16 井戸の縁
本日 1 回目の投稿です。
その日の朝、レイシアは自分の体が自分のものじゃないような感覚で目を覚ました。
ベッドから起き上がった瞬間、世界がぐらりと傾く。
激しいめまいに襲われ、咄嗟に壁に手をついた。
「う……っ」
吐き気がこみ上げる。額にはじっとりとした嫌な汗が滲んでいた。
熱があるのかもしれない。あるいは、ただの過労か。
どちらにせよ、休むという選択肢はない。
冷たい水で顔を洗い、無理やり意識を覚醒させる。
水面に映る自分の顔は、青白く血の気が感じられない。目の下の隈は濃く、頬はこけている。
それでも、口角を持ち上げて笑顔を作る練習をする。
イザベルに苦しげな顔を見せれば、何を言われるか分からない。
ふらつく足取りで廊下に出る。
体は重いが、染みついた習慣だけで動くことができた。
中庭を横切ろうとした時だった。
「レイシア」
冷たい声に呼び止められた。
イザベルだ。
朝の散歩だろうか、厚手のショールを羽織り、庭園のバラを眺めている。
「おはようございます、イザベル様」
レイシアは深く頭を下げる。
頭を下げると視界がチカチカと明滅した。倒れないように足を踏ん張る。
「水汲みの回数を増やしなさい」
イザベルはバラから視線を外さず、淡々と言った。
「え……?」
「厨房の水瓶と、洗濯用の桶、それから風呂場。すべて満杯にしておくように」
(え……? なんで?)
今日は特別な日でも、来客がある日でもない。そうしたイベントがある場合、ロレーヌがちゃんと情報共有する。
ようやくイザベルがこちらを向いた。
だが、レイシアの青白い顔色にも、額に浮かぶ脂汗にも、彼女は一切興味を示さなかった。
「分かりましたね?」
「……承知いたしました」
「でしたら、突っ立ってないで、さっさと行きなさい」
イザベルは興味を失ったように、またバラに視線を戻した。
レイシアは厨房に行くと、ジュリーが朝食の片付けをしていた。
「どうした、レイシアちゃん?」
ジュリーが手を動かしながら、尋ねる。やはり忙しいのは自分だけではないとレイシアは思った。
「イザベル様に水汲みを頼まれまして……」
「んー、何か水を使うようなこと、あったっけ?」
「……分かりません。でも、やれって言われたから……」
レイシアは大きな木桶を手にした。
空の状態でもずしりと重い。これを水で満たせば、今のレイシアの細腕には拷問のような重さになる。
だが、やるしかない。
「あ、レイシアちゃん? 本当に必要か、ロレーヌさんに聞くから――」
ジュリーが何か言っているが、イザベルの命令は絶対だ。レイシアはジュリーに頭を下げて、井戸に向かった。
石造りの井戸は覗き込むと、底が見えないほど深い。
普段なら何とも思わないその井戸が、今日はやけに不気味に見えた。
どこか吸い込まれそうな雰囲気がある。
(気のせい……早く終わらせなきゃ)
レイシアは釣瓶を下ろし、水を汲み上げる作業を始めた。
一度、二度、三度と同じ作業を繰り返す。
滑車はジャンが定期的に錆を落としているようで、カラカラと小気味よい音を立てた。抵抗はほとんどない。
(ジャンさんのおかげで水汲みは楽)
それでも回数を重ねるたびに、腕が痛くなり、呼吸も荒くなる。
「はぁ……はぁ……っ」
桶に入った水は重い。
こぼしたら、またやり直しだ。
慎重に厨房まで運ぶ。ジュリーの姿は消えていた。
肩で息をしながら、洗濯場に水を運んだ。
最後は風呂場に水を持っていかないといけない。
足がもつれそうになるのを、必死に堪える。
(これくらいこなせないと……また叱られる……)
それは呪いのようだった。
(頑張らなきゃ……わたしは、まだ……)
自分を叱咤する。
そうしなければ、その場に崩れ落ちてしまいそうだ。
そして、運命の瞬間が訪れた。
最後の一杯。
これを運べば終わる。
そう思って、たっぷりと水を汲んだ桶を引き上げようとした時だった。
ズリッ――
足元で、嫌な感触がした。
踏ん張っていた敷石が、まるで油でも塗ってあったかのように滑ったのだ。
「あっ――」
体勢が崩れる。
咄嗟にロープを強く握り直して耐えようとした。
ブツンッ!
乾いた音がして、命綱だったロープが千切れた。
支えを失ったレイシアの体が前のめりにつんのめる。
目の前には、黒々と口を開けた井戸。
(落ちる……!)
理解した時には、もう体は宙に浮いていた。
「いやっ!」
レイシアは必死に手を伸ばした。
指先が、井戸の縁の石にかかる。衝撃と共に、体がガクリと止まった。
井戸の内壁に足をかけてよじ登ろうとしたが、
ボロボロ……
老朽化していたのか、脆くも崩れ始めたのだ。
土と石の破片が、深い底へと吸い込まれていく。やや間があって、ぽちゃんという音が反響した。
「っ……う、うぅ……!」
体が井戸の中にぶら下がる形になった。
石にしがみつく両腕に、全体重がかかる。激痛が走り、肩が外れそうだ。
(下を見ちゃ……ダメ!)
そう思うのに、視線は勝手に下を向いてしまう。
そこには、底なしの闇があった。
陽の光さえ届かない。
湿った冷気が吹き上がってきて、レイシアの汗ばんだ頬をふわりと撫でた。それが妙に心地良かった。
井戸の底は恐ろしい。
だけど、どこか魅力的だ。
ここで手を離せば、もう働かなくてよくなるかもしれない。
イザベルに怒られることも、エドモンに触られることも、マリアンヌにきつく無意味な仕事をさせられることもない。
(ああ……)
レイシアの瞳から、光が消えかける。
重力に身を委ねるだけで、すべてが終わる。
それはとても、甘美な誘惑だった。
指の力が、ふっと抜けかけた。
「――レイシア!」
突然、世界に色が戻った。
名前を呼ばれた。
必死な、悲鳴のような、愛しい人の声。
(ジャン、さん……?)
その声が、死への誘惑を断ち切った。
まだ、会いたい。
まだ、話したい。
まだ、自分を心配してくれる人がいる。
「……っ!!」
レイシアは歯を食いしばった。
力が抜けかけていた指に、渾身の力を込める。
「ん、ぐぅ……!」
落ちてたまるか。
ジャンさんが呼んでいる。
彼が来てくれるまで、一秒でも長く――!
次の瞬間。
ガシッ!
強い衝撃が腕を襲った。
誰かの手が、レイシアの手首を力任せに掴んだのだ。痛いほどに強く、熱い手。
「間に合った! 放すなよ!」
ジャンの声だ。
直後、強引な力で体が引き上げられる。
ゴトリ。
縁に乗り上げていた桶が井戸の中に落ち、遅れて水音が響いた。自分が落ちる代わりの音だ。
世界が反転し、レイシアの体は硬い土の上に転がり込んだ。
背中に地面の感触がある。
空が見える。
空気が美味しい。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ」
レイシアは酸素を求めて、荒い呼吸を繰り返した。
心臓が早鐘を打ち、全身の震えが止まらない。
自分が今、死の淵から戻ってきたことが、遅れて理解できた。
視線を上げる。
そこには、レイシアの腕をまだ掴んだまま、肩で息をするジャンの姿があった。
「大丈夫か……!? おい、レイシア!」
彼の顔は真っ青だった。
瞳孔が開き、唇はわなないている。額からは脂汗が流れ落ちていた。
レイシアは思った。
(ああ、この人はこんなにもわたしを心配してくれる……こんなわたしでも……気にかけてくれる)
いつだって、レイシアが本当に辛いときに、声をかけてくれるのはジャンだ。
「……ジャン、さん……」
掠れた声で名前を呼ぶと、涙が溢れてきた。
恐怖による涙と、助けてくれた彼への感謝の涙。
こうして、ジャンの名前をまだ呼ぶことができる。
レイシアは思わずジャンに抱きついた。冷えていた体に、ジャンの高い体温が気持ち良い。
彼の温もりを感じ、生の実感を噛み締めるのだった。
次回投稿は本日 19 時頃の予定です。




