第9話 風と熱と刃(ノア視点)
出発の朝、空はやけに青かった。
瘴気地帯の調査記録と詩式構成図、採取道具と保存容器、それに最低限の食料と水。準備は抜かりない。……はずだった。
「……それ、本当に必要か?」
俺はミカが担ごうとしている大荷物を見て眉をひそめた。
「念のためですっ! いざというときに困りたくないじゃないですか!」
ユナはというと、何も持たず、手ぶらで外に立っていた。
「道中で必要になったら、現地で調達できるし」
その合理性は理解できるが、どうしても“構えていない”ように見えるのが妙だった。
* * *
瘴気地帯の入口には、視覚的な歪みが発生していた。 詩式構文の乱れによるものだ。感情との同期が不安定になるほど、空間はノイズを帯びる。
俺は呼吸を整え、起動装置に手をかけた。
「詩律展開──制御領域、同期率八十パーセント。侵入開始」
足元から霧が巻き上がる。熱を持った空気が皮膚を刺す。だが、まだ制御圏内だ。
ユナとミカも続いて入ってきた。ユナは、何の防御処理も行っていないように見える。
「本当に、大丈夫なのか」
「うん、大丈夫」
……不思議な確信。信じていいのか、不安になるほどだ。
* * *
目的地は瘴気の濃度が特に高い谷の奥だ。途中、疑似生命体の発生源とされる構文断層を通過する必要がある。
案の定、そこにいた。
かつて人だったものが、BUDDAネットワークの演算誤差で変質した存在。詩式を狂わせ、周囲の構文を吸収・変異させる。
俺は詩式を構成し、即座に攻撃に転じた。
「《律動:衝圧層》──展開、収束、投射」
空気圧を圧縮し、斜め軌道に刃として放つ。
だが、霧の壁に呑まれるように拡散した。
「詩式が──共鳴を拒んでる!?」
瘴気の濃度が構文の枠組みを押し流している。まるで、制御の手綱が滑るような感覚。
「ミカ、下がれ!」
疑似生命体の咆哮とともに、詩式干渉がこちらに波状で襲いかかる。俺は次の詩式を展開するが、同調率が低すぎる。
強引に詩式を上書きしようとした瞬間——
視界が一瞬、真白になった。
全身に圧が走り、演算領域が遮断される。
「……っ、これは——」
構文干渉じゃない。これは、相手の感情共鳴がこちらの制御式にまで影響してきている?
このままでは、潰される——!
「もういいよ、ノア」
静かな声が割り込んだ。ユナだ。
彼女は一歩、霧に足を踏み入れた。
その瞬間、疑似生命体が動いた。詩式の乱れがユナを狙って集中し、まるで空間そのものが軋んだように歪んだ。
だが——ユナは、動いた。
速い。
視線が追いつかない。意識がようやく動きを捉えたときには、彼女はすでに敵の前にいた。
「──風、還れ」
ただ、それだけ。
腕を振る動作さえ見えなかった。
疑似生命体は、何かに打たれたわけでも、燃えたわけでもない。ただ、そこから"存在が消失"していた。
まるで、最初からそこに何もなかったように。
霧も、圧も、気配も、全てが——無。
俺は言葉を失った。
「今の、詩式か……?」
「うん。風を、還しただけだよ」
ミカは目を丸くしていた。
「ユナさん……速すぎて、見えませんでした……」
俺は、しばらく息を整えた。
通常の詩式体系に、“風属性”は存在しない。拡散系構文として分類されるが、現代詩術では制御困難とされるもの。
あれは、あれこそが“風”だというのなら——
僕たちの知る詩式は、その影をなぞっていただけなのかもしれない。
* * *
帰り道、俺はずっと考えていた。
静かで、理不尽で、確かに圧倒的な力。
言葉を探しても、どれも陳腐にしか思えなかった。
“最強”なんて言葉すら、安っぽく聞こえる。
ただ確かなのは——
この店には、俺の知らない“解”がある。
そして今はただ、知りたいと思った。