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水底のレイシア  作者: 彼岸茸


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2 ロシュフォール子爵邸

本日 2 回目の投稿です。

 孤児院が見えなくなり、馬車は帝都の大通りを進んでいく。

 レイシアは人生のほとんどを貧民街か孤児院で過ごしてきたので、大通りの人の多さには驚いた。


 いかに自分が狭い世界で生きてきたかを実感する。

 もっとも、ここもその一部でしかないのだろうが。

 彼女が広い世界を見ることはないだろう。ロシュフォール子爵邸で仕事に就いても、この帝都から出られるとは思えない。


 浮かない表情になっていたのだろう。エドモンが話しかけてきた。


「レイシアよ、不安か?」


 なんて答えるのが正解なのか。

 不安じゃないと言えば嘘になる。しかし、不安だと認めてしまうのは、主になるエドモンの不興を買わないだろうか。


「正直に答えても怒ったりはせぬよ」


 エドモンは穏やかにそう言った。


「環境が変わるのだ。不安になるな、という方が無理な話だ」


 加えて、そう言ってくれた。だから、レイシアは素直に頷くことができた。


「……その、やっぱり不安です。孤児院に入ってからは出たこともありませんので……」

「その割にはしっかりしておる」

「院長先生が教えてくれました」


 孤児院では最低限の言葉遣いや礼儀は教わった。もちろん、貴族の前に出られるような上等なものではない。

 あくまで、孤児院を出て生活する上での最低限だ。


 だからレイシアはエドモンに対し、今の言葉遣いで大丈夫なのか気になった。

 しかし、エドモンは特に気にする様子はない。そのことにほっと胸を撫で下ろす。


 窓の外の景色はどんどん流れていく。

 立派な建物が見えた。門には剣を携えた者が立っている。


「あれは宮殿だ。皇帝陛下がいらっしゃる場所だな」


 レイシアにはまったく縁がない人物だ。視界に入ることさえ不敬罪に問われるかもしれない。

 実際にはそのようなことはないが、レイシアにとってはそれほど恐れ多い人物だ。


「あの剣を持っている人は、もしかして騎士様ですか?」

「そうだ。よく知っているな」

「貴族様の付き添いで、孤児院に来ることがありましたので」


 厳密には護衛だが、付き添いとの違いはレイシアには分からない。


 馬車は宮殿の前を通り過ぎる。

 その後も、教会や探索者ギルドなど街の要所について、エドモンは丁寧に教えてくれた。


 親切心もあるだろうが、街のランドマークを覚えておくことがメリットになると考えたのかもしれない。

 買い出しに行くときに迷いにくくなるだろう。


 しばらくすると、街の中心部から少し離れた場所に入っていく。賑わいが遠ざかり、静かな一角に差し掛かる。


 やがて馬車が大きな屋敷の前で停車した。


「さあ、着いたぞ」


 エドモンが先に下車し、レイシアの手を取ってくれた。

 本来であれば、身分の低い者が先に降りる。さすがに孤児院ではそんなことは教わらないので、レイシアは知らない。


 妙にレイシアの手を撫でるように触った気がしたが、おそらく気のせいだ。


「ここが私の屋敷だ」


 少し古そうな印象は受けるが、ぼろぼろだった孤児院に比べれば天と地ほどの差だ。

 立派な門をくぐると、きれいに手入れされた背の低い庭木がいくつも植えられている。

 玄関までの通路は石畳だ。


「うわぁ」


 思わず感嘆の声が漏れた。そんなレイシアに、エドモンも笑みを深めた。


 屋敷の脇に小さく見えているのは井戸だろうか。

 井戸はレイシアも知っている。孤児院での水汲みは年長者の仕事だったので、レイシアも触ったことがある。


 きょろきょろと周囲を見渡すレイシアは、田舎から都会に出てきたお上りさんのようだ。孤児院からほとんど出たことがないので、似たようなものだ。

 庭園だけで、孤児院では見られないものばかりだ。


 吹いてくる風もなんとなく心地よい気がする。


(ここで働くのね……頑張らなきゃ)


 緊張はある。しかし、それよりも誰かの役に立てるのなら、それが嬉しい。


「おいで、レイシア」


 目に映るものすべてが珍しくて足が止まるレイシアを、エドモンが苦笑して促す。

 玄関の前には何人もの人が待っていた。エドモンが帰宅するのに合わせて集まったのだろう。


「出迎えご苦労」


 エドモンが彼らに労いの言葉をかける。


「あなた、それが新しいメイドですか? 本当に孤児院から買ってきたのですか?」


 三十代前半に見える女性がエドモンに声をかけた。なんというか、少し怖い雰囲気がある。


「そうだ。今日付けでロシュフォール家のメイドになるレイシアだ」


 エドモンがちらりとレイシアに視線を送る。挨拶をしろ、ということらしい。


「は、初めまして。れ、レイシアと言います。えと、よろしくお願いします」


 口の中がカラカラになって、うまく喋れなかった。


「……小汚い格好ですこと。それに臭いも……不快ですわね」


 そう言うと、女性は踵を返し、屋敷の中に入っていった。


(嫌われたのかな……)


 不安になるレイシアの顔を、年の近そうな少女が覗き込んだ。


「ふぅん、レイシアね。覚えたわ」


 なんだか背筋が凍るような嫌な目つきだとレイシアは思った。口が裂けてもそんなことは言えないが。

 少女は怪しく笑うと、さっきの女性の後を追って屋敷に入った。


「そう怖がらなくてもいい。妻のイザベルと一人娘のマリアンヌだ」


(イザベル様にマリアンヌ様……)


 絶対に忘れないように、心の中で何度も反芻する。

 ここが新しい生活の場になるのだ。最初の印象は悪かったみたいなので、挽回しないといけない。


 その後、メイドを紹介され、レイシアはメイド長に預けられることになった。

 メイド長はロレーヌと自己紹介した。


「頑張るんだぞ」


 エドモンはそう言うと、レイシアの肩を軽く叩いて屋敷に戻っていった。

 もう一人のメイドも仕事に戻るようだ。

 残ったロレーヌがレイシアに声をかける。


「レイシア。ついてきなさい」


 レイシアは頷いて、彼女についていく。

 屋敷の中もきれいなものだった。掃除が行き届いており、埃が見当たらない。

 壺や絵画が飾られており、あちこちに目移りする。


 やがて連れていかれたのは使用人の共同部屋だった。作業台があり、壁には衣類をかけるためのロープが張られている。


「あなたはそこを使ってください」


 ロレーヌが指したところに簡易ベッドと私物箱が置いてあった。

 元より荷物は少ないので、十分なスペースだ。孤児院の時よりも広くなった。


「奥様のおっしゃったとおり、少々臭いますね」


 ロレーヌはじろりとレイシアの身体を頭のてっぺんから爪先までざっと見てから、付け加えた。


「仕事着を持って来ます。その間に、隣の部屋に水を用意しているので、清拭をしてなさい」


 臭いと言われて少しショックを受けた。

 レイシアは言われた通り、隣の部屋に行く。水だけでなく、タオルも用意されていた。こうなると予想されていたのだろう。


 孤児院でも清拭は時々していたが、世の中には風呂というものもあるらしい。

 湯の中に身体を浸けるらしい。想像しただけで気持ちよさそうだ。


 そんなことを考えながら、清拭をしていると、ロレーヌが戻ってきた。


「終わったら、これに着替えなさい」


 濃紺のドレスに白いエプロンで、装飾はほとんどない。

 袖を通してみると、サイズはぴったりだった。布地も孤児院の服よりも肌触りが滑らかだ。

 こんな服は着たことがない。まるで自分ではないみたいだ。


「少しはましになりましたね。今日は屋敷の案内をします。分からないことがあったら、遠慮なく訊きなさい」

「は、はい」


 屋敷の内部では当主一家の私室、サロン、食堂、客間、浴室など一通り案内された。

 だが、それらの場所にレイシアが入ることは当面ないようだ。


 レイシアの仕事としては水汲み、洗濯物を干したり取り込んだり、掃き掃除、ゴミ捨てなど多岐にわたる。

 なので、メインとなるのは掃除や洗濯の道具置き場の場所や、し尿などの汚物を一時的に集める場所、そして井戸だ。


「あの……あそこの蓋がしてある井戸は使ってないのでしょうか?」


 教えられた井戸とは別の井戸だ。

 ロレーヌは眉をひそめて答えた。


「……あそこには近づいてはなりません。よいですね?」

「わ、分かりました」


 そんなやり取りがありつつ、日もすっかり沈んでいた。

 夕食として、当主一家から下げ渡された食事は美味しかった。孤児院のものとは別次元だと感じた。


(まずは仕事を覚えなきゃ)


 ベッドに横になったレイシアは眠るまでの間、屋敷と庭園の間取りを思い出していた。

次回投稿は本日 20 時頃の予定です。

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