第9話「旅立ち」
王城の灯は、もう地平の彼方で冷えていた。黒い丘陵を渡る夜風が、乾いた土を細かく剥ぎ取り、馬蹄が粒立つ音で道を刻む。革手綱のにおい、泡立つ唾の白さ、汗に濡れた鬣が頬をかすめ、寒さと熱が交互に肌を撫でた。リュシアは振り返らない。袖口の内側で指先がわずかに震え、彼女はそれを自分で押さえ込む。
「……もう、振り返らない」
「ええ。前へ進むの。父上と母上を助けるために」セリアは顎をわずかに上げ、目線だけを真っ直ぐ前へ送った。頬に残る熱は涙ではなく、恐怖と悔しさの余韻だ。それでも二人の背筋は折れていない。
先頭を駆けるヴァル・ニールが、肩越しに口の端を吊り上げる。風に流れる灰緑の眼差しが、暗い夜に針のような光を置いた。
「その意気だ。だが生き延びるには、もっとしたたかになる必要があるぜ、姫さん方」
彼は馬を横に寄せ、振り返りざまに短く言い切った。
「女二人が顔を隠すだけじゃ目立つ。正体が割れりゃ狙われる。……変装だ」
「変装……?」セリアが首を傾げ、腰帯を握りしめる。
「リュシアは男装して護衛に化けろ。名は――『リュシアン』だ。背もある、通る」
一瞬息を呑んだのち、リュシアは顎を引いて頷いた。手綱を持つ手の力を調整し、呼吸を整える。
「セリアは?」とリュシア。
「行商人の娘。王族の気品は隠せ。目線を少し落とし、言葉を柔らかく。荷の数を数える仕草を覚えろ。数は身を守る」
セリアは短い逡巡ののち、唇を固く結んだ。
「……わかったわ。芝居でも、生き残るためなら選ぶ」
「まずは辺境の自由都市アンダールだ。衣装と道具を揃える。それからオルディアへ向かう」
ヴァルの声が夜気を裂く。彼の外套の内ポケットには、黒羽の小さな徽が沈んでいる。義賊の印は灯さず、夜の闇に溶かすのが流儀だ。
姫たちは馬上で片手を伸ばし合い、手袋越しにそっと指を絡めた。震えは隠しようもない。しかし握り返す力が、風の強さに負けずに残る。逃亡は、ただの逃げではない。二人が自らの役割を選び直す旅のはじまりだった。
荒野の端に、王都の輪郭が薄く沈んだ。ふいに北東の空で雲がほどけ、月が出る。冷えた光が砂利を転がし、跳ねた一粒がセリアの頬をかすめた。彼女は驚かず、ただ瞬きをひとつ減らす。
「リュシアン」――試しにリュシアをそう呼ぶと、彼女は短く「了解」と返した。声色は低く、護衛のそれだ。姉妹は名を変え、姿を変え、言葉の調子すら選び取る。いつか素顔に戻るために、いまは偽名を盾にする。
――同じ夜、王城の地下。
湿った石牢は、苔のにおいと鉄の味で満ちていた。明滅する松明の火が壁の水滴に小さな目を生み、落ちるたびにぴしりと音が跳ねる。縄で縛られたリーネとエスティナは膝を寄せ、互いの肩に触れない距離で耐えていた。鎖につながれたカインは血で固まった袖口を動かさず、瞳だけを揺るがせない。胸当てから剥がされた王家の記章はここにはない。だがその不在さえ、忠義の形を際立たせる。
鉄格子の前。宰相顧問リグナートが、絹のように柔らかい笑みを浮かべる。
「……侍女たちの罪は大きい。ですが――あなた次第ですよ、カイン・バルド」
鎖がわずかに軋む。カインは答えず、ただ視線だけで相手を射抜く。
「私の言葉に従えば、あなたの罪も彼女たちの罪も、不問にしましょう。破格の恩赦です」
声は低く、甘い。蜂蜜を温めたような調子が、石の冷たさに逆らって染み込んでくる。
「聞かなければ?」
「単純です。侍女たちは処刑、あなたも同じ運命。功績を加味しても、大差はないでしょう」
リーネが顔を伏せ、エスティナは奥歯を噛みしめる。ふたりの肩が、鉄の匂いに合わせて小さく上下する。長い沈黙ののち、カインはゆっくりと拳を開き、鎖をわずかに引いた。音は短く、決意は長い。
「……従おう。それで二人が助かるのなら」
リグナートの瞳が、暗がりでほのかに濡れる。鉄格子越し、鎖の上から肩へ触れ、耳朶に熱のある息を落とす。
「ええ。これで、あなたは私のもの」
その囁きは、命令ではない。従属を甘さで包む鎖だ。言葉ひとつで、人は自由を差し出すことがある。欲望や恐怖が、選択の形を擬装するときに。
遠くを駆ける馬蹄。近くで軋む鎖。希望と囚われ――二つの音が、同じ夜を裂いて交わる。音は見えないが、確かに形を持つ。空気を震わせ、胸骨に触れ、記憶に刻まれる。
リュシアンという名は風の盾、セリアの新しい言葉遣いは生の術。ここでは囁きが鎖となり、向こうでは沈黙が剣になる。姫たちは互いの手をそっと放し、各々の役を確かめるように鞍上の姿勢を整えた。放すのは、捨てるためではない。自分の足で、ふたたび掴み直すために。
アンダールまで、あと二日の道。自由都市の市壁の内側では、市場の喧噪に紛れてどんな衣でも名でも買えるだろう。そこから先のオルディアでは、風は商いの匂いを運び、名は値札のように張り替えられる。二人はそれを承知で、いまはあえて選ぶ。名を隠すという自由を。
月が薄雲を渡り、光と影が地面を縞のように走る。馬の鼻息が白くほどけ、足元の砂利が跳ねて頬に当たる。痛みは微かで、目覚ましのようにちょうどいい。リュシア――いや、リュシアンは手綱を少しだけ緩め、護衛の視線でセリアを囲う。セリアは荷袋の口を確かめ、行商人の娘らしく、指で品数を数えてみせる。数は身を守る。数えられるものは、奪い尽くされない。
地下牢の滴が、いままた一つ、冷たい床に弾けた。侍女たちの肩が同時にわずか震える。カインは視線だけで「大丈夫だ」と告げる。言葉は用いない。囁きは鎖になり得るが、沈黙は刃になり得る。守ると決めた沈黙は、どんな誓いより強い。
リグナートはその沈黙も飲み込むように微笑み、踵を返した。足音は軽い。軽い音ほど、深く刺さることがある。彼の衣の香は甘く、石の冷気に似合わない異物の匂いを残した。
夜は深く、風は長い。二つの音はしばらく世界を二分していたが、やがてどちらも遠のいていく瞬間が訪れるだろう。馬蹄は止み、鎖は外れ、残るのは風だけ――その静けさが来るまでに、人は名を選び、姿を選び、言葉を選ぶ。囁きに縛られるのか、沈黙で断ち切るのか。
姫たちの耳に、遠い港の鐘が微かに触れた。アンダールへ通じる古い街道の目印だ。リュシアンは頷き、セリアは小さく笑った。その笑みは庶民の娘のものでもあり、王女のものでもある。選び取った一瞬の表情が、風の中で静かにほどける。
同じ夜。
遠くを駆ける馬蹄と、牢に響く鎖の軋み。
希望と囚われ。
二つの音が、夜の闇を裂いて交わっていた。
――いつか、その音が消え、風だけが残る夜に至るとしても。




