脳疲労の夢想曲、あるいは夢想曲擬き
脳疲労を起こした筆者による思考の漂いをただ純文学ぽくしただけの日記です
自分というのは、どこまでも愚鈍な民衆の一人に過ぎない。訴えたい何かがあるわけでもなく、表現したいものがあるわけでもなく、けれどそれを不幸とも幸福とも思わず、そもそもその事について考えを馳せることすらないような、そういう鈍い人間の一人に過ぎないのだ。
しかし、それも嘘と言えるかとしれない。なぜなら、今私はこうして筆を取っているからだ。二次創作のし過ぎで脳疲労になったくせして、こうして筆を取っている。
整合性がない?人間に整合性などあってたまるものか。私にも、君にも、民衆たちにも言えることだ。なぜ、人間に整合性があると思っている?
人間に整合性があれば、私は学がないからよく分からないけれど、みっともない理由で戦争が起きたり略奪が起きたりなんかしてないのではないか?
こういうところで深みのある文章を書けないところが、はあ、やっぱり私も鈍い人間の一人なのだと痛感させられる。
結局のところ、私はこうして表現の原石と言えるものを磨かないままに、こうして書きなぐって、それを後で見返して、そう、自分はみっともない人間なのだと安心したいだけなのだ。
なぜこの文章を疲れているくせして書いているのか。分からないし、分かりたくもない。
理解できることばかりではつまらないこともあるだろうと、気取った私がそう主張するからだ。
苦しみぶったこの感情を、どうか何かしらの形で昇華できないだろうかと、そう思ってこの文を書いてはいるけれど、ああ、やっぱりわからない。この行為にどれだけの意味がある?意味を求める傲慢さをあざけながら、それでも思考が止まることはない。
話は変わるが、なろう系という小説について思うところがある。なろう系は混合玉石でよく馬鹿にされるが、それは私の純文学擬きの文章にも言えたことではないのかと。
なぜ、なろうの駄作は批判され、私のような純文学擬きであれば批判されない?結局、人々はものをカテゴリーでしか見れないのだ。駄作だから批判するとかではなく、「なろうなら批判しやすいから批判している」だけではないのかと。
まあ、そういう私も最近「なろう系駄作漫画レビュー」なるものを見て、その批評について「おもしろい」と感じてしまったので同類なのだが。
さっきから脈絡がない?だから何だ。ああ、家に帰って可愛らしいミニゲームでもやって、このえらそうに諦観ぶった思考を早く放棄してしまいたい。




