第4話「追手」(カイン視点)
角笛が遠くで二度鳴った。夜警の合図──だが今夜はそれが、ただの巡回ではないと直感した。石畳には夜の湿り気がこびりつき、街灯の輪は霧に溶けて小さく歪む。
路地を駆け抜けながら耳に入ったのは、市井の者たちのささやきだ。
「王女さまも縛られるんだとよ、感情を」
「王家も例外じゃないらしい」
宰相が進める感情制御の法案は、もはや酒場や井戸端の与太話にすら混じっていた。王家の血筋すら拘束の対象になる──その噂が、王女たちの背を追い立てていた。
背後で足音が増える。鋭く揃った靴音。宰相派の影部隊。捕縛の手はまだ届いていないが、網は確実に狭まっていた。
「左の細路、突き当たりで右。井戸を越えれば市場跡に出られます!」
息を弾ませながらリュシア殿が告げる。結い上げた栗色の髪が汗に濡れて頬へ貼りつき、肩は荒く上下している。それでも声音は震えていない。
──普段の彼女なら激情に任せ、声を荒げて敵へ飛び込んでいっただろう。だがこの夜、違った。胸に湧き上がる恐怖を喉の奥で押し潰し、それを冷徹な思考へと変えて、退路を選んでいた。
「民家は避けて。巻き込むわけにはいきません!」
セリア殿が冷静に告げる。その指先は小剣の柄に添えられ、緊張で白くなっていた。次の瞬間、路地口に飛び出した影の刃を、彼女は力強く弾き落とした。火花が石畳に散る。
──普段のセリアなら冷静に状況を見極め、姉を諫めるだけで済ませたはずだ。だが今夜は違った。目の前で民が脅かされるのを見たとき、彼女は怒りを選び取った。激情に呑まれるのではなく、冷静に決断して刃へ変える。その選び抜いた怒りが、仲間を救う力となったのだ。
「確保せよ! 抵抗は叩き潰せ!」
低く響く号令。制服は纏っていないが、足捌きは訓練された兵そのものだ。
俺は一歩前に出て剣を抜いた。鋼が夜気を裂き、影を払う。
手首、喉、膝──最短で制圧する。刃筋に迷いはない。背後に姫たちの気配を感じるたび、自然と足場の位置を選び変えていた。
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──昼間のことを思い返す。黒羽亭の奥、煤けた梁の下で広げた地図。
長卓の端に肘をついた協力者は、軽口を叩きながらも目だけは鋭く光らせていた。
『今夜しかない。宰相派は王宮内で幽閉の準備に忙しい。市街の警備は手薄になる』
『オルディアへ出るのですね』とリュシア殿。
『ああ。アンダールの検めは厳しいが抜け道がある。最終の寄港は自由都市オルディア。商人の名簿も船も手配済みだ』
彼の手が地図の端を叩き、円を描いた。亡命は逃避ではない。国外で力を集め、国を取り戻すための第一歩だ。
その言葉に、セリア殿は強く唇を結んで頷いた──。
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現実へ引き戻される。洗濯紐が頬を掠め、湿った布の匂いが鉄錆に混じる。屋根の影から三人の影が躍り出る。俺は肩で二人を庇い、半身で剣を構えた。
「退け!」
短剣を弾き飛ばし、敵の膝を打ち砕く。その隙にリュシア殿が顎をしゃくった。
「ここは袋小路にならない。市場跡へ!」
セリア殿は頷き、刃を低く構え直す。怒りの炎はまだ瞳に揺れていたが、それはもはや制御された力だった。
市場跡。壊れた屋台、転がる樽、干からびた魚の匂い。暗がりから別動の影が立ち上がる。数が多い。想定以上だ。
「……逃げられる前に捕えるつもりか」
口の中で呟き、迫る短槍を弾く。敵兵の袖に見えたのは、王城の下役が用いる符号。──計画は筒抜けだった。
「黒羽亭へは?」リュシア殿が問う。
「この数では無理だ。路地が塞がれている。──戻る」
「城へ?」セリア殿が驚きに目を見開く。喉が上下した。
「今夜いちばん警戒が薄いのは外ではなく中心だ。外周は厚く囲まれている。私室の通用口からなら紛れ込める。明日、改めて機を狙う」
言いながら胸に刺さるのは、計画を断念する悔しさだ。本来ならこの夜に亡命を果たすはずだった。だが今は捕まらないことが先決。
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そのとき、路地の影から子の泣き声。兵の手が伸びるのを見て、セリア殿の肩が震えた。
「やめなさい!」
踏み込み、刃。短い悲鳴。小さな体を抱き上げ、母の腕に戻すと、女は震える唇でかすれた声を絞り出した。「……王女さま」
その呼び名は夜風より冷たかった。王家すら例外ではない──そんな噂がもう、庶民の口に定着していた。
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角笛が三度。位置が変わった。包囲がずれていく。
「いまです!」
リュシア殿が示したのは干し草小屋の影に隠れた抜け道。俺たちは身を滑らせ、狭い隙間を縫う。衣の裾が石に擦れ、セリア殿の指が一瞬だけ俺の外套を掴んだ。
背後を足音が通り過ぎる。短い静寂。三つの呼吸が重なる。
「今日は絶対に捕まらない。恐怖を抑え、セリア、あなたのように冷静さを選ぶわ」
リュシア殿の囁きは短く、しかし決然としていた。
「姉上のような意思の強さが必要だわ。だから私は激情を選ぶ。理屈だけじゃ切り抜けられない」
セリア殿の声は熱を帯び、それでいて刃のように研ぎ澄まされていた。
俺は頷き、刀身を半ばまで収めかけてやめる。まだ夜は長い。城へ戻る道にも影は落ちている。
だが確信した。亡命の計画は机上の空論ではない。外へ抜ける道も、再び戻るための道も、確かにある。
今夜はただ、その最初の門をくぐるだけだ。




