表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
水底のレイシア  作者: 彼岸茸


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

16/31

13 倒れた道端

本日 2 回目の投稿です。

 休日も働かされ、その後も連日、朝から晩まで仕事をする。

 その間に当主一家からの干渉があり、心身の疲労は募るばかりだ。


 朝、使用人室のベッドから体を起こすだけで、全身の関節が軋む。鉛のように重い手足を無理やり動かし、冷たい水で顔を洗う。

 鏡に映る自分の顔色は青白く、目の下の隈は化粧でも隠しきれない。


 正直に言って休みたい。

 だが、ロレーヌもジュリーも忙しい。二人では仕事が回らないから、レイシアは買われたのだ。


 そんな二人を前にして「休ませてほしい」とは言えなかった。

 彼女たちもまた、ギリギリの状態で働いているのだから。


「本当に大丈夫かよ……?」


 朝食のスープを飲み下すのに苦労していると、ジュリーが心配そうに声をかけてきた。


「わたしは元気ですよ。少し寝不足なだけです」

「……辛いときは辛いって言っていいんだ。あんた、顔色最悪だよ」

「……本当に大丈夫です。これくらい、平気ですから」


 レイシアは笑ってみせた。ジュリーの痛ましそうな表情を見る限り、うまく笑えていなかったのかもしれない。


 朝食もそこそこに庭園の掃除に向かう。

 最近は肌寒い日が続いていたのに、今日は天気が良く、暑くなりそうだ。

 頭痛と倦怠感を我慢して、手を動かす。


「レイシア! 来なさい!」

「ひっ」


 突然のイザベルの怒声に体が萎縮する。

 心臓が跳ね、手から力が抜けた。箒を石畳に落としてしまい、カランと乾いた音が響く。


「も、申し訳ありません」


 すぐに箒を拾い、イザベルの元に向かう。

 また殴られるのだろうか。数日前に切れたときの血の味を思い出す。


 笑顔はうまく作れているだろうか。恐怖で顔の筋肉が痙攣している気がする。


 イザベルの後ろにはマリアンヌもいた。

 怒りの形相を見せる母親と、ニヤニヤと笑う娘は対照的だ。

 どちらもレイシアの精神を削り取るという意味では同じだが。


「傷薬と皿を買ってきなさい」


 イザベルが革袋を地面に投げる。

 チャリ、と音がして袋が転がり、硬貨が飛び出て地面に散らばる。あたかも手渡す際、レイシアに少しでも触れるのを避けたいかのような態度だ。

 レイシアは跪き、小銭を拾い集める。


 一枚ずつ拾いながら、頭の中に疑問が浮かぶ。

 本来、そのような雑務はジャンの仕事のはずだ。


 尋ねれば罵声が飛んでくるだろうが、うまく頭が働かず、思ったことを呟いてしまった。


「そういうのはジャンさんの――」

「あなたは言われたことをやっていればいいのです!」


 鼓膜に響く金切り声に、頭痛が悪化する。

 少しでも口を開けば、イザベルが怒ることを再確認しただけだった。


(そうか……何も言わず、イザベル様の言うことを聞いていれば……)


 思考を放棄したほうが楽だ。そうすれば、嵐は過ぎ去る。


「ふふ、お母様、さすがにそれだとレイシアがかわいそうよ」


 マリアンヌが口を挟んだ。助け舟かと思ったが、彼女の瞳は楽しげに細められている。


「あなたは優しいですね、マリアンヌ」


 レイシアに向けるものとはまったく違う、優しげな顔を見せるイザベル。怒っているときよりも断然美人だと、レイシアはどうでもいいことを思った。


「だってレイシアはよくしてくれますもの。ね、レイシア?」

「え……あ、はい!」


 レイシアの怯えた反応を見ては、マリアンヌは楽しそうに笑う。


「ほら、あなたってすぐに怪我をするでしょう?」


 確かに不注意であちこち体をぶつけてしまうことがある。打ち身程度なら放っておくが、出血があると医務室に行くのだ。

 イザベルからの教育が一番の怪我の元だが。


 そんなことは言えないので、レイシアは頷いた。


「あなたが一番使うのだから、あなたが買うのが当然でしょう?」


 そういうものなのだろうか。レイシアには判断できない。


「そう、ですね……」

「お皿を割ったのもあなたなのでしょう?」


 ジュリーの話だともっと前から欠けていたという話だ。だが、イザベルとマリアンヌの中では、レイシアが割ったことになっているらしい。


「……はい」


 否定することに意味はない。

 貴族が黒と決めたなら、それは黒なのだ。


「それにわたくしはレイシアに買ってきてほしいの」


 マリアンヌはそう言って、レイシアの両手を握った。

 その手は柔らかく、温かい。直前に心をえぐるようなことを言っておきながら、こういう行動を躊躇いなくするから、マリアンヌのことが分からなくなる。


「分かり……ました。行ってまいります……」


 レイシアがそう答えるしかない。


「ありがとう、よろしくね」

「さっさと行きなさい。目障りです」


 親子は踵を返し、屋敷に戻っていった。

 雇い主一家の命令は絶対だ。

 レイシアは革袋を握りしめ、ふらつく足で門へと向かった。


     ◆


 商店街での買い物は終えた。


(重い……でも早く帰らないと。仕事が……)


 籠いっぱいに入れた傷薬と皿はずっしりとくる。

 皿はぶつかり合って割れないように一枚ずつ布にくるんだ。


 休み休み運ぶ。そうしないと腕が取れてしまいそうだ。

 休憩中に空を見上げる。晴れ渡った空は清々しいが、レイシアの胸中はずっと曇天だ。いや、荒天といっても過言ではない。


 せめてジャンに会えれば少しは違ったかもしれない。

 だが、ここ数日、彼の姿を見ることさえなかった。


 避けられているのだろうか。いや、そんなはずはない。きっと忙しいだけだ。

 そう自分に言い聞かせる。


 息が整ったところで、籠を持って屋敷を目指す。

 今日は気温も高いようで、汗ばんでくる。喉も乾いた。


 そういえば、朝からほとんど水分を摂っていない。

 視界がなんだかチカチカする。頭もいつもよりぼーっとする。耳鳴りがして、周囲の音が遠のいていく。


 それでも遅れれば、イザベルにまた折檻を受けるかもしれない。


(痛いのは、嫌だ……)


 恐怖だけが、レイシアの足を動かしている。

 休憩は最低限で歩を進める。

 足取りは覚束ないが、他の通行人にぶつからないよう気をつける。


 それなのに。

 石畳のほんの僅かな段差に足を取られた。


 踏ん張ろうとしたが、足に力が入らなかった。膝が笑い、世界がゆっくりと傾く。


 あっ、と思った時には、地面が目の前にあった。

 激しい衝撃と共に、籠を手放してしまう。


 手を擦りむいて痛い。

 しかし、それ以上に籠の中身が気になる。慌てて巻いていた布を取って皿を確認する。


「あ、あぁ……どうしよう……」


 終わりだ。

 レイシアの顔が青くなった。

 数枚、完全に割れていたのだ。これは完全にレイシアの責任だ。言い訳のしようがない。

 イザベルの激昂する顔、マリアンヌの冷笑が脳裏に浮かぶ。


 周囲の人が「大丈夫か?」と駆け寄ってくる。声は聞こえるが、意味のある言葉として頭に入ってこない。

 ただ絶望だけが胸を支配する。


「おい、レイシア。しっかりしろ!」


 その中に、聞き覚えのある声があった。

 ずっと聞きたかった、安心できる声だ。


(ジャンさん……? ジャンさん……ジャンさん!)


 顔を上げ、声の主に目を向けると、心配そうなジャンの顔があった。


 やっと会えた。


「また怪我してるじゃないか」


 ジャンがレイシアの汚れた手を取る。その温かさに、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。


「ジャンさん……あの、わたし……」

「いいから、まずは落ち着け。何があったんだ?」


 レイシアは途切れ途切れに事情を説明した。

 自分が不甲斐ないばかりにロシュフォール家に迷惑をかけてしまったこと。その償いも兼ね、買い物に来たこと。その買い物すら失敗したこと。


 話しているうちに、自然と涙がこぼれてきた。


「あれ? なんで……? 違う、違うんです……」


 止めたいのに、溢れるものは止まらなかった。

 このままではジャンを困らせてしまう。


「どこか具合が悪いんじゃないのか?」

「そんなこと……ないです。すぐに泣き止みますから……ごめんなさい」

「……少し休むぞ」


 ジャンがレイシアの体を支えてくれた。

 力強い彼に身を預けると、ふわりと土と汗の匂いがした。それがたまらなく心地よかった。


 ジャンはレイシアを木陰に連れていき、彼が持っていた水を飲ませてくれた。

 しばらくして、目のチカチカや吐き気が落ち着いてきた。


「あの、ジャンさん、ありがとうございます」

「いいって。同じ屋敷で働く仲間じゃないか」

「仲間……」


 たったそれだけの言葉が嬉しかった。

 彼がくれた水はどうやらレイシアの心にまで染み渡ったようだ。


 それでも割れた皿が視界に入った途端、現実に引き戻された。

 再びズキズキと頭痛が走り、恐怖が胃を締め上げるのだった。

次回投稿は明日 7 時頃の予定です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ