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水底のレイシア  作者: 彼岸茸


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11 お嬢様のお願い

本日 1 回目の投稿です。

 顔を合わせれば何かとイザベルに叱責されるのが、レイシアの日常になりつつあった。


 エドモンとの関係を疑われているのは、痛いほど分かる。

 だが、そんな事実はどこにもない。せめて言い分くらいは聞いてほしいと思うが、口を開けば「言い訳をするな」と封じられる。


 レイシアに許されているのは、ただ頭を下げ、嵐が過ぎ去るのを待つことだけだった。


 そんなレイシアの窮状を、楽しんでいる者がいる。


 マリアンヌだ。

 決して助け船を出すことはない。ただ、柱の陰や階段の上から、ニヤニヤと歪んだ笑みを浮かべて、レイシアを眺めているのだ。


 そんなある日のことだ。

 レイシアが朝の掃き掃除を始めようとしたところで、背後から甘ったるい声がかかった。


「レイシア、ちょっとお願いがあるのだけど」


 振り返ると、そこにはマリアンヌが立っていた。

 嫌な予感がする。何かを企んでいるに違いない。


 だが、レイシアに拒否する権利などない。


「は、はい。何でしょうか?」

「また本を持ってきてほしいのよ。今、どうしても読みたい気分なの」


 マリアンヌが滑らかな口調で、本のタイトルを告げる。

 前回は文字が読めず、ジュリーに手伝ってもらった。だが、今回は違う。


(大丈夫……ある程度、文字は覚えたから)


 ロレーヌに教わり、疲れた体に鞭打って勉強した成果がある。それに、書庫の分類や並べ方も教わった。

 きっと前よりも速く見つけられるはずだ。


 汚名を返上するチャンスかもしれない。レイシアは自分を鼓舞する。


「すぐにお持ちします。マリアンヌ様のお部屋でいいですか?」

「ええ、急いでね」


 レイシアは手にしていた掃除道具を一旦仕舞い、早足に書庫に向かった。

 紙とインクの匂いが漂う書庫に入り、背表紙の文字を目で追う。

 

 あった。


 見つけた瞬間、レイシアの胸に小さな達成感が生まれた。

 目的の本を手に取って、すぐにマリアンヌの私室に向かう。


 扉をノックして、中から気怠げな返事があってから入室する。


「マリアンヌ様、お持ちしました」


 自信を持って本を差し出す。

 マリアンヌは優雅な手つきで本を受け取ると、その表紙に目を向けた。

 ほんの一瞬、つまらなそうに眉を寄せた。だがすぐに、マリアンヌの口角が吊り上がる。


「ごめんなさいね。せっかく持ってきてくれたのに、これじゃないわ」

「え……?」


 レイシアは耳を疑った。

 何度も表紙を見て、タイトルが一致していることは確認した。


「これは返しておいて」

「は、はい。申し訳ございません」

「もう一度、タイトルを言うわね。よく聞いて?」


 そうしてマリアンヌが告げたタイトルは、先ほど指示されたものとはまったく別のものだった。


(……え? さっきは確かに……)


 疑問に思って顔を上げると、マリアンヌがレイシアの瞳を至近距離で覗き込んできた。

 エドモンのような欲情も、イザベルのような憎悪もない。ただ純粋に、無邪気で嗜虐的な瞳。


「ほら、どうしたの? 早く行きなさい。わたくし、待つのは嫌いよ?」

「し、承知しました……!」


 釈然としない。

 だが、指摘などできるはずがない。「先ほどは違うタイトルを仰いました」と言ったところで、「あなたの聞き間違いでしょう?」と返されるのが落ちだ。

 この屋敷において、お嬢様の言葉とメイドの言葉、どちらが「正解」とされるかは、火を見るより明らかだ。


 レイシアは本を受け取り、逃げるように部屋を出た。

 書庫に戻り、一度深呼吸をしてから、新たに指定された本を探す。


 見つけた本は、立派な革張りの装丁がなされた画集のようだ。表紙には風景画のようなものが描かれている。


(今度は大丈夫……のはず)


 重たい本を胸に抱え、廊下を急ぐ。

 再びマリアンヌの部屋に向かう、その途中のことだった。


「仕事もせずに何をしているのです?」


 イザベルだ。

 彼女はレイシアを見るなり、顔を歪めた。


「えと、その……マリアンヌ様に頼まれ――」

「その本は?」


 イザベルはレイシアの返事を最後まで聞かずに、視線をレイシアが抱える本に向けた。

 見たのは一瞬だ。だが、文字を覚えたてのレイシアと違い、教養のあるイザベルはその一瞬で背表紙のタイトルを読み取ったらしい。

 瞬間、彼女の顔色が赤く染まり、眦を決した。


「なんていかがわしい! 夫に言い寄るのはやめなさいと何度言ったら分かるのですか!」


 乾いた音が廊下に響いた。

 直後、レイシアの頬に焼けるような痛みが走る。

 なぜここでエドモンの話が出てくるのか理解できない。


 何が何やら分からないが、平手打ちの衝撃で本を取り落としてしまった。

 ゴトッ、と硬い音がして床に落ちた本が、衝撃で開く。


 そこにあったのは、風景画ではなかった。

 いわゆる春画と呼ばれる類の挿絵だった。


 そうした知識に疎いレイシアでも、その絵が何を意味し、何に使われるものなのかくらいは分かる。

 頭が真っ白になった。


「な……」

「なぜそんな卑猥なものを持ち歩いているのですか? 答えなさい!」

「ま、マリアンヌ様に言われて、その、書庫から……」

「言うに事欠いて、マリアンヌのせいにするのですか?」


 イザベルの声が一段と低くなる。


「嘘ではありません! 本当にマリアンヌ様に――」

「黙りなさい!」

「ひっ」

「おおかた、これを口実に夫の書斎に入り込み、一緒に見るつもりだったのでしょう? ふざけないで! これは没収します!」


 イザベルは床の本をひったくるように取り上げた。

 だが、没収されては困る。これを待っているマリアンヌに何と言えばいいのか。

 かと言って、憤怒の形相をしたイザベルに「返してください」と言える勇気などない。


「本当に、汚らわしい!」

「きゃっ」


 またぶたれた。今度は反対の頬だ。

 口の中に鉄の味が広がる。


「懲りないようでしたら、わたくしにも考えがあります」


 その言葉に、レイシアの顔から血の気が引いた。

 ここを追い出されたら、野垂れ死ぬか、もっと酷い場所に売られるかしかない。


「申し訳ありません、申し訳ありません!」


 深く頭を下げる。

 涙が床に落ちる。

 この理不尽が過ぎ去るなら、頭くらいいくらでも下げる。


 それが、レイシアがこの屋敷で生きるための術だった。


「あなたの不快な顔など、見たくありません!」


 そう吐き捨てて、イザベルは足音荒く立ち去った。

 春画の画集は、イザベルが持っていってしまった。


 あとに残されたレイシアは、ふらつく足で立ち上がる。

 行きたくない。けれど、行かなければならない。


 とぼとぼとマリアンヌの私室に行く。

 ノックをして入ると、マリアンヌは優雅に紅茶を飲んでいた。


「あら、遅かったじゃない。待ちくたびれたわ。ちゃんと持ってきたのよね?」

「それが……申し訳ありません」


 マリアンヌの目が弓なりに細まった。

 レイシアの腫れあがった頬を見て、マリアンヌはすべてを察しているようだった。いや、こうなることを最初から分かっていた目だ。


「そう。頼まれたことも満足にできないのね」

「あの……本は、イザベル様に没収されて――」

「ふぅん? お母様のせいにするんだ」


 マリアンヌがわざとらしく目を丸くし、口元に手を当てる。


「ち、ちが――」

「へぇ、口答えするんだ。反省してないのね」

「ひっ……も、申し訳ありません!」


 何を言っても無駄だ。

 何をしても裏目に出る。


「もういいわ。頼りにならないわね、レイシア。さっさと下がりなさい」

「……はい」


 レイシアが逃げるようにマリアンヌの私室を出て、扉を閉めた直後だった。

 中から、押し殺したような、けれど隠しきれない歓喜の声が漏れてきた。


『ぷっ、あは、あはははは! 傑作だわ! いいわね、あの子の顔ときたらもう。お母様にぶたれて泣きべそかいて、無様ねぇ! もっと、もっとぐしゃぐしゃにならないかしら』


 楽しそうな、本当に楽しそうな笑い声。

 それ以上聞きたくなくて、レイシアは両耳を強く塞ぎ、その場から駆け出した。


 マリアンヌに気に入られれば、少しは楽になるかもしれないと思っていた。


 だが、それは甘い期待でしかなかった。あの方にとって、自分は玩具でしかないのだ。

 それでも、レイシアは思う。


(……ううん。期待するんじゃダメ。気に入られるように努力しなきゃ。わたしがもっと上手くやれば、きっと……)


 この期に及んで、なおそのように考える――考えてしまう。

 そう思わなければ、心が折れてしまいそうだからだ。


 体も心もへとへとだ。今すぐにでも倒れてしまいたい。

 だが、あと数日乗り切れば、休暇をもらえることになっている。


 その日は、何もせずゆっくり過ごしたい。


(ジャンさんと少しでも話せたら嬉しいな)


 そこでしっかり休めば、また頑張れる。

 そう自分に言い聞かせた。

次回投稿は本日 19 時頃の予定です。

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