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水底のレイシア  作者: 彼岸茸


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18 お嬢様の火遊び

本日 1 回目の投稿です。

 井戸での一件から、数日が過ぎた。

 レイシアの手には、まだ包帯が巻かれている。

 本来ならとっくに外していい頃合いなのだが、レイシアはそれを外せずにいた。


 薄汚れてしまった白い布。けれど、これはジャンが巻いてくれたものだ。

 それを見ると、あの時の彼の真剣な横顔と、温かい掌の感触が蘇る。


 この包帯は、今のレイシアにとって唯一の「守られている証」だった。


 廊下の拭き掃除をしていると、向こうから作業着姿のジャンが歩いてきた。


「よ、レイシア。手はどうだ?」

「あ、ジャンさん。おかげさまで、痛みも引きました」


 声をかけられただけで、胸の奥が温かくなる。

 レイシアは包帯を巻いた手を少し持ち上げて見せた。


「そうか。無理すんなよ。俺が言えたことじゃないが、怪我には気をつけろよ」

「はい。ありがとうございます」


 短い会話。それだけで、今日一日を頑張る活力が湧いてくる。

 ジャンは軽く手を挙げて通り過ぎていった。その後ろ姿を、レイシアは名残惜しそうに見送った。


 ふと視線を感じ、振り返る。

 廊下の曲がり角の陰から、じっと見つめる視線があることに。


 マリアンヌだ。

 レイシアたちの様子を見ていたらしい。


 彼女はレイシアと視線が合うと、目を弓なりにする。

 レイシアはなんだか嫌な予感がした。


     ◆


 その日の午後。

 レイシアはマリアンヌの私室に呼び出された。


「失礼いたします。お呼びでしょうか」


 部屋に入ると、マリアンヌは豪奢な椅子に座り、紅茶を飲んでいた。

 機嫌は良さそうだが、それが逆に不気味だ。


「ええ、入りなさいレイシア。ちょっと聞きたいことがあって」


 マリアンヌはカップをソーサーに置くと、レイシアを手招きした。


「あなた、あの雑用の男と仲が良いのね」


 唐突な言葉に、レイシアの心臓が跳ねた。

 あの雑用の男――ジャンのことだ。


「え……あの、仲が良いといいますか……」

「とぼけなくていいわよ。わたくし、見たもの。廊下で楽しそうに話していたじゃない」

「そ、それは……仕事のことで少し言葉を交わしただけで……」

「ふふ、そうかしら?」


 マリアンヌは立ち上がり、ゆっくりとレイシアに近づいてきた。

 甘い香水の匂いが漂う。


「この間もそう。お母様が頼んだ水汲みをサボって、二人で医務室にこもっていたでしょう? 仕事よりも、男との時間の方が大事なのかしら」


 意地悪な言い方だった。

 あの時は死にかけたのだ。サボっていたわけではない。


 けれど、それを否定しても信じてもらえないことは分かっている。はなからレイシアの言い分を聞く気はないだろうことも。


「そ、そのようなことは……ジャンさんは怪我をした私を助けてくれただけで……」


 必死に否定しようとするが、ジャンに抱き留められた時の熱を思い出してしまい、言葉に詰まる。

 カッと頬が熱くなるのが自分でも分かった。

 俯いて顔を隠そうとしたが、遅かった。


「……ふぅん?」


 マリアンヌが、面白がるような声を漏らした。

 彼女の指先が、レイシアの包帯に触れる。


「顔、赤いわよ?」

「っ! も、申し訳ありません!」

「あら、謝ることじゃないわ。結構、いい男じゃない。わたくし、嫌いではなくってよ」


 マリアンヌの瞳に、甘い声音とは裏腹に嗜虐的な光が灯った。

 レイシアは本能的な恐怖を感じて、一歩後ずさった。


「可愛いわね、レイシア。その純情、大事にするといいわ」


 マリアンヌは意味ありげに微笑むと、興味を失ったように手を振った。


「もういいわ。下がりなさい」

「は、はい……失礼いたします」


 レイシアは逃げるように部屋を出た。

 心臓が早鐘を打っている。


 知られてしまった。ジャンへの淡い想いを。

 何か、嫌な予感がする。マリアンヌのあの笑顔が、頭から離れない。


     ◆


 その日の夜。

 仕事を終えたレイシアが、使用人室へ戻ろうと廊下を歩いていた時だった。


(あれは……?)


 前方の階段を、誰かが上がっていくのが見えた。

 作業着姿の背中。


 ジャンだ。


 だが、おかしい。

 この時間はもう、雑用も終わっているはずだ。

 それに彼が向かっているのは、使用人区画ではなく、マリアンヌの部屋がある方角だ。


(ジャンさんが、どうしてあっちに?)


 何か壊れたのだろうか。それとも、呼び出されたのか。


 昼間のマリアンヌの言葉が脳裏をよぎる。

 嫌な予感が膨れ上がり、レイシアは吸い寄せられるようにジャンの後を追った。

 足音を忍ばせ、階段を上がる。


 長い廊下の先、マリアンヌの部屋の前でジャンが立ち止まっていた。

 彼は少し躊躇うようにあたりを見回してから、扉をノックした。


 中から返事があり、ジャンが部屋に入っていく。

 レイシアは物陰に隠れてそれを見ていた。


(どうしよう……)


 見てはいけないものを見ている気がする。

 戻るべきだ。


 けれど、足が動かない。ジャンが何を言われるのか、何をされるのか、気になって仕方がない。

 レイシアは恐る恐る、マリアンヌの部屋に近づいた。


 扉は少しだけ開いていた。まるで、誰かに「見てほしい」と言わんばかりに。


 レイシアは息を殺して、その隙間から中を覗き込んだ。

 そこには、信じられない光景が広がっていた。


「よく来てくれたわね、ジャン」

「……お嬢様。こんな時間に、何の御用でしょうか。人に見られたらまずいです」


 ジャンが困惑したように立っている。

 その正面に、マリアンヌがいた。

 彼女はいつものドレスではなく、薄いネグリジェのような室内着を纏っていた。体のラインが透けて見えるような、艶めかしい姿だ。


「いいじゃない。誰も見ていないわよ」


 マリアンヌが机越しに身を乗り出す。

 そして、ジャンの手を取った。


「えっ、お嬢様……!?」

「あなたの手、大きいのね。ゴツゴツしてて、男の人の手だわ」


 マリアンヌはジャンの手を愛おしげに撫でると、そのまま自分の頬に押し当てた。

 白い肌と、汚れた手。その対比が、背徳的な美しさを醸し出している。


 レイシアの呼吸が止まった。

 ジャンは抵抗しなかった。いや、できなかったのだろうか。

 彼は顔を赤くして、視線を泳がせている。


「や、やめてください。俺みたいな平民が触れたら、汚れます」

「ふふ、この無骨さがいいのよ」


 マリアンヌは猫のような声で囁くと、机を回り込んでジャンの懐に入り込んだ。

 そして、あろうことか彼の首に腕を回し、抱きついたのだ。


「っ!?」

「ジャン、わたくしね、退屈なの。お母様は堅苦しくて……お父様だけずるいわ。もっと刺激が欲しいの」


 甘ったるい声。

 レイシアには決して向けられることのない、蕩けるような声音。


「お嬢様、それは……困ります……」


 ジャンは両手を浮かせて、どうしていいか分からない様子だ。


 だが、突き飛ばしはしなかった。

 拒絶しなかった。


 マリアンヌの均整の取れた肢体が押し付けられているのを、ただ受け入れている。


(ジャンさん、逃げて……拒んで……!)


 レイシアは心の中で叫んだ。

 自分にとってのヒーローである彼なら、こんな理不尽な誘惑は跳ね除けてくれるはずだ。


 そう信じたかった。

 けれど、現実は残酷だった。


 マリアンヌが背伸びをする。

 そして、ジャンの頬に、チュッと音を立ててキスをした。


「……!」


 レイシアの頭が真っ白になった。

 世界が音を立てて崩れ落ちていく。


 ジャンは目を見開き、硬直している。

 満更でもないのか、それとも身分差に怯えて動けないのか。


 どちらにせよ、彼はマリアンヌを受け入れた。

 レイシアはジャンのあんな顔は見たくなかった。エドモンがレイシアに向ける表情を彷彿とさせ、彼女は(かぶり)を振った。


「ふふ、可愛い顔。ジャンも男の子ね」


 マリアンヌがクスクスと笑う。


 そして、不意に。

 彼女の視線が、扉の方へ――レイシアが覗いている隙間へと向けられた。


 目が合った。

 心臓が凍りついた。


 マリアンヌは、レイシアがいることを知っていたのだ。

 最初から、これを見せるために扉を開けておいたのだ。


 マリアンヌの唇が、三日月のような形に歪む。

 それは、絶望に突き落とされたレイシアを嘲笑う、嗜虐に満ちた微笑みだった。


『見た? あなたの惚れた男なんて、こんなものよ』


 声に出さずとも、その瞳がそう語っていた。

 一方のジャンは、扉の方など見ていない。マリアンヌの柔らかな感触と香りに翻弄され、ただ狼狽えているだけだ。


 その曖昧な態度が、何よりも鋭利な刃物となってレイシアの胸を貫いた。


(嘘だ……嘘だ……)


 レイシアは後ずさった。

 これ以上、見ていられなかった。

 涙が溢れ出し、視界を歪ませる。


 包帯を巻いた手が、治っていたはずの傷が熱を持ってズキズキと痛む。

 ついさっきまで「守られている証」だと思っていたこの包帯が、今はただの薄汚れた布切れにしか見えなかった。


 レイシアは踵を返し、音を立てないように、けれど全力でその場から逃げ出した。

 廊下を走りながら、耳を塞ぐ。


 マリアンヌの甘ったるい笑い声が、幻聴のように追いかけてくる気がした。


(ジャンさん……ジャンさん、どうして……?)


 『仲間』って言ってくれたのに。

 『似ている』って言ってくれたのに……


 胸の奥で、何かが音を立ててひび割れていく。

 それは、レイシアが必死に繋ぎ止めていた、最後の希望が壊れる音だった。

次回投稿は本日 19 時頃の予定です。

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