15 弱さの告白
本日 2 回目の投稿です。
レイシアが買いに行かされた皿を割ってしまった事件から、数週間が経った。
頭痛やめまいは、もはや慢性的なものになっていた。
睡眠時間は短い。疲れ果ててベッドに倒れ込んでも、浅い夢と現実の境目を彷徨うだけで、深く眠った感覚がない。夜中に自分のうめき声で目を覚ますことも一度や二度ではなかった。
唯一、ジャンと話せた日だけは、少しだけ眠りの質が良い気がする。
だからレイシアは、無意識に彼を探してしまうようになった。
庭園の裏手にある倉庫や、屋敷内の道具置き場。掃除のついでを装って、彼がいそうな場所に足を向ける。
彼を見つけたら心が躍り、いなければ気分は沈む。
そんな限界に近い状態でも、レイシアは通常業務を一応こなしていた。
ロレーヌは「よくやっていますね」と褒めてくれるし、ジュリーは「無理すんじゃないよ」と励ましてくれる。
だが、イザベルは違う。
彼女は、レイシアが完璧に仕事をこなしていても、些末な埃や歩く音の大きさ、果ては表情の作り方まで大仰に取り上げて叱責する。
叩かれることは、もはや日常茶飯事になっていた。
最初は痛みと恐怖に震えていた。
けれど、最近は少し違う。
口答えせず、ただ「はい」「申し訳ありません」と繰り返せば、叩かれる回数が減ることに気づいたのだ。
叩かれているのは自分ではない「誰か」だと思い込む。そうすれば、痛みは遠い出来事のように感じられる。
マリアンヌはそんなレイシアの様子を見て、何が楽しいのか、いつもニコニコと笑っている。
そして、「気分転換にどうかしら?」と、急ぎではない用事を言いつけてくる。
意味のない労働だと分かっていても、レイシアは従う。何も考えずに行動に移した方が、時間が過ぎるのが早いからだ。
そして、エドモン。
彼はまるでレイシアを待ち伏せしているかのように、廊下の曲がり角や、人のいない部屋の前で遭遇する。
「元気かね」と声をかけながら、自然な動きで肩や腰に触れてくる。
そのたびに体は石のように強張る。鳥肌が立つ。
けれど、心はあまり動かなくなった気がする。
嫌なものは嫌だ。吐き気がするほど気持ち悪い。
だが、そう思ったところで何も変わらない。
それなら、無心になった方がいい。
それが人として壊れていることだとしても、この屋敷で生き延びるには、そうするしかなかった。
◆
今日は珍しく、ロシュフォール家の全員が朝から外出していた。
懇意にしている貴族が主催する社交会だったか。夜まで戻らないという。
屋敷の中は、耳が痛くなるほど静かだった。
怒鳴り声も、嘲笑も、いやらしい足音もしない。
ロレーヌからは「ご主人様が不在なので、少し休んでもいいですよ」と言われた。
顔色の悪いレイシアを気遣ってくれたのだろう。
しかし、レイシアは休まなかった。
もし予定より早くイザベルたちが帰ってきたら?
その時にレイシアが休んでいたら、どんな目に遭わされるか。
想像するだけで背筋が凍る。
染みついた恐怖は、レイシアから「休息」という概念すら奪っていた。
裏庭で洗濯物を取り込んでいると、ちょうどいつも探していた姿が通りかかった。
(あ……)
ジャンだ。
彼は工具箱を手に、屋敷の裏手から歩いてくるところだった。どこかの修理をしていたのかもしれない。
「よ、レイシア」
彼が気づいて、片手を上げる。
ただそれだけの動作なのに、レイシアの世界に色が戻った気がした。
「ジャンさん、こんにちは」
自分でも声が弾むのが分かる。
強張っていた頬が緩み、自然な笑みがこぼれる。この屋敷で、唯一心から笑える瞬間だ。
「この前は大変だったな。傷のほうはいいのか?」
ジャンがレイシアの手にちらりと目をやる。
「はい。もうすっかり治りました」
「それなら良かった。でも本当に辛いときはちゃんと誰かに相談するんだぞ」
心配そうにレイシアを見るジャン。
そういえば、レイシアは心配そうな顔をしているジャンしか見たことがない。
会うたびに、彼はレイシアの身を案じている。
そんなに自分は酷い顔をしているのだろうか。
自分ではまだ頑張れると思っているのだが。
「ふふ、分かってます。ジュリーさんにも同じことを言われてますから」
レイシアは努めて明るく振る舞った。
心配をかけたくない。彼には元気なところを見せたい。
「……分かってるならいいんだ。でもさ」
ジャンが一歩近づき、レイシアの顔を覗き込んだ。
「それならなんで、泣いてるんだ?」
「え……?」
指摘されて、初めて気づいた。
視界が滲んでいることに。
頬を熱い雫が伝っていることに。
「あれ……? なんで……?」
拭っても拭っても、涙が溢れてくる。
張り詰めていた糸が、ジャンの「優しさ」に触れた瞬間に切れてしまったのだ。
「あの、ごめんなさい……ごめんなさい……」
自分でもどうしていいか分からず、つい謝ってしまう。
「レイシアが謝るようなことなんて、何もしてないだろ」
困ったような、それでいて優しい声音だ。
「でも、いつもイザベル様に怒られてますから…………私が悪いんです、私がだらしないから……」
「お前は悪くないよ。あいつらが……いや」
ジャンが言葉を飲み込む。
その優しさに触れているうちに、レイシアの口から、抑え込んでいた本音が漏れ出した。
「なんで……なんでいつも怒られるんですかね」
嗚咽混じりの声が漏れる。
「ちゃんとやってるのに、イザベル様は毎日、毎日……叩くんです。蹴られることだってあります」
一度口に出すと、もう止まらなかった。
黒い感情が溢れ出す。
「それにマリアンヌ様は……わたしが嫌いなんでしょうか。意味のないことを何度もさせて、わたしが困ると笑うんです」
優雅な笑顔の下にある、底知れない悪意。それが怖い。
「エドモン様だって……なんで……わたしの体を……嫌、嫌なんです。触られるのが、気持ち悪いんです。でも、何も言えないんです……」
思い出しただけで、怖気が走る。
ねっとりとした手の感触が蘇り、レイシアは自分の腕を抱いて震えた。
心を動かさないようにしてきた。
無心になろうとしてきた。
だが、それはただの現実逃避だった。
我慢して耐えていただけだ。多大なストレスと恐怖は、確実にレイシアの心を摩耗させていたのだ。
「でも……でも、わたしには他に行く場所なんてないから……」
最後に口をついて出たのは、絶望的な諦念だった。
孤児院には戻れない。屋敷を飛び出しても、帝都で野垂れ死ぬだけだ。
行ける場所がない以上、レイシアはロシュフォール家で何があっても耐えていくしかない。
そこまで一気に吐き出してから、レイシアはハッと我に返った。
顔から血の気が引く。
(わたし、何を……?)
こんなことをジャンに言うべきことじゃない。
ただの雑用係である彼に、雇い主の悪口を聞かせてしまった。これでは彼を困らせるだけだ。
もし彼が誰かに話せば、レイシアの立場はなくなる。
いや、ジャンはそんな人じゃない。でも、彼に重荷を背負わせてしまった。
「ご、ごめんなさい! 忘れてください、今の……」
慌てて涙を拭い、取り繕おうとするレイシア。
ジャンは静かにレイシアを見ていたが、やがて視線を落とし、重い口調で言った。
「……俺も似たようなものだ」
レイシアは顔を上げ、ジャンの横顔を見つめる。
「俺の実家は借金を抱えててさ。それを返すためにロシュフォール家の雑用をしてるんだ。給金のほとんどは借金の返済に充てられてる」
ジャンにもそのような事情があったとは思わなかった。彼も好きでここにいるわけではなかった。
レイシアだけが辛いわけではないことが分かった。
なんともいえない共感を感じた。
「だから辞めたくても辞められないんだ」
ジャンが苦虫を噛み潰したような顔をする。
事情は違えど、似たような立場なのだとレイシアは思った。
「俺たちは似てるな」
ジャンのその言葉が、レイシアの胸に深く染み込んだ。
同じ苦しみを共有できる人が、すぐそばにいた。
ふと、甘美な空想が頭をよぎる。
(もしも……もしも、ジャンさんがわたしを連れて逃げてくれるなら……)
そこまで考えて、レイシアは小さく首を振った。
(ううん……そんなことをしたらジャンさんの家族が困る。それにわたしなんて……)
こんなに優しいジャンが連れ出す価値などない。
だから、何も言わなかった。
時々こうしてジャンと話せればそれでいい。それ以上を望むのは分不相応だ。
(辛いのはわたしだけじゃない)
ジャンは泣き言など言わない。
そんな彼が実家のために頑張っているのだ。
そう考えると、レイシアももう少し頑張れる気がした。
次回投稿は明日 正午頃の予定です。




