第7話 風の余波(ノア視点)
事件のあの日から、数日が過ぎた。
暴走詩式の脅威は去り、街はゆっくりと日常を取り戻しつつある。だが、あの一件が町の人々に与えた影響は、まだ鮮明に残っていた。
朝、店の戸を開けると、すでに人が並んでいた。
「昨日の件……詩術師様が止めてくれたって、本当かい?」 「これ、ほんの気持ちだけど——差し入れさせてもらいます!」 「子どもたちが、ずっと“お兄ちゃんが助けてくれた”って……!」
ユナの薬草店の前には、色とりどりの果物や花束、焼きたてのパンが並んでいた。まるで即席の祭壇のようだった。
僕は、苦い顔でそれを見ていた。
「……違うんだがな」
僕の言葉は、やっぱり誰の耳にも届かない。
* * *
「ねえノアさん、ほんとに“暴走詩式”を止めたんですか!?」
ミカがパンを両手に抱えながら目を輝かせている。彼女は町の誰よりも信じている顔だった。
「ちが……いや……まあ……否定は、したつもりだ」
「でも、ユナさんも否定しなかったし、子どもも“お兄ちゃん”って言ってたし!」
いや、それは……
店の奥では、ユナがいつも通り、棚の並びを整えていた。
まるで、何もなかったかのように。
「僕は……本当に何もしていないんだ」
「うーん、じゃあ誰が止めたんでしょうねぇ?」
……知っているくせに。
* * *
昼過ぎ、店に訪れた中年の男性が封筒を差し出した。
「自治組合からの伝言です。“詩術師様の滞在にかかる食費・宿代は、町が負担いたします”と」
「いや、僕は……」
「すでに町の宿に部屋を確保しております。詩術学院の分校とも調整中でして、可能であれば講義を一度お願いできればと」
僕が返事をするより先に、ミカが身を乗り出す。
「いい宿なんですよ〜! お風呂もあるし、ご飯もすごくおいしいし!」
「そこまでされる理由が……」
正直、厚遇されるだけの働きはしていない。だが——
僕は、彼女のことが気になって仕方なかった。
あの風のような存在。感情と構文の調和。制御を超えた“何か”。
彼女の正体に、少しでも触れられるのなら。
「……わかった。だが……滞在中、こちらにも通っていいだろうか」
ミカがパッと顔を輝かせた。
「ちょうどよかった! 店の人手、足りてないんです! それに学院分校への納品もあるし、手伝ってください!」
僕が返答に迷っていると、ミカはユナの方を振り向いた。
「ユナさん、ノアさんがちょっとだけ手伝ってくれてもいいですよね?」
ユナは少しだけ顔を上げて、いつもの調子で頷いた。
「必要なら、どうぞ」
* * *
こうして、僕の“ボタニカ暮らし”が始まった。
事件を収めた英雄。そう誤解されたまま。
真実を知るのは、僕と——あの風だけだった。