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水底のレイシア  作者: 彼岸茸


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10 叱責の標的

本日 1 回目の投稿です。

 疲労は溜まる一方だが、仕事は待ってくれない。

 気力で頑張るレイシアだが、足元が少しふらつく。


 庭園の掃き掃除をしている時だった。

 ロレーヌに言われた通り、石畳の継ぎ目を丁寧に掃いていく。

 ふと、視線が無意識に庭の奥へと向く。


(今日もジャンさん、いないかな?)


 彼を無意識に探していた。

 彼を見かけるだけで、今はそれが心が楽になる気がした。


 だが、その隙がいけなかった。

 不意に強い風が吹き、足の踏ん張りが利かずに盛大に転んでしまった。


「痛っ」


 不幸にも左膝を強く打った。スカートが破れて血が滲んでいる。歩くは歩けるが、痛みが強くなる。

 医務室に行った方がいいだろうか。


「突っ立って、何してるんだ?」


 声がした方を向いたら、野菜を入れた籠を持ったジャンが心配そうにレイシアを見ていた。

 レイシアは嬉しくなった。


「あはは、ちょっと転んじゃいました」


 自分でそう答えて、久しぶりに笑った気がした。


「今日は風が強いからな。気をつけろよ……っていうか怪我してるじゃないか」

「だ、大丈夫です。これくらい放っておけば――あっ」


 なんともないことをアピールしようとして、一歩踏み出したところで、左膝に痛みが走った。

 再び転びそうになったところを、ジャンが支えてくれた。


「それのどこが大丈夫なんだ。ほら、医務室に行くぞ」

「で、でも……」

「あのな。怪我を放っておいて、もっと大変なことになったらどうするんだ。ロレーヌさんにも怒られるぞ」


 それはそうかもしれない。

 ロレーヌであれば、怪我をすることより、怪我を隠す方が怒りそうだ。


「……そうですね」


 痛む左膝を庇いながら、ひょこひょこと歩く。


「しょうがないな。ほら、掴まれ」


 見かねたジャンが肩を貸してくれた。

 片手に野菜籠を持って、もう片方の手でレイシアを支える。器用で、力も強い。

 日々の雑用で鍛えられているのか、彼の身体は意外とがっしりしていた。


「あ、ありがとうございます」


 レイシアは顔が赤くなるのを感じた。ジャンの顔をまともに見られない。


 ジャンと体が密着した状態で、医務室に向かう。

 ドキドキしてしまう。


 エドモンが話しかけてくるときも動悸はある。しかし、ジャンが相手だと、まったく嫌な感じはしない。

 彼の肌に触れることに、嫌悪感などまったく覚えない。それどころか――


「ほら、ついたぞ。そこの椅子に座ってくれ」


 いつの間にか医務室だった。

 椅子に座らされ、ジャンが離れたのが少しだけ名残惜しかった。


「見せてみろ」


 ぶっきらぼうだが、気遣いの感じられる声音だ。

 太腿を出すのは恥ずかしいが、そうしないと傷をしっかりと露出することができない。


「は、はい。どうぞ」


 傷の様子を見たジャンは簡単に処置してくれた。最後に少し強めに包帯を巻いて、固定した。


「これで、少しは歩きやすくなるはずだ」


 立ってみる。痛みはあるが、さっきよりも断然歩きやすい。平時ほどスムーズには歩けないが、気をつければ、仕事には差し障りはないだろう。


「ジャンさん、すごいですね」

「俺も怪我なんてしょっちゅうしているからな。刃物を使う作業も多いし」


 ジャンの腕を見てみると、古い傷がたくさんあった。


「仕事に戻れそうか?」

「はい。ありがとうございます」

「気をつけろよ」


 ジャンは置いていた野菜籠を取って、仕事に戻った。


(ジャンさん、とってもいい人……わたしも仕事しなきゃ)


     ◆


 その日の午後。


 ロレーヌに怪我のことは報告済みだ。彼女からは「気をつけなさいね」と言われ、今日の仕事量を減らしてくれた。

 その分、ロレーヌとジュリーが負担することになるので、申し訳なく思った。


 エドモンたちの昼食後に食器を片付けているときだった。

 食器を配膳台に載せて、ゆっくり運んでいた。まだ左膝は万全ではない。


「レイシア」


 名前を呼ばれ、びくっと反応した。イザベルの声だ。


「イザベル様、何でしょうか?」


 レイシアは顔に微笑を貼りつけ、震える声をなんとか抑えて返事をした。


「さっさと食器を片付けてくださらない? 目障りですよ」


 そんなことを言いにわざわざ食堂に戻ってきたのだろうか。

 いや、それだけではない気がする。


 だが、早くしろと命令されたのなら、そうしないといけない。


「は、はい。ただちに」


 そう言って、一歩踏み出した瞬間、左膝に痛みが走った。

 レイシアは転び、その拍子に配膳台を強く押し出してしまう。


(あ、ダメ……!)


 配膳台は滑るように進み、壁に当たった。ガチャンと食器のぶつかり合う嫌な音が響いた。

 痛みをこらえて、すぐに配膳台に行く。


 幸い、派手に割れている食器はなかった。しかし、一か所小さく欠けたところがある。

 今できた欠けかなんて分からない。

 だが、イザベルはめざとくそれを見つけた――見つけてしまった。


「こんな、粗相をするなんて!」


 ぶたれる。

 そう思った次の瞬間には、予想通りになった。


「本当にどんくさい娘ですね!」


 もう一発。


「も、申し訳――」

「男をたぶらかすのだけは早いのに!」

「え?」


 頭が真っ白になった瞬間に、さらに平手打ちをされた。踏ん張ることもできず、どさりと床に倒れる。


「わたくしが気づかないとでも?」


 レイシアは倒れ込んだまま、イザベルを見上げる。怒りに満ちた表情は本当に怖い。

 必死にイザベルが何のことを言っているのか、考える。

 そして、思い当たる。先日、エドモンに無理やりキスをされた時のことだ。思い出しただけで口の中が気持ち悪くなる。


「あ……」

「前に忠告したはずです。夫を誘惑するな、と」


 そんなことはしていない。

 レイシアは声も出せず、首をふるふると横に振る。


「昼間から仕事もせず、ワインを飲んで、いかがわしいことを……!」


 結果だけ見ればそうかもしれない。


「ち、ちが――」

「言い訳はよしなさい! 娘から聞いています。エドモンのためにワインを買ってきたのでしょう?」

「そ、それは――ぐっ」


 腹を蹴られた。胃の中のものを戻しそうになるのを、必死にこらえる。ここで吐こうものなら、叱責――体罰が増える。


「汚らわしい! 孤児の分際で! 夫を誘惑しないで!」


 レイシアは体を丸めて、次の暴力に備える。

 何度か身体に衝撃があった。


 結局、レイシアは何一つ弁明できなかった。

 ひたすら「ごめんなさい」と言って、嵐が去るのを待つしかなかった。


 気づいたら、イザベルはいなくなっていた。


(仕事で失った信用は、仕事で取り戻さないと……まだ、頑張れる……痛っ)


 左膝だけではない。口の中は血の味がする。

 よろよろと立ち上がり、配膳台の持ち手で体を支えながら、そのまま配膳台を厨房に運ぶ。


 中ではジュリーが夕食の仕込みをしているところだった。


「ジュリーさん……ごめんなさい。食器が欠けました……」

「いいって、そんなの。どうせ前から欠けてるんだし」


 ジュリーの言葉を聞いて愕然とした。

 元々欠けていたのに、それを理由に怒鳴られたのだ。


(わたしが……最初からお皿を確認していたら、ちゃんと説明できたのに……)


 脚の力が抜け、その場に座り込んだ。


「って、レイシアちゃん、その顔、どうしたの!?」

「……転んだ、だけです」


 気のいい先輩に迷惑はかけたくない。


「……今日はもう休みなよ。ロレーヌさんには言っとくからさ」


 そう言うと、ジュリーは仕込みの手を止め、レイシアを使用人室へ連れて行った。

 布団に横にされた。

 隣の使用人控室から、会話が聞こえてきた。


『ロレーヌさん! もう見過ごせないって! このままじゃ、レイシアちゃんも……』

『分かっています。ですが、私たちにはどうしようも……』

『また前の子みたいになっちまう』

『せめて、レイシアが助けを求めてくれたら……』


 ロレーヌとジュリーが言い争う声だ。

 何の話をしているんだろう。ぼんやりとそんなことを考えている内に、いつの間にか意識は闇の中に落ちていた。

次回投稿は本日 19 時頃の予定です。

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