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水底のレイシア  作者: 彼岸茸


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幕間 3 マリアンヌの退屈

本日 1 回目の投稿です。

 マリアンヌ=ロシュフォールは、自室の豪奢な長椅子に身を預け、天井を睨みつけていた。


 高い天井には、職人が精緻な浮き彫りを施した漆喰細工がある。

 家具は猫脚の優美なもので統一され、床にはフカフカの絨毯が敷かれている。

 誰もが羨む、深窓の令嬢に相応しい部屋。


 けれど、マリアンヌにとっては、ただの美しい鳥籠でしかなかった。


「……つまらない」


 ぽつりとこぼれた言葉は、誰に届くわけでもなく、空中に溶けた。


 今日も、明日も、その次も。

 マリアンヌの毎日は、息が詰まるほどの退屈で塗り固められている。


 屋敷の外は「危険で下品な世界」なのだと、母イザベルは幼い頃からマリアンヌに言い聞かせてきた。

 一歩外に出れば、教養のない平民たちが泥に塗れて這いつくばり、病と貧困が蔓延しているのだと。


 高貴なロシュフォール家の血を引くマリアンヌは、そんな穢れに触れてはならないのだと。


 だから、マリアンヌが外出を許されるのは、限られた場所だけだ。

 貴族の子女が通う学院と、母が厳選した格式高い茶会や舞踏会だけ。


 窮屈で、鬱陶しい。


 学院に行けば、そこにはマリアンヌと同じようなドレスを纏った令嬢たちがいる。けれど、彼女たちとの会話もまた、退屈極まりないものだ。

 誰のドレスがどこの仕立てか、誰が誰と婚約したか、家の格がどうだとか。


 皆、貼り付けたような笑顔で、腹の底を探り合っている。マリアンヌもその中の一人として、完璧な微笑みを浮かべて相槌を打つ。


 それは社交という名の苦痛であって、娯楽ではない。

 家に帰れば、刺繍や読書、ピアノの練習が待っている。


 どれも得意ではあるが、心が躍ることはない。ただ時間を潰すための作業だ。


(何か、面白いことはないかしら)


 マリアンヌは天井へ伸ばした自分の手を、ぼんやりと見つめる。白く、細く、傷一つない手。

 何も掴んでいない手。


 この退屈な世界で、唯一マリアンヌの心をときめかせてくれる娯楽。

 それは、「抵抗できない相手に意地悪をすること」だった。


 ロシュフォール家は、マリアンヌの父エドモンの散財によって傾いているらしい。

 だというのに、父は時折、孤児院から身寄りのない少女を安く買ってくる。

 マリアンヌにとって、それは父が買ってくる新しい「玩具」に他ならなかった。


 屋敷の古参であるメイド長のロレーヌや、料理人のジュリーには手を出さない。彼女たちは優秀で、両親からも重宝されているからだ。

 そんな相手に悪戯を仕掛ければ、貴族としての最低限の生活が怪しくなるし、食事も貧相になる。


 けれど、孤児たちは違う。

 彼女たちは誰からも守られていない。どれだけ理不尽な命令を下しても、彼女たちは決して逆らえない。


 貴族であるマリアンヌの言葉は、彼女たちにとって絶対の法なのだ。


 これまでにも何人か、玩具になった少女たちがいた。

 中には泣いて抵抗する者もいたが、マリアンヌが「お母様に言いつけるわよ」と囁けば、皆一様に口をつぐんだ。


 怯える顔、必死に媚びる顔、絶望に染まる顔。


 それらの表情がコロコロと変わる様を見る時だけ、マリアンヌは心が満たされた。


 彼女たちは皆、いつの間にかいなくなった。

 壊れてしまったのか、捨てられたのか、逃げ出したのか。

 マリアンヌは興味がない。使い古した玩具の行方など、どうでもいいことだ。


 そして今、屋敷には極上の玩具がいる。

 レイシアだ。


 マリアンヌは、くすりと笑みを漏らした。

 あの子はいい。とてもいい。

 真面目で、健気で、どれだけ踏みつけても「もっと頑張らなきゃ」と立ち上がってくる。


 その姿は、マリアンヌの中にある加虐心を心地よく刺激してくれる。

 それに、レイシアをいじめることには、好都合な理由がある。


 母がレイシアを毛嫌いしているからだ。

 「あのメイドは卑しく、分をわきまえない」と、母は事あるごとにレイシアを罵っている。父エドモンがレイシアに色目を使っているのが気に入らないのだろう。


 だから、マリアンヌがレイシアをいじめても、母は決して怒らない。

 むしろ「よく指導してくれました」と機嫌が良くなる。


 マリアンヌにとって、これほど都合の良いことはない。

 自分のストレス発散のために玩具を壊しても、それが「母への親孝行」という名目で正当化されるのだから。


 父エドモンの動きも、マリアンヌには手に取るように分かっていた。

 あの好色な父が、レイシアに手を出そうとしていることなど、誰が見ても分かる。母だけはレイシアが誘惑していると思い込んでいるようだが。


 だから、少し手伝ってあげた。

 ワインを「レイシアからのご主人様へのプレゼント」ということにしたのも、「レイシアが春画を見たがっている」と父母に伝えたのもマリアンヌだ。


 そうすればどうなるか。

 父は勘違いをして暴走し、レイシアは被害者となり、母は嫉妬に狂ってレイシアを罰する。


 マリアンヌはその様子を、特等席で眺めていればいい。


 先日、春画の本を持たせた時のことは傑作だった。

 母に見つかり、激しくぶたれて戻ってきたレイシアの顔。

 赤く腫れあがった頬、涙に濡れた瞳、絶望に歪んだ唇。


 ――ああ、可哀想に。わたくしのせいで、あんな目に遭って。


 そう思うと同時に、背筋がゾクゾクするほどの快感が駆け抜けた。


 母の前では決して味わえない、「支配する喜び」がそこにあった。


 そして何より面白かったのは、昨日の「休日」の一件だ。

 朝早く、まだ誰も起きていない時間にレイシアを叩き起こした。

 眠い目をこすりながらも、必死に笑顔を作ってマリアンヌに従うレイシア。


 「仲良くなりたいの」と甘い声で囁けば、あの子は簡単に警戒心を解いた。


 孤児院の話を聞いたのは、ほんの気まぐれだった。

 母が忌み嫌う「危険で下品な世界」の話。

 泥にまみれ、今日食べるものにも困る生活。


 それを聞いていると、自分がどれほど恵まれた場所にいるかを再確認できる。


 「今日、掃除をしてちょうだい」と告げた時の、レイシアの凍り付いたような顔。

 「代わりに明日休めばいい」という、実現不可能な約束にすがる時の、哀れな瞳。


 彼女は、非番の日を潰されても、理不尽な労働を強いられても、最後まで「嫌です」とは言わなかった。

 貴族の命令に孤児がさからえるわけがない。


 無意味な重労働を課しても文句一つ言わない――言えない。

 その絶対的な服従。


 普段、母に対してマリアンヌが感じている「逆らえない苦しさ」を、そのままレイシアに味わわせてやる。

 そうすることでしか、マリアンヌの心は癒やされない。


 最後に渡した「童話の本」も、我ながら良い演出だったと思う。

 努力すれば報われる、なんていう甘っちょろい物語。


 あの子はあの童話を読んで、どんな顔をするか。

 今度、感想を聞いてみよう。

 もしかすると、自分も努力が報われるなどと夢を見るかもしれない。


 馬鹿な子。

 この屋敷にいる限り、彼女の努力は報われることなどないというのに。


 マリアンヌはソファから起き上がり、窓辺へと歩み寄った。

 カーテンの隙間から、夕暮れの庭を見下ろす。

 庭の隅で、雑用係の男――ジャンが、道具を片付けているのが見えた。


 母からは、あの男には近づくなと厳命されている。

 「平民の男など、言葉を交わす価値もない」「万が一、間違いが起きたらどうするの」と、顔を合わせるたびに釘を刺される。


 まったく、過干渉にも程がある。

 マリアンヌの純潔を守りたいのか、ロシュフォール家の体面を守りたいのか。

 どちらにせよ、娘を自分の所有物としか思っていない母の思考が透けて見えて、反吐が出る。


 そういえば、レイシアはあの男と仲が良いようだった。

 買い物に行かせた日、彼に荷物を持ってもらっていたらしい。


 先日の「休日」を潰された後も、レイシアは血眼になってジャンを探していたという。


 まるで、彼だけが世界の希望であるかのように。


 ――ふぅん。


 マリアンヌは目を細めた。

 今はまだ、母の言いつけを守る。波風を立てるのは面倒だから。

 けれど、いつまでも言いなりではない。


 もし、レイシアをもっと追い詰めたくなったら。あの子の希望を完全にへし折りたくなったら。

 その時は、あの男も「遊び」に混ぜてあげてもいいかもしれない。


 母が一番嫌がることをして、母が一番嫌うレイシアを壊す。

 それはきっと、最高に背徳的で、考えただけで心が躍る。


 マリアンヌは窓ガラスに映る自分の顔に、にっこりと微笑みかけた。

 母に似て、美しい顔立ち。


 けれどその瞳の奥は、退屈と鬱屈で濁っている。


「あの子がいると、退屈しないわ」


 独り言が、甘く部屋に響いた。


 レイシアは、大事な大事な玩具だ。まだ壊れてもらっては困る。

 もっと遊べる。

 もっと楽しめる。


「次は何をしようかしら」


 マリアンヌは楽しげにステップを踏むように、部屋の中をくるりと回った。

 その無邪気な残酷さは加速する。

次回投稿は本日 19 時頃の予定です。

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