の業務確認以外で話すのは随分と久しぶりな気がする。

 彼女は眉をひそめ、痛ましそうにレイシアを見つめていた。


「顔色が酷いですよ。少し……休憩室で休んできなさい。ここの掃除は私がやっておきます」


 それは、ロレーヌなりの精一杯の気遣いだったのだろう。

 以前のレイシアなら、その優しさに涙し、感謝したかもしれない。


 だが、今のレイシアの心には、何も響かなかった。


「……いいえ、大丈夫です」


 レイシアは首を横に振った。声は掠れ、感情の色がない。


「……見ていられません。このままじゃ倒れてしまう」

「休んでも、意味がありません」


 レイシアは虚ろな瞳でロレーヌを見返した。

 その瞳には、諦念と絶望が浮かんでいた。


「どうせ、休めませんから。休んだら、イザベル様が怒ります。マリアンヌ様が新しい仕事を言いつけます。それにご主人様が……」


 レイシアは両腕で自分の身体を抱き、カタカタと震えた。

 しかし、すぐにすっと収まった。


「……いえ、なんでもありません」


 その言葉を聞いた瞬間、ロレーヌは言葉を詰まらせた。

 何かを言おうとして、口を開きかけ、そして閉じる。


 この屋敷の現状を知っている彼女には、かける言葉が見つからなかったのだ。

 彼女もまた、ロシュフォール家に仕える身。レイシアを守るために、主人に盾突くことなどできない。


「失礼します」


 ロレーヌの沈黙を肯定と受け取り、レイシアは再び雑巾を動かし始めた。

 背中に、ロレーヌのやるせない視線を感じながら。


     ◆


 夜。

 広大な屋敷は静寂に包まれていた。

 レイシアは一人、廊下を歩いていた。


 本来なら業務は終わっている時間だが、イザベルに明日の朝までに靴をすべて磨くよう命じられたのだ。

 靴墨を取りに行くため、本館の廊下を進む。


 足音を殺して歩くのは、もう習性になっていた。

 誰にも見つかりたくない。誰とも会いたくない。

 今のレイシアにとって、他者は恐怖と苦痛の対象でしかない。


 イザベルの私室の前を通りかかった時だった。


「――それで、ジャン」


 扉の向こうから、聞き覚えのある名前が聞こえた。

 レイシアの足が、ピタリと止まる。


(ジャンさん……?)


 なぜ、こんな時間に彼がイザベルの部屋にいるのか。

 本来なら、関わってはいけないと立ち去るべきだ。

 だが、「ジャン」という名前が持つ磁力に、レイシアは抗えなかった。


 彼は、唯一の味方だ。

 マリアンヌに誘惑されてしまっても、彼の本質は優しい人のはずだ。

 そんな微かな希望が、レイシアを扉へと引き寄せる。


 扉は僅かに開いていた。

 レイシアは息を潜め、その隙間から中を覗き込んだ。


 暖炉の火が揺れる部屋の中。

 椅子に座るイザベルと、その前に直立するジャンの姿が見えた。


「約束のお金です」


 イザベルが革袋をテーブルの上に置いた。ジャラリ、と重たい音が響く。中には相当な枚数の硬貨が入っているのだろう。


 ジャンはそれを見つめ、ごくりと喉を鳴らした。 そして、震える手で革袋を掴んだ。


「……ありがとうございます、奥様」

「これで、商会への利息分くらいにはなるでしょう?」

「はい……これで、家族も当面は助かります」


 ジャンは袋を胸に抱き、苦しげに頭を下げた。

 その姿を見て、レイシアの頭は真っ白になった。


(お金? なんで……?)


 ジャンが、イザベルからお金を受け取っている。

 給金ではない。それはロレーヌを通じて渡されるものだ。

 夜中に、密室で、こっそりと渡される金。それが意味することは一つしかない。


「あなたはよくやってくれました。マリアンヌも面白がっていたわ」


 イザベルが扇子を開き、口元を隠して笑う。


「これで、あの小娘も少しは身の程を知ったでしょう。屋敷の主が誰であるか、骨の髄まで理解したはずよ」

「……はい」

「それにしても、あなたも器用ですね。あれだけのことをしておいて、よく味方のふりができるものです」


 イザベルの言葉に、レイシアの心臓が早鐘を打った。


(味方のふり?  どういうこと?)


 ジャンが顔を上げ、気まずそうに視線を逸らした。


「……井戸のロープ、それから倉庫の木材……言われた通りにしただけです」


 ドクン。

 心臓が、嫌な音を立てた。


「井戸のロープは古いものに替え、切れ目を入れておきました。倉庫の木材も、いつ崩れてもおかしくないように細工してあります」

「ええ。おかげで、あの子は恐怖に震え上がったわ。傑作だったわね、あの井戸での悲鳴」


 イザベルが楽しそうに笑う。

 ジャンは合わせるように、ぎこちなく口角を上げた。


 レイシアは呼吸をするのも忘れていた。


 井戸のロープ。

 あの日、足を滑らせて死にかけた、あの事故。

 あれは事故ではなかった。


 ジャンが仕組んだ罠だったのだ。


 脳裏に、あの時の光景がフラッシュバックする。


 今にも落ちそうだった自分を、必死に助けてくれた手。

 顔面蒼白で、「心臓が止まるかと思った」と言っていた彼。

 思わず抱きついた時に感じた、激しい動悸。


 あれは、「レイシアを心配した」からではなかったのだ。


 自分が仕掛けた罠で、本当に人が死んでしまいそうになったことへの恐怖。

 「殺してしまう」という現実に直面した、殺人未遂犯の動揺。


 ただ、それだけだったのだ。


(ああ……)


 世界が反転する。地面が崩れ落ちていく。


『仲間だ』

『俺たちは似ている』

『また何かあったらすぐ言えよ』


 あの優しい言葉の数々は、すべて嘘だった。


 いや、嘘ですらない。

 罪悪感を誤魔化すための、自分自身への言い訳だったのだ。


 彼はレイシアの味方ではなかった。

 エドモンと同じ。イザベルと同じ。マリアンヌと同じ。


 レイシアを|傷つけ、弄び、壊そうとするあちらがわの人間だったのだ。


「……でも、奥様。倉庫の木材は……本当に危ないです。もし直撃したら、怪我じゃ済みません」


 ジャンがおずおずと言った。

 まだ少しだけ良心が残っているような口ぶり。けれど、その手はしっかりと金の入った袋を握りしめている。


「あら、構わないわ。どうせ代わりはいくらでもいるもの」

「は、はあ……」

「引き続き、頼みましたよ」


 もう、十分だった。

 これ以上聞いたら、おかしくなりそうだ。

 既に壊れかけていることには気づいていなかった。


 レイシアは扉から離れ、ふらふらと廊下を歩き出した。足に力が入らない。壁に寄りかかり、ずるずるとその場にうずくまる。


「おえっ……」


 強烈な吐き気が襲ってきた。

 胃の中は空っぽなのに、内臓が裏返るような嘔吐感。

 視界がぐるぐると回る。


 信じていた。頼っていた。同じような境遇だと思っていた。

 この地獄のような屋敷で、彼だけが唯一の光だった。


 その光こそが、レイシアを地獄に叩き落とした。


(馬鹿だ……わたしは……)


 マリアンヌとの情事を見た時よりも、深く、重く、決定的な絶望が胸を貫く。

 自分が信じたいと思ったこと、縋りたいと思った希望。そのすべてが間違いだった。


 レイシアの中で、ピンと張っていた最後の糸が、音もなく切れた。

 何かが静かに折れた。


 レイシアは自分の手を見た。

 そこには、まだあの包帯が巻かれている。薄汚れ、血と脂と、エドモンの香水と――ジャンの嘘が染み付いた布切れ。


 レイシアは震える指で、包帯の端を掴んだ。


 『守られている証』。

 そんなものは最初からなかった。これは、ただの惨めな拘束具だ。


 ビリッ。


 レイシアは包帯を引き裂くように解いた。何重にも巻かれた布が、パラパラと床に落ちる。

 露わになった手には、まだ赤い傷跡が残っていた。

 けれど、もう痛みは感じなかった。


 レイシアは落ちた包帯を拾うこともしなかった。

 一瞥もくれることなく、壁を支えにして立ち上がる。


 涙は出なかった。悲しみも、怒りも、通り越していた。

 ただ、空虚さだけがそこにあった。


 レイシアは、誰もいない闇の中へと歩き出した。

 もう二度と、誰も信じない。もう二度と、期待なんてしない。


 その背中は、生きている人間のものではなく、壊れた人形のように無機質だった。

次回投稿は本日 19 時頃の予定です。

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