第3話 卒業の日(ノア視点)
朝は、いつも同じ時間に目が覚める。
七時二分。目覚ましが鳴る前に覚醒するように、意識は訓練されている。
眠っていても、どこかで思考は稼働し続けているらしい。
窓の外は曇天。卒業の日にしては冴えない空だったが、僕にとっては好都合だった。
天気など、心の乱れに影響を与える無駄な変数でしかない。
シャワーを浴び、制服を整え、机の上の一枚の紙に目を落とす。
学院の修了証書。それだけで僕の十年間が証明される。
——感情制御詩術課程、主席修了。
皮肉なものだ。感情を制御することに長けていた僕が、感情を一番知らない。
* * *
この詩術学院、正式名称は『感情制御詩術総合学院レキシオン』。
かつて旧文明のBUDDAネットワークの演算中枢のひとつだった施設を改修し、
世界最高峰の詩術師養成機関として再編された。
その厳格さと格式は、王国直属の軍属よりも上とされることもある。
学院長はイルザル・アーシア——僕の叔父だ。
家族関係が影響したかどうかはわからないが、僕はいつも周囲から距離を置かれていた。
卒業式も、やはり退屈だった。
涙ぐむ女子生徒、無意味に拍手を繰り返す保護者たち、
そして、学院長イルザルの演説。
「——諸君らの努力は、未来の安定を支える礎となるだろう。恐れず、誇り高く——」
聞き飽きた。
彼の言葉は、常に整っている。整いすぎて、何も伝わってこない。
それが“体制側の優等生”である彼の限界だ。いや、むしろ、それが理想なのだろう。
「卒業生代表、ノア・アーシア」
マイク越しの自己紹介に、会場が一瞬ざわついた。
——やっぱり、この名前は重い。
壇上に立ち、答辞を読み上げながらも、どこか自分を遠くに感じていた。
誇らしいと錯覚するには、僕は少し賢すぎた。
* * *
父の姿は、当然ながらなかった。
彼は詩術師としての信念を貫き、学院から除名されたあと、イルザルと思想的に激しく衝突し、姿を消した。
そして、数ヶ月前、ひとつの報告が届いた。
——郊外の廃棄区画で身元不明の遺体が発見され、DNA一致により本人と確認された。
死因は不明。事故死とも、病死とも言われたが、真相は誰にも分からない。
「詩式は、もっと人のために使えるはずだ」
彼がそう言っていたのを覚えている。
——理想主義者だった。感情に飲まれた、詩術の犠牲者。
でも。
彼の残した研究ノートだけは、僕の引き出しにずっとある。
感情と詩式の関係。制御式の臨界点。心拍と呼応する律動。
誰も評価しなかったその論文を、僕は何度も読んだ。
感情制御は、武器じゃない。
——僕にとって、それは、父との唯一の対話だった。
* * *
訓練棟の地下に、ひとつだけ非公開の演習室がある。
卒業式のあと、僕はこっそりそこへ向かった。
最後に、誰にも見せず、確認しておきたいことがあった。
目を閉じ、詩式を起動する。
「詩律:零式、感情抑制、展開」
空気が震える。音がなくなる。すべてが沈黙する一瞬。
僕のまわりの温度が下がり、視界の色が抜けていく。
——完璧だ。心拍、律動、詩の波形、すべて制御下にある。
感情は存在していない。
……はずだった。
「……誰か、呼んだか?」
不意に、胸の奥にひっかかる違和感。名前のないノイズ。
ノートの最後のページに、父は書いていた。
——感情のない詩式は、共鳴しない。
それが何を意味するか、僕はまだ理解できていない。
* * *
帰路、学院の門を出たところで、ひとつの噂が耳に入った。
「オルディアのほうで、風の詩を使う変な女がいるらしいぜ」
……風?
『風』という言葉に、僕は思わず振り返った。
詩式には、風属性の構文は存在しない。
厳密には、拡散系演算に属するが、制御が難しく、実用には至っていない。
それを術として使う? しかも、感情と共鳴させながら?
僕の中で、未整理だった父のノートの断片がざわめく。
——まさか。だが、気になる。
この感情は、いったいなんだ?