出発の日
出発の朝、フォルモーネ邸の空気はどこか沈んでいた。
遠くの空は曇天に覆われ、季節外れの冷たい風が屋敷の窓を叩く。まるでこれからアデラが向かう「終焉の咆哮」の予兆のようだった。厩舎では、アデラの愛馬である黒毛の牝馬・ヴァルティナが、彼女の気配を感じ取って鼻を鳴らしていた。
旅支度を整えたアデラは、淡い青のコートの上に毛皮のマントを羽織り、腰には銀の剣を携えていた。それはアデラがこれまでアンドレとして使用していた剣を彼女の体型に合わせて形を変えたものだった。。今やそれは、彼女自身の「意志の証」となっている。
玄関先で待っていたのは、エリアスと侍女のサン、そして屋敷の使用人たち。皆、彼女を一目見ようと並んでいた。誰もが何か言いたげな瞳をしていたが、言葉にはできなかった。
見送りには公爵家当主であり、アデラの父であるアントンもいた。アデラはいつぶりに父を見ただろうか。
瞳から水が垂れてきそうなのを必死に抑えた。
「アデラ、ごめんな。守ってやれなくて、アデラならきっと成し遂げて帰ってくると信じている。」
言葉は少ないがアデラにとってはそれ以上必要のないくらいいっぱいの気持ちになっていた。
父の顔は、初めて見たほど切なそうに彼女よりも泣きそうな騎士団長の顔というよりも、守ってやれないことを悔やむ父親の顔をしていたからだ。
「行ってきます。お父様。私、絶対帰って、お父様より立派な騎士になるから。」
そして、アデラはゆっくりと歩み寄り、エリアスの前で立ち止まった。
「もう、顔がすっかり引き締まってるわね。」
微笑みを向けると、エリアスはぎこちなくも小さく笑った。
「アデラに笑われないように、背筋を伸ばしてるんです。」
その言葉に、アデラは少しだけ視線を逸らした。胸の奥がきゅっと締め付けられる。
「……じゃあ、私も負けていられないわね。」
そっと、アデラはエリアスの前に膝をついた。そして、彼の両肩に手を置いて、まっすぐその瞳を見つめた。
「あなたがくれた言葉、心に刻んだわ。……だから、生きて帰ってくる。どんなに遠くても、どんなに恐ろしくても、絶対に。」
「僕も、ここで待ってます。どんなことがあっても。」
エリアスはこくりと頷き、震える指先でアデラの手を握り返した。
それは別れの握手ではなく、再会の約束。
その手をそっと離すと、アデラはヴァルティナの背にまたがり、手綱を握った。
「行ってまいります。」
その一言を残して、アデラは振り返らずに走り出した。背中に、誰かの嗚咽のような声が聞こえた気がしたが、彼女は振り返らなかった。
彼女が目指すのは北方。王都から離れるにつれ、風は鋭さを増し、木々の葉は色褪せていった。




