13 倒れた道端
本日 2 回目の投稿です。
休日も働かされ、その後も連日、朝から晩まで仕事をする。
その間に当主一家からの干渉があり、心身の疲労は募るばかりだ。
朝、使用人室のベッドから体を起こすだけで、全身の関節が軋む。鉛のように重い手足を無理やり動かし、冷たい水で顔を洗う。
鏡に映る自分の顔色は青白く、目の下の隈は化粧でも隠しきれない。
正直に言って休みたい。
だが、ロレーヌもジュリーも忙しい。二人では仕事が回らないから、レイシアは買われたのだ。
そんな二人を前にして「休ませてほしい」とは言えなかった。
彼女たちもまた、ギリギリの状態で働いているのだから。
「本当に大丈夫かよ……?」
朝食のスープを飲み下すのに苦労していると、ジュリーが心配そうに声をかけてきた。
「わたしは元気ですよ。少し寝不足なだけです」
「……辛いときは辛いって言っていいんだ。あんた、顔色最悪だよ」
「……本当に大丈夫です。これくらい、平気ですから」
レイシアは笑ってみせた。ジュリーの痛ましそうな表情を見る限り、うまく笑えていなかったのかもしれない。
朝食もそこそこに庭園の掃除に向かう。
最近は肌寒い日が続いていたのに、今日は天気が良く、暑くなりそうだ。
頭痛と倦怠感を我慢して、手を動かす。
「レイシア! 来なさい!」
「ひっ」
突然のイザベルの怒声に体が萎縮する。
心臓が跳ね、手から力が抜けた。箒を石畳に落としてしまい、カランと乾いた音が響く。
「も、申し訳ありません」
すぐに箒を拾い、イザベルの元に向かう。
また殴られるのだろうか。数日前に切れたときの血の味を思い出す。
笑顔はうまく作れているだろうか。恐怖で顔の筋肉が痙攣している気がする。
イザベルの後ろにはマリアンヌもいた。
怒りの形相を見せる母親と、ニヤニヤと笑う娘は対照的だ。
どちらもレイシアの精神を削り取るという意味では同じだが。
「傷薬と皿を買ってきなさい」
イザベルが革袋を地面に投げる。
チャリ、と音がして袋が転がり、硬貨が飛び出て地面に散らばる。あたかも手渡す際、レイシアに少しでも触れるのを避けたいかのような態度だ。
レイシアは跪き、小銭を拾い集める。
一枚ずつ拾いながら、頭の中に疑問が浮かぶ。
本来、そのような雑務はジャンの仕事のはずだ。
尋ねれば罵声が飛んでくるだろうが、うまく頭が働かず、思ったことを呟いてしまった。
「そういうのはジャンさんの――」
「あなたは言われたことをやっていればいいのです!」
鼓膜に響く金切り声に、頭痛が悪化する。
少しでも口を開けば、イザベルが怒ることを再確認しただけだった。
(そうか……何も言わず、イザベル様の言うことを聞いていれば……)
思考を放棄したほうが楽だ。そうすれば、嵐は過ぎ去る。
「ふふ、お母様、さすがにそれだとレイシアがかわいそうよ」
マリアンヌが口を挟んだ。助け舟かと思ったが、彼女の瞳は楽しげに細められている。
「あなたは優しいですね、マリアンヌ」
レイシアに向けるものとはまったく違う、優しげな顔を見せるイザベル。怒っているときよりも断然美人だと、レイシアはどうでもいいことを思った。
「だってレイシアはよくしてくれますもの。ね、レイシア?」
「え……あ、はい!」
レイシアの怯えた反応を見ては、マリアンヌは楽しそうに笑う。
「ほら、あなたってすぐに怪我をするでしょう?」
確かに不注意であちこち体をぶつけてしまうことがある。打ち身程度なら放っておくが、出血があると医務室に行くのだ。
イザベルからの教育が一番の怪我の元だが。
そんなことは言えないので、レイシアは頷いた。
「あなたが一番使うのだから、あなたが買うのが当然でしょう?」
そういうものなのだろうか。レイシアには判断できない。
「そう、ですね……」
「お皿を割ったのもあなたなのでしょう?」
ジュリーの話だともっと前から欠けていたという話だ。だが、イザベルとマリアンヌの中では、レイシアが割ったことになっているらしい。
「……はい」
否定することに意味はない。
貴族が黒と決めたなら、それは黒なのだ。
「それにわたくしはレイシアに買ってきてほしいの」
マリアンヌはそう言って、レイシアの両手を握った。
その手は柔らかく、温かい。直前に心をえぐるようなことを言っておきながら、こういう行動を躊躇いなくするから、マリアンヌのことが分からなくなる。
「分かり……ました。行ってまいります……」
レイシアがそう答えるしかない。
「ありがとう、よろしくね」
「さっさと行きなさい。目障りです」
親子は踵を返し、屋敷に戻っていった。
雇い主一家の命令は絶対だ。
レイシアは革袋を握りしめ、ふらつく足で門へと向かった。
◆
商店街での買い物は終えた。
(重い……でも早く帰らないと。仕事が……)
籠いっぱいに入れた傷薬と皿はずっしりとくる。
皿はぶつかり合って割れないように一枚ずつ布にくるんだ。
休み休み運ぶ。そうしないと腕が取れてしまいそうだ。
休憩中に空を見上げる。晴れ渡った空は清々しいが、レイシアの胸中はずっと曇天だ。いや、荒天といっても過言ではない。
せめてジャンに会えれば少しは違ったかもしれない。
だが、ここ数日、彼の姿を見ることさえなかった。
避けられているのだろうか。いや、そんなはずはない。きっと忙しいだけだ。
そう自分に言い聞かせる。
息が整ったところで、籠を持って屋敷を目指す。
今日は気温も高いようで、汗ばんでくる。喉も乾いた。
そういえば、朝からほとんど水分を摂っていない。
視界がなんだかチカチカする。頭もいつもよりぼーっとする。耳鳴りがして、周囲の音が遠のいていく。
それでも遅れれば、イザベルにまた折檻を受けるかもしれない。
(痛いのは、嫌だ……)
恐怖だけが、レイシアの足を動かしている。
休憩は最低限で歩を進める。
足取りは覚束ないが、他の通行人にぶつからないよう気をつける。
それなのに。
石畳のほんの僅かな段差に足を取られた。
踏ん張ろうとしたが、足に力が入らなかった。膝が笑い、世界がゆっくりと傾く。
あっ、と思った時には、地面が目の前にあった。
激しい衝撃と共に、籠を手放してしまう。
手を擦りむいて痛い。
しかし、それ以上に籠の中身が気になる。慌てて巻いていた布を取って皿を確認する。
「あ、あぁ……どうしよう……」
終わりだ。
レイシアの顔が青くなった。
数枚、完全に割れていたのだ。これは完全にレイシアの責任だ。言い訳のしようがない。
イザベルの激昂する顔、マリアンヌの冷笑が脳裏に浮かぶ。
周囲の人が「大丈夫か?」と駆け寄ってくる。声は聞こえるが、意味のある言葉として頭に入ってこない。
ただ絶望だけが胸を支配する。
「おい、レイシア。しっかりしろ!」
その中に、聞き覚えのある声があった。
ずっと聞きたかった、安心できる声だ。
(ジャンさん……? ジャンさん……ジャンさん!)
顔を上げ、声の主に目を向けると、心配そうなジャンの顔があった。
やっと会えた。
「また怪我してるじゃないか」
ジャンがレイシアの汚れた手を取る。その温かさに、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。
「ジャンさん……あの、わたし……」
「いいから、まずは落ち着け。何があったんだ?」
レイシアは途切れ途切れに事情を説明した。
自分が不甲斐ないばかりにロシュフォール家に迷惑をかけてしまったこと。その償いも兼ね、買い物に来たこと。その買い物すら失敗したこと。
話しているうちに、自然と涙がこぼれてきた。
「あれ? なんで……? 違う、違うんです……」
止めたいのに、溢れるものは止まらなかった。
このままではジャンを困らせてしまう。
「どこか具合が悪いんじゃないのか?」
「そんなこと……ないです。すぐに泣き止みますから……ごめんなさい」
「……少し休むぞ」
ジャンがレイシアの体を支えてくれた。
力強い彼に身を預けると、ふわりと土と汗の匂いがした。それがたまらなく心地よかった。
ジャンはレイシアを木陰に連れていき、彼が持っていた水を飲ませてくれた。
しばらくして、目のチカチカや吐き気が落ち着いてきた。
「あの、ジャンさん、ありがとうございます」
「いいって。同じ屋敷で働く仲間じゃないか」
「仲間……」
たったそれだけの言葉が嬉しかった。
彼がくれた水はどうやらレイシアの心にまで染み渡ったようだ。
それでも割れた皿が視界に入った途端、現実に引き戻された。
再びズキズキと頭痛が走り、恐怖が胃を締め上げるのだった。
次回投稿は明日 7 時頃の予定です。




