幕間 2 イザベルの矜持
本日 2 回目の投稿です。
イザベル=ロシュフォールは鏡の中の自分を見つめる。
若い頃は「美しい」「気品がある」と社交界で持て囃されたものだ。
実家の権威もあっただろうが、鏡に映る自分の姿には、それに見合うだけの輝きがあったと自負している。
だが今はどうだ。
目じりに刻まれた小皺、ほうれい線の影。豊かな金髪には、憎らしい白いものが混じり始めている。
年齢にしては美貌を保っていると言われることも少なくない。あくまで「年齢にしては」だが。
老化に抗える者はいない。頭では理解している。
それでも、イザベルは美しさを保つための努力を欠かしたことはない。高価な化粧水を惜しげもなく使い、「ロシュフォール子爵夫人」という仮面を被る。
それが、彼女に残された数少ない武器だからだ。
完全に関係性が冷え込んでしまった夫エドモンも、イザベルの美貌だけは今でも褒める。
中身のない、上辺だけの賛辞だ。「君は今日も美しい」と言っておけば、妻の機嫌が取れると思っている浅はかさが透けて見える。
それでも、その言葉を受け入れ、優雅に微笑んで見せるのが「貴族の妻」の務めだ。
ストレスの根源は、間違いなくこの夫にある。
元々政略結婚であり、愛情など最初から期待していなかった。
若かりし頃のエドモンは、事業を成功させていた。
そこに才気を感じたイザベルの両親が、彼との縁談を決めたのだ。
イザベルもまた、彼とならば洗練された生活が送れるだろうと踏んでいた。
しかし、蓋を開けてみればどうだ。彼に本物の才気などなかった。
成功していたのは、ただの時流による偶然だったのだ。
結婚後、ロシュフォール家の金は泥水のように溶けていった。
エドモンが新しく事業に手を出すたびに、確実に資金は減っていった。
それなのに、あの男は外部に対して見栄を張ることだけはやめない。「貴族たるもの、生活水準を落としてはならない」などと御託を並べ、夜会だ、舞踏会だと金をばら撒く。
もっとも、その点に関してはイザベルも同罪かもしれない。
屋敷を飾る壺や絵画、季節ごとのドレス。これらは貴族の家になくてはならない舞台装置だ。
みすぼらしい格好で社交界に出れば、瞬く間に噂の的になる。ロシュフォール家は落ちぶれたと陰口を叩かれることなど、イザベルの自尊心が許さない。
だから、借金をしてでも体裁を整える。それは浪費ではなく、家格を守るための必要経費だ。
先日購入した壺もそうだ。あの美しい曲線と色彩は、見るだけでイザベルの荒んだ心を慰めてくれる。
金がないので、かつては大勢いた使用人も、一人、また一人と辞めさせていった。給金が払えないからだ。
結果、古参で残っているのはロレーヌだけ。
あとはロレーヌ一人では回らないと言われて雇ったジュリーくらいだ。
問題は、人手が足りなくなった穴埋めにエドモンが時々買ってくる孤児だ。
安価なのはいいが、身分も出自も卑しい娘だ。
彼女たちは皆、一様に同じことをする。
最初は怯えたふりをして屋敷に入り込み、仕事に慣れてくれば、その若さと女の武器を使ってエドモンに取り入るのだ。
ロシュフォール家の主に、だ。身分不相応にもほどがある。
むろん、エドモンに問題がないとは思っていない。
彼と結婚する前から女癖が悪いことは知っていたし、結婚当初こそなりを潜めていたものの、本性が治るはずもない。
それが再発したのは、やはり「跡継ぎ」の問題が大きいだろう。
イザベルは、マリアンヌという娘を授かった。
腹を痛めて産んだ我が子だ。自分に似て美しく育った娘は、目に入れても痛くないほど愛おしい。最高のドレスを着せ、最高の教育を受けさせた。
ただ、「娘一人しかいない」という事実が常に付きまとう。
いずれマリアンヌは別の貴族に嫁ぐだろう。そうなれば、このロシュフォール家は誰が継ぐのか。
マリアンヌに婿を取らせるという手もあるが、今の落ち目で借金まみれの家に、まともな貴族の子弟が来てくれるとは思えない。
となれば、この家はエドモンの代で終わる。
その責任の矛先は、常に「男児を産めなかった妻」に向けられる。
エドモンから直接責められたこともある。「お前が産まないからだ」と。
社交界での貴婦人たちの視線も痛い。「あら、まだお一人なの?」という無遠慮な言葉が、呪いのように心に突き刺さっている。
跡継ぎを産めない以上、自分は無価値なのではないか。
その恐怖がイザベルを苛む。
だからこそ、エドモンを誘惑する卑しい女が許せないのだ。
エドモンのことなど、もはや愛してはいない。夫としての敬意もとっくに失せている。
だが、彼が「別の女」と子をなすことは、イザベルの存在意義を根底から覆す脅威となる。
万が一、下女が男児を孕んだらどうなる?
その子が認知され、ロシュフォール家の跡取りとして迎え入れられたら?
そうなれば、イザベルとマリアンヌの居場所はどうなるのだ。
「男児を産んだ下女」が母として幅を利かせ、「産めなかった正妻」である自分が隅に追いやられる。あるいは、離縁されるかもしれない。
そんな屈辱、死んでも受け入れられない。
ロシュフォール家の血統に、どこの誰とも知れぬ下賤な血が混ざるなど、あってはならないことだ。
それはイザベルの矜持にかけて、阻止しなければならない。
だから、排除するのだ。
エドモンに言い寄る害虫を駆除するのは、ロシュフォール子爵夫人としての正当な防衛行為である。
最近、孤児院から買われてきたあの小娘――レイシアもそうだ。
何も知らないような無垢な顔をして、屋敷に入り込んできた。
真面目な働き者を装い、ロレーヌやジュリーの歓心を買っている。よく働き、物覚えも良いと評判だ。
だが、イザベルの目は誤魔化せない。
あれは、媚びているだけだ。自分の居場所を確保するために、周囲の機嫌を窺っているに過ぎない。
そして案の定、エドモンへの誘惑を始めた。
まだあどけなさの残る容姿を武器に、主人の同情を誘い、懐に入り込む。
廊下で、食堂で、執拗にエドモンの視界に入り、肌を許している。
身の程を弁えろ、と伝えたはずだ。
だというのに、あの娘はどうだ。
先日など、エドモンの書斎で、あろうことか昼間からワインを飲んでいたというではないか。
マリアンヌから聞いたときは耳を疑った。エドモンへのプレゼントとして、わざわざ給金を使ってワインを買ってきたのだと。
そして、そのワインを口実に書斎へ上がり込み、二人きりの時間を楽しんでいた。
イザベルが部屋に入ろうとしたとき、慌てて飛び出してきたあの姿。顔を赤らめ、服を乱し、呼吸も荒かった。
情事の最中であったことは明白だ。
それなのに、あの女は一つも自分が悪いと思っていないようだった。
それどころか、弱者のふりをして、こちらを馬鹿にしたような微笑を浮かべる。
その態度が、たまらなく癇に障る。
エドモンはその「可哀想な少女」の演技に騙されているようだが、イザベルは違う。あの顔の裏にある、計算高い下心が見て取れる。
昨日もそうだ。
高価な食器を割ったことへの謝罪もそこそこに、またしても涙を浮かべて言い訳をしようとした。
だから、躾をしてやったのだ。
言葉で分からない愚者には、痛みで教えるしかない。
そう、あれは教育だ。
屋敷の規律を守るための、女主人の務めなのだ。
あの女は、いずれ必ずロシュフォール家に災いをもたらす。
いつか腹が膨らみ、取り返しのつかないことになる前に、芽を摘まねばならない。
エドモンにはそれができない。男は愚かで、目の前の欲にしか目がいかないからだ。
ならば、自分がやるしかない。
泥をかぶってでも、この家と、自分とマリアンヌの未来を守るのだ。
イザベルは立ち上がり、窓辺へと歩み寄る。
眼下には、手入れの行き届いた庭園が広がっている。
その片隅、生垣の陰に隠れるようにして、古びた井戸が見えた。
イザベルは窓ガラスに映る自分の顔を見つめ直す。
そこには、家を守る覚悟を決めた、誇り高き貴族の夫人の顔があった。
誰にも文句は言わせない。
すべてはロシュフォール家のために。
彼女は冷ややかな瞳で、古井戸を静かに見下ろした。
次回投稿は明日 7 時頃の予定です。




