9 一線を越えるエドモン
本日 2 回目の投稿です。
※本話にはセクハラ描写があります。苦手な方はご注意ください。
マリアンヌにお使いを頼まれてから数日。
エドモンの機嫌がすこぶるいい。きっとマリアンヌからワインを贈られたのが、よほど嬉しいのだろう。
レイシアに向ける笑顔や労いの言葉も増えた。
ただ、やたらと肩や背中に触れてくる。ねっとりとした手つきで、何度触れられてもゾワッとする。
抵抗できるはずがない。その無抵抗がさらにエドモンを助長しているのかもしれない。
だからといって、じっと耐えるしかないのだが。
また、胸元や腰回りに彼の視線が向くことが増えた。
貧相といって差し支えないレイシアの身体を見るエドモンは、嫌らしさを隠しきれていない。
(ううん……きっと気のせい。わたしが痩せてるから心配してくれてるだけ。そうじゃないと……)
何度も同じことを考え、それより先は考えないようにしていた。
痩せているのは事実で、ジュリーやロレーヌにも心配の言葉をもらっている。
孤児院にいた時よりも細くなったかもしれない。
あまり食欲がないのだ。ジュリーが作る料理は香りも味も良い。しかし、なぜか食べたいという気にならない。
動くためには食事は必要なので、頑張って胃に押し込んでいる。それでも与えられた食事を残してしまう。
作ってくれるジュリーに対して、申し訳ない気持ちが募る。
夜もあまり眠れていない。
マリアンヌから何かと頼まれ、仕事を終わらせるのが遅くなるのもある。
それに加え、寝付きが悪くなった。
当然、朝起きても疲れは取れていない。
疲れた状態でも仕事はしなければならない。
そうなるとミスが増える。
それを口実にイザベルから叱責を受けることになる。その際にエドモンとの不貞を疑われ、孤児院育ちであることを罵られる。
否定したい。
だが、できない。
イザベルを前にすると、頬をぶたれた記憶が蘇り、うまく話せなくなる。
だから、ひたすら謝ることしかできない。
なるべく考えなくていいように、手を動かす。
極力ミスをしないように、気をつける。
仕事に没頭していれば、難しいことや嫌なことを考えずに済む。
(あ、ジャンさんだ)
庭園の裏手で薪割りをしているジャンを見つけた。
薪は料理をするのに使ったり、冬場に暖を取ったりするのに必要だ。
結構な力仕事のようで、ジャンが額の汗を拭う。
(ジャンさんも大変そう。きついのは、わたしだけじゃないんだ……)
レイシアの窓越しの視線を感じたのか、ジャンがこちらを見た。
彼はレイシアだと気づくと、笑って手を振った。
レイシアも小さく手を振り返す。
たったそれだけだが、心が少し軽くなった気がした。今日も一日頑張れる。
ジャンが薪割りを再開したので、レイシアも仕事に戻る。
今しているのは、窓ガラスの拭き掃除だ。屋敷に客が来た時の導線上にある窓を優先的に、丁寧に磨いていく。
窓ガラスに映るレイシアの顔色は良くない。髪もパサついている。
(わたしの手際が悪いから……)
手入れをする時間もない。
もっとしっかりしないといけない。
そう考えた矢先、背筋に寒気が走った。嫌な感覚だ。
「今日も頑張っているな」
エドモンの声だ。最近、彼が近づいてくるのが、なんとなく分かるようになった。
「は、はい。雇っていただいたのですから、ご恩はお返ししないと……」
なんとか微笑を保ち、声が掠れながらもそう答えた。
「今、忙しいかね?」
「い、いえ。ちょうど窓の掃除が終わったところです……」
「ふむ、ちょうどよい。私の書斎に来なさい」
嫌だ。
そう思ったが、断ることなどできない。
「……はい」
レイシアの頷きに、エドモンは満足そうに笑う。そして、踵を返し書斎に向かう。
レイシアは大人しくついていく。
行き先は書斎だ。寝室ではない分、いくらかマシだ。
「入りたまえ」
エドモンは自ら扉を開け、レイシアを中に招き入れた。
レイシアがここに来るのは二度目だ。前回は紅茶を淹れるためだったが、執拗に手をさすられたことを思い出す。
思わず、手の甲を押さえてしまう。
幸い、エドモンはそのことに対し、何も思うところはないようだ。
書斎机の上に見覚えのある瓶があった。
(この前、商店街で買ってきたワインだ)
エドモンが棚からグラスを取り出す。
「ワインを飲もうと思ってな。君も一緒にどうだ?」
唐突な誘いに、一瞬ぽかんとしたが、レイシアはすぐに首を横に振った。
「すみませんが、まだ仕事がありますので……」
ちなみに、帝国法ではレイシアは飲酒できる年齢だ。しかし、飲酒したことはない。
「それは残念だ。せっかくレイシアが私のために買ってきたのだから、一緒に楽しみたかったのだが。私のために給金を使うとは、嬉しかったぞ」
何か話がおかしい気がする。ワインを買った金はマリアンヌに渡されたものだ。
「あ、あの、それはマリアンヌ様が――」
「知っている。あの子から聞いたよ。雇い主である私に礼をするには何がいいか、娘に相談したのだろう?」
「え……?」
もちろん、そのような事実はない。
「マリアンヌとも仲良くできているようで何よりだ」
エドモンは話しながら、ワインの栓を抜く。ポンという小気味よい音が響き、僅かに酒精の香りが漂う。
彼は自分でグラスにワインを注いだ。色味や香りを確かめ、一口含む。
それを飲み込んでから、エドモンはレイシアに視線を向けた。
妙に熱っぽい目つきに嫌な予感がする。
「安物のワインだが、レイシアからの贈り物だと思うと、格別だ」
言いながら、レイシアに向かって歩み寄ってくる。
思わず後ろに下がりかけ、壁に当たった。
エドモンはぐいと近づき、レイシアの顎に手を添える。俯いている彼女の顔を上に向けさせた。
「君もそういうことを期待しているのだろう?」
耳元でそんなことを囁かれる。
(そういうことって何……?)
身じろぎさえできず、困惑していると、不意に唇に柔らかいものが当たった。
(え? なんで……? 何が……?)
何が起こったのか理解できない。
理解したくない、というのが正しいか。
レイシアが抵抗できずにいると、エドモンの行動はエスカレートする。
(! 舌が……嫌、嫌だ……!)
口の中に苦味と渋味が広がる。それだけではなく、生理的に嫌な臭気も。
自然と涙がこぼれる。
「泣くほど嬉しかったのか」
エドモンは唇を離すと、何を勘違いしたのか、そんなことを言って微笑む。
(嫌……気持ち悪い……誰か、誰か助けて!)
レイシアはそう思うが、声が出ない。困惑と恐怖と嫌悪が入り混じり、身体は硬直している。
再びエドモンの顔が近くなる。
その瞬間、扉からコンコンというノックの音が聞こえた。
「ちっ、これからというところで。誰だ?」
レイシアにとって、それが救いになるのかどうか。
前者であればどれだけ良かったことか。しかし、残酷なことに、
「エドモン、お話があります」
来訪者はイザベルだった。
こんな状況を見られたら、後で何を言われるか考えるだけでも恐ろしい。
イザベルの声だと分かった瞬間、レイシアの膝が震えた。
それでも、今はエドモンの書斎から一刻も早く立ち去りたい。
そういう意味では、イザベルの来訪はある意味救いだったかもしれない。今、この瞬間だけは。
「し、失礼します!」
固まった全身をなんとか奮い立たせ、イザベルが返事を待たずに開けた扉から飛び出た。
「またあなたなの! なんて無作法な!」
イザベルの咎める声が聞こえた。
聞こえなかったことにして、廊下を走る。背中に熱い視線と冷たい視線の両方を感じながら。
レイシアが逃げ込んだのは井戸のある場所だった。
古井戸ではなく、レイシアも毎朝水を汲んでいる方の井戸だ。
今すぐ、口をゆすぎたい。
急いで水を汲む。
(なんで、なんで! もう、嫌だ。嫌だよ……)
しかし、彼女には他に行く当てなどない。屋敷を逃げ出したところで、野垂れ死ぬのがオチだ。
何度もうがいを繰り返す。
口の中の嫌な感触はどうしても取れなかった。
次回投稿は明日 7 時頃の予定です。




