17 救いの手
本日 2 回目の投稿です。
レイシアは、ジャンの胸に顔を埋めたまま、しばらく動くことができなかった。
呼吸をするたびに、彼の匂い――土と鉄、そして汗の混じった匂いが鼻腔を満たす。普段なら顔をしかめるようなその匂いが、今のレイシアには世界で一番安心できる香りに思えた。
ドクン、ドクン、と彼の心臓の音が聞こえる。
それはレイシアの心臓と同じくらい、激しく脈打っていた。
(ジャンさんも、怖かったんだ……)
自分のことをあんなに心配してくれた。必死になって助けてくれた。
その事実が、凍りついたレイシアの心を溶かしていく。
「……おい。いつまでくっついてるんだ」
頭上から、困ったような、けれど拒絶の色はない声が降ってきた。
ジャンがおずおずと手を動かし、レイシアの頭に触れた。
ぎこちない手つきだった。
どう扱っていいのか分からない壊れ物に触れるように髪を撫でる。
その掌の温かさに、レイシアは目頭が熱くなるのを感じた。
「ご、ごめんなさい……!」
ハッとして体を離す。
ジャンはバツが悪そうに視線を逸らした。
「まったく……本当に、あと少しで落ちてたぞ。心臓が止まるかと思った」
「はい……本当に、ありがとうございます。ジャンさんがいなかったら、わたし……」
言葉にした瞬間、先ほど見た井戸の底の闇が脳裏に蘇った。
背筋に悪寒が走り、体が震える。
あれが魅力的に思えたなんて、まともな心理状態ではなかった。
腰が抜けてしまっているのか、立ち上がろうとしても足に力が入らない。
ジャンはそんなレイシアを見て、小さく溜息をついた。
「立てるか?」
「あ、すみません。膝が笑ってしまって……」
「仕方ないな」
ジャンはレイシアの脇に手を差し入れ、強引に立たせてくれた。
男の人の力強さを改めて感じる。エドモンに触れられた時の不快感とは違う、頼りがいのある力だ。
二人は井戸の縁に視線を落とした。
そこには、崩れた石の跡と、引きちぎれたロープが無残な姿を晒していた。
レイシアが足をかけた場所が、ごっそりとなくなっている。
「……酷い有様だな」
ジャンが低い声で呟く。
「ロープが切れてしまって……それに、石も崩してしまいました。イザベル様に報告しないと……」
レイシアの言葉に、ジャンがぴくりと肩を震わせた。
「俺が後で修理しておく。ロープも新しいのに付け替えとくよ」
「えっ? で、でも、そんな……」
「俺は雑用係だからな。こういう修繕も仕事のうちだ」
ジャンは早口でまくし立てると、千切れたロープの残骸を拾い上げ、乱暴にポケットにねじ込んだ。
(ジャンさん……わたしのこと、庇ってくれようとしてる)
胸の奥がキュンと締め付けられる。
こんなに優しくされたことなんて、この屋敷に来てから一度もなかった。
「ほら、行くぞ。手、血だらけじゃないか」
ジャンに促され、レイシアは自分の手を見た。
必死に石にしがみついたせいで、指先は裂け、掌は擦り傷だらけになっていた。血が滲んで痛々しい。
緊張感が収まったせいか、急激にズキズキとした痛みが襲ってきた。
「医務室に行くぞ。消毒しないと化膿する」
「は、はい……」
ジャンに肩を支えられ、レイシアはよろめきながら歩き出した。
隣にいるジャンの体温が、レイシアに安らぎを与えてくれた。
◆
ジャンはレイシアを医務室の椅子に座らせると、棚から消毒液と包帯を取り出した。
「手、出せ」
「はい」
レイシアがおずおずと両手を差し出す。
ジャンは手慣れた様子で、布に消毒液を染み込ませた。
「沁みるぞ」
「っ……!」
傷口に薬液が触れた瞬間、鋭い痛みが走ってレイシアは体を強張らせた。
けれど、手を引っ込めたりはしない。
ジャンがレイシアの手首をしっかりと、けれど優しく握っていてくれたからだ。
至近距離に、ジャンの顔がある。
真剣な眼差しで、レイシアの傷を見つめている。
普段は目立たない作業着姿の彼が、今は誰よりも格好良く見えた。
(……不思議)
さっきまで死ぬかもしれないと震えていたのに。
今は、心臓が別の意味でうるさいくらいに跳ねている。
痛いはずの消毒作業が、どこか甘やかな時間に感じられた。
彼の手が触れるたびに、指先から熱が伝わってくる。
自分の汚れた手を、嫌がりもせずに丁寧に処置してくれる。
ただそれだけのことが、涙が出るほど嬉しかった。
「……よし、こんなもんだろ」
最後に包帯を巻き終え、ジャンが顔を上げた。
レイシアと目が合う。
レイシアは慌てて視線を逸らそうとしたが、間に合わず、顔がカッと熱くなった。
「あ、あの……ありがとうございます。前にも膝の手当てをしてくれて……ジャンさんにはお世話になってばかりです」
「……放っておけないんだ」
ジャンは少しぶっきらぼうに言って、道具を片付け始めた。
その背中を見つめながら、レイシアは胸の前で、包帯を巻かれた両手をぎゅっと握りしめた。
怖い思いをしたけれど。
この傷のおかげで、ジャンさんに優しくしてもらえた。
(わたし、ジャンさんのこと……)
そこまで考えた時だった。
コン、コン、と軽いノックの音がして、扉が開いた。
「あら。ここにいたのね」
甘ったるい声。
マリアンヌだ。
「ま、マリアンヌ様!」
レイシアは弾かれたように立ち上がり、一瞬ふらついた。ジャンも慌てて直立不動の姿勢を取った。
マリアンヌは部屋に入ってくると、交互に二人の顔を見て、最後にレイシアの包帯を巻かれた手に視線を止めた。
「あら、怪我したの? それとも、お仕事もせずに二人で何かしていたのかしら?」
「ち、違います! 作業中に少し怪我をしてしまいまして、ジャンさんに手当てを……」
レイシアは必死に弁解した。
だが、マリアンヌの口元が、面白がるように歪んだ。
「そうなの? でも、ほら。レイシア、お父様ともとても親しいでしょう? お母様が嫉妬するくらいに」
否定したい。
エドモンから接触されて、本当に嫌な思いをしているのだ。
だというのに、今のマリアンヌの言い方だと、ジャンが勘違いするかもしれない。
だが、マリアンヌの言葉を否定しようものなら、後でどんな重労働をさせられるか。
(ジャンさん、お願い。わたしのことを信じて……)
レイシアは何も言えず、ただじっとジャンを見つめて、マリアンヌの言葉を信じないよう祈るしかできなかった。
「へぇ、ふぅん。そっか」
彼女の視線が、赤らむレイシアの頬と、居心地が悪そうにしているジャンを行き来する。
すべてを見透かしたような、粘つく視線。
「……そろそろ仕事に戻らないといけないでしょう? お母様に水の件を言わないといけないしね。まだ終わっていないみたいだし」
現実に引き戻される言葉だった。
そうだ。水汲みは終わっていないどころか、桶を井戸に落としてしまったのだ。
「す、すぐに参ります!」
「ええ、急いでね。お母様、イライラしていたわよ」
マリアンヌは「ふふっ」と含み笑いを残して、部屋を出て行った。
去り際、ジャンにだけ分かるような流し目を送っていたことに、レイシアは気づかなかった。
嵐が去った後のような静けさが戻る。
「……俺も、仕事に戻るよ」
ジャンが気まずそうに言った。
「はい。本当に、ありがとうございました。あの……本当に助かりました」
レイシアは改めて、深々と頭を下げた。
言葉では伝えきれない感謝を込めて。
ジャンは扉の手前で足を止め、一瞬だけ振り返った。
「……いいんだ。お互い助け合わないとな。また何かあったらすぐ言えよ」
彼は冗談めかして肩を竦めて、仕事に戻った。
一人残されたレイシアは、包帯を巻かれた手を胸に当てた。
『助け合わないと』
『また何かあったらすぐ言えよ』
(わたしには、まだ……心配してくれる人がいる)
それだけで、どんな辛いことでも乗り越えられる気がした。
レイシアは小さく深呼吸をすると、勇気を出して部屋を出た。
◆
しかし、その淡い希望は、数分後に粉々に打ち砕かれることになった。
イザベルの私室。
報告に訪れたレイシアを待っていたのは、冷徹な氷の視線だった。
「水汲みもまともにできないのですか?」
第一声がそれだった。
レイシアの包帯など目に入っていないかのように、イザベルは冷たく言い放った。
「申し訳ありません。井戸の足場が悪く、足を滑らせてしまい……」
「それで? 桶を落とし、井戸まで傷つけたと?」
イザベルはため息をつき、侮蔑の色を隠そうともせずにレイシアを見下ろした。
「本当に、あなたは何をやらせても駄目ですね。男をたらしこむのだけは得意みたいだし、娼婦になればよいのではないですか?」
「申し訳……ありません」
「役立たず」
吐き捨てられた言葉が胸を穿つ。
誰かの役に立つことが好きだったレイシアにとって、最も言われたくない言葉だ。
「……申し訳、ありません」
レイシアは涙をこらえ、頭を下げて部屋を出た。
さっきまでジャンからもらっていた温かさはすでに霧散していた。
包帯を巻いた手が痛む。
けれど、胸の奥にある痛みの方が強かった。
それでも、
(ジャンさんは、助けてくれた。あの人だけは、わたしを認めてくれる)
レイシアはその想いだけを支えに、再び重い足を引きずり始めた。
次回投稿は明日 正午頃の予定です。




