第5話「迫り来る檻」
昨夜の逃走劇からどうにか城へ戻ったのは、夜明け前のことだった。
追手を振り切ったのち、カインが兵に偽情報を流し、姫たちをそれぞれの私室へと戻した。疲労は骨の芯まで残り、胸の鼓動だけがなお速さを失わなかった。
──その夜、リュシアは自室で眠れぬまま朝を迎えた。
閉ざされた窓の外で夜が明けていくにつれ、昨夜の刃の煌めきと足音が脳裏に蘇る。
「父上と母上は……」
王と后の身が気がかりでならなかった。もし宰相派の手が、あの方々にまで及んでいるとしたら──。
衣を正し、髪を結い直す。身支度を整える手は僅かに震えていたが、迷いはなかった。
廊下へ出て、妹の部屋を訪ねる。
扉を叩くと、セリアはすでに支度を終えて立ち上がったところだった。
互いに目を見交わす。昨夜の無事を確かめるように、ただ深く頷き合った。
「父様と母様に会いに行くわよ」
「ええ、姉上」
その声には切実さが滲み、二人の顔は険しく引き締まっていた。
急ぎたい気持ちは山々だった。だが、城内の視線が二人を取り巻くのを感じ、歩みは自然とゆっくりとなった。
長い廊下を、互いの裾の音だけが静かに響かせていく。
---
謁見の間へ続く扉の前にたどり着いたとき、衛兵が槍を交差させて道を塞いだ。
「国王陛下と王妃陛下はご休息のため、今はどなたにもお目通り叶いませぬ」
「そんな……!」
リュシアは思わず声を荒げた。昨夜の危機を思えば、両親に直接無事を伝えるのは当然の務めだ。激情が胸を突き上げる。
だが、その袖をセリアがそっと掴んだ。
「わかったわ、姉上。戻りましょう」
静かな声だった。その冷静さに押されるように、リュシアは唇を噛みしめ、肩を落とした。
---
二人は廊下を戻りながら、声を潜める。
「……父上にも母上にも会えないなんて」
「包囲は完成しつつあるわ。気づかれぬうちに、私たちは檻に閉じ込められている」
分かれ道に差しかかる。
リュシアは小声で言った。「きっと合図があるはずよ」
セリアは真っ直ぐに頷く。「ええ、信じるわ」
そのわずかな言葉が、檻の中に残された唯一の希望となった。
---
やがて別れ、それぞれの私室へ戻る。
セリアは扉を閉め、窓辺の花瓶に目を留めた。
昨日まで白百合が飾られていたはずなのに、今は真紅の薔薇に替わっている。
棘に触れた指先に鈍い痛みが走った。
──部屋にまで手が伸びている。
花の色は鮮烈で、しかし牢の鉄格子よりも冷たく彼女の心を締めつけた。
「姉上のような意思の強さが必要だわ。だから私は激情を選ぶ。理屈だけじゃ切り抜けられない」
囁いた声は炎のように揺れ、薔薇の赤と重なって燃えた。
---
その頃、王宮の回廊に立つカインのもとへ、宰相府の使者が歩み寄った。
「王女殿下方には、しばらく外出を控えていただきたい」
言葉は柔らかい。だが実質は命令だった。
「承知した」
カインは表情を崩さずに答える。だが胸の奥では剣の柄を強く握りしめる。
見えぬ鎖が腕を縛っているようだ。忠義は誰に捧げるべきか──国王か、宰相か。それとも檻に閉じ込められようとしている姫たちか。
昨夜の剣戟がよみがえる。リュシアの冷静な瞳、セリアの激情を選んだ声。
その背を守るために剣を振るった時点で、答えは決まっていた。
脳裏に浮かぶのは、黒羽亭の煤けた梁の下で地図を叩いた男。
軽口の裏に鋭い眼を隠した協力者──ヴァル。
その笑みを思い出したとき、胸の奥にひとつの策が芽吹いた。
それはまだ、言葉にならぬ影のようなものにすぎなかった。
---
一方その頃、宰相府の執務室。
宰相ルクレールは文書を整え、冷ややかに告げる。
「幽閉の準備は整いつつある。姫を閉じ込めるだけでは足りぬ。騎士の動きをも制せねばならん」
顧問リグナートは頷きながらも、瞳の奥に別の光を宿した。
「……彼を、縛るのですね」
想像しただけで、指先が震える。愛とも執着ともつかぬ感情が甘美に胸を満たす。
彼の力を封じ込められる日が来るとしたら、それは誰よりも歓喜に値する未来だった。
冷徹に国を縛ろうとする宰相と、一人の男を縛ろうとする顧問。
二つの思惑が重なり合い、檻の格子はひとつ、またひとつと嵌められていく。
---
王城の静けさは、もはや安寧ではなかった。
廊下も、私室も、回廊も──すべての沈黙が、見えない檻の格子となって姫たちを閉じ込めていく。
その外で、ただ一人の騎士が胸の奥に影の策を抱きながら、遠い未来を見据えていた。




