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水底のレイシア  作者: 彼岸茸


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14 だらしなさの罪

本日 1 回目の投稿です。

 ジリジリと肌を焼く日差しの中、レイシアはジャンの横を歩いていた。

 足取りは重い。地面がふわふわとして、頼りない。


 けれど、隣にジャンがいるという事実だけで、レイシアの胸は温かくなった。


「おい、レイシア。やっぱり顔色が悪いぞ。本当に歩けるのか?」


 ジャンが心配そうに覗き込んでくる。

 その瞳に映る自分の顔は、きっと酷いものなのだろう。


 けれど、ここで「歩けない」と言ってしまえば、彼に迷惑をかけることになる。これ以上、彼の手を煩わせるわけにはいかない。


「平気です。少し休んだら、めまいも治まりましたから」


 レイシアは精一杯の強がりを口にして、笑ってみせた。

 頬の筋肉がうまく動かない感覚があったが、気合で口角を持ち上げる。


「……そうか。ならいいんだけど」


 ジャンはそれ以上、踏み込んでこなかった。

 彼にも仕事がある。特定のメイドに肩入れして、自分の立場が悪くなることを恐れているのかもしれない。あるいは、単にレイシアの言葉を信じてくれただけか。


 どちらにせよ、彼の優しさは本物だ。


(ジャンさんと話せた……)


 手には、中身が漏れてベタベタになった籠がある。中には割れた皿と傷薬の小瓶。

 絶望的な状況には変わりない。


 だが、今のレイシアには希望があった。


(これでまた頑張れる。早く屋敷に戻って、イザベル様たちに謝らないと。ちゃんと説明したら、きっと許してもらえる)


 自分が頑張れば、きっと分かってもらえる。

 そんな淡い期待を胸に、レイシアは屋敷への道を急いだ。


     ◆


 屋敷の勝手口に到着すると、ジャンがレイシアを呼び止めた。


「ちょっと待ってろ」


 彼は井戸から水を汲み、ハンカチを濡らして戻ってきた。


「手、擦りむいてるだろ」


 ジャンはレイシアの手を取り、優しく泥と乾いた血を拭ってくれた。

 冷たい水と、粗野だが温かい彼の手の感触。

 ズキズキと痛む傷口さえ、今は愛おしく感じる。


「ありがとうございます、ジャンさん」

「いいって……あー、その、なんだ」


 ジャンが言い淀むように視線を逸らした、その時だった。


「レイシア! 戻っているなら、早く来なさい!」


 鋭い声が飛んできた。

 イザベルだ。


 声を聞いた瞬間、条件反射でレイシアの背筋が凍り付いた。心臓が嫌な音を立てて跳ね上がり、指先が震えだす。


「は、はい! すぐに行きます!」


 レイシアは震えを隠すように、顔に微笑を貼り付けた。

 その不自然な笑みを見たジャンが、何かを言いかけた。


「あ、おい、レイシア。俺も――」


 一緒に説明してくれようとしたのかもしれない。

 だが、彼はすぐに口を閉ざした。


 屋敷の女主人に逆らうことのリスクを天秤にかけたのだろう。彼は気まずそうに目を伏せ、一歩下がった。


(いいの。ジャンさんに迷惑はかけられない)


 レイシアは彼に一礼すると、割れた皿が入った籠を抱え、イザベルの待つサロンへと向かった。

 サロンには、イザベルが優雅に長椅子に腰掛けていた。


 その足元に、レイシアは籠を置いた。

 カチャリ、と割れた陶器が触れ合う音が、処刑の合図のように響く。


「……それで?」


 イザベルは籠の中身を一瞥し、冷ややかに言った。


「申し訳ありません。帰り道で……転んでしまいまして……」

「転んだ?」

「は、はい。お皿を数枚、割ってしまいました。それと、薬の瓶も……」


 イザベルは無言で籠から割れた皿の破片をつまみ上げた。

 鋭利な断面が、シャンデリアの光を反射して光る。


「これは誰のお金で買ったと思っているのかしら?」


 温度のない声だった。


「も、申し訳ありません。あの、少し目眩がして――」

「言い訳ですか?」


 事情を説明しようとした言葉は遮られた。


「自分の体調管理もできないのですか? 呆れましたね。これだから育ちの悪い孤児は困るのです」

「っ……」

「だらしない」


 その一言が、鋭い棘となってレイシアの胸に突き刺さる。


「あなたは貴族の家で働く自覚があるのですか? 髪もボサボサ、服も泥だらけ。そんな格好で街を歩いて、ロシュフォール家の品位を落とすつもり?」

「そ、そんなつもりは……」

「口答えしない!」


 乾いた音が響いた。

 レイシアの頬が弾かれる。熱と痛みが広がる。


「男に媚びを売ることだけは上手なのに、仕事はからっきしだなんて。本当に救いようがないですね」


 イザベルの冷ややかな視線が、突き刺さる。


(違う、媚びなんて……)


 心の中で叫んでも、口から出る言葉は一つだけだ。


「……申し訳、ありません」


 レイシアは深く頭を下げた。

 何度も、何度も。

 床の模様を見つめながら、謝罪を繰り返す。


 確かに、疲労は溜まっていたが、


(もっと体力があれば。倒れるまで無理をしなければ、お皿を割ることもなかったのに)


 レイシアはそう考えた。


「もういいわ。顔も見たくありません。下がりなさい」


 イザベルは興味を失ったように手を振った。

 レイシアは這うようにしてサロンを出た。


 廊下に出ても、足取りは覚束ない。

 頭痛がする。世界が回っているようだ。


 それでも、まだ仕事は残っている。割れた皿の片付け、掃除、夕食の片付け、洗濯。

 休むことなど許されない。


「おや、レイシアじゃないか」


 ふいに、前方から声がかかった。

 エドモンだ。


「あ……ご、ご主人様……」


 レイシアは慌てて壁際に寄り、頭を下げる。

 先日の書斎での出来事がフラッシュバックし、胃のあたりが重くなる。


「顔色が悪いな。大丈夫かね?」


 エドモンは心配そうに眉を寄せ、レイシアに近づいてきた。

 逃げたい。

 だが、主人の前で背を向けるわけにはいかない。


「は、はい。少し疲れているだけです……」

「ふむ。無理はいけないよ。ほら、そこに座りなさい」


 エドモンは廊下に置かれた装飾用の椅子を指さした。

 断ることもできず、レイシアは浅く腰掛けた。

 すると、エドモンがその隣に立ち、レイシアの肩に手を置いた。


「怪我をしたそうじゃないか」

「たいしたことは、ありません……」

「そうか? どれ、見せてみなさい」


 エドモンはレイシアの手を取った。

 ジャンに拭いてもらった手を、エドモンの湿った手が撫で回す。

 ぞわり、と鳥肌が立った。


 同じ「手当て」のはずなのに、ジャンとはまるで違う。ねっとりとした不快感が皮膚を這う。


「可哀想に。イザベルに酷いことを言われたのだろう?」


 エドモンは同情するような声音で言いながら、手を滑らせた。

 手首から腕へ。そして、スカートの上から太ももへと。


「ひっ」


 レイシアの体が跳ねた。

 拒絶しようと身を捩るが、エドモンはさらに強く肩を押さえつけた。


「じっとしていなさい。痛いのだろう? 撫でてやれば良くなる」


 それは幼子をあやすような言葉だったが、目の奥には昏い欲望が渦巻いていた。

 エドモンの手が、スカートの生地越しに太ももを撫でる。


 気持ち悪い。

 吐き気が込み上げてくる。


(我慢しなきゃ……過ぎ去るのを待つだけ……)


 レイシアは唇を噛み締めて耐えた。

 エドモンの手は、やがてレイシアの顔へと伸びた。

 イザベルにぶたれて赤く腫れた頬を、指の腹で優しく、しかし執拗に撫でる。


 気持ち悪くて、反射的に身を固くした。


「痛むのか? かわいそうに」


 傍から見れば、一線を越えている。

 だが、レイシアは感覚がおかしくなっている。


(これくらいなら大丈夫……)


「……おっと、いけない。来客の時間だったな」


 不意に、エドモンが手を離し、残念そうにレイシアを見る。


「続きはまた今度だ。大事にするんだよ、レイシア」


 エドモンは名残惜しそうにレイシアの髪を一撫でしてから、去っていった。

 廊下に一人残されたレイシアは、深く息を吐き出した。


(助かった……)


 体中が汚されたような気がした。

 けれど、仕事は待ってくれない。

 レイシアは震える足に力を込め、立ち上がった。


     ◆


 夜。

 ようやくすべての業務を終え、レイシアは使用人室に戻った。

 夕食は喉を通らず、パンを少しかじっただけだ。


 狭いベッドに倒れ込むように横になる。

 体は鉛のように重く、頭痛はガンガンと警鐘を鳴らし続けている。

 天井がぐるぐると回り、目を閉じても眩暈が収まらない。


 今日は最悪の一日だった。

 心も体もボロボロだ。


 けれど。


(ジャンさん……)


 暗闇の中で、彼のことだけを思い出す。

 汚れた手を取ってくれた時の温かさ。

 心配してくれた声。


 それだけで、心が軽くなる。

 レイシアの口元に、今日初めて、作り物ではない微かな笑みが浮かんだ。


(きっと、明日は今日より良い日になる)


 根拠などどこにもない。


「わたしはまだ、頑張れる」


 レイシアは小さく呟き、泥のような眠りに落ちていった。

次回投稿は本日 19 時頃の予定です。

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