アデラとアンドレ
王都の中央を貫く石畳の大通り。その最奥にそびえるのは、名門フォルモーネ公爵家の屋敷だった。
その屋敷の一室——執務室に響くのは、重苦しい沈黙。
「……結婚、ですか?」
アデラ・フォルモーネは、父の言葉を反芻しながら、低い声で問い返した。
彼女は背筋を伸ばし、まっすぐに父を見据える。漆黒の軍服を思わせる仕立てのいい紳士服に身を包み、肩まで伸びた銀髪を後ろで一つに結んでいる。
すれ違った人は振り返り、後ろ姿まで見るほど美しい容姿であり、剣術の腕も立ち誰もが惚れ、憧れる騎士だ。
そして、誰もが『公爵家の跡継ぎにふさわしい青年』と認める姿——だが、それは仮初のものだった。
「そうだ。お前も分かっているだろう。我が家の立場を守るには、強固な婚姻関係が必要だ。」
父、アントン・フォルモーネ公爵の言葉は容赦ない。
「相手は決まっているのですか?」
「幾つか候補はあるが、オーケン伯爵家の次男エリアスが最有力だ。向こうの家もこちらとの関係を望んでいる。」
アデラは内心、顔をしかめた。伯爵家の次男——エリアス・オーケン。当主であるオーケン伯爵と父、アントン・フォルモーネ公爵は昔からの友人であった。また、オーケン伯爵家はこの国でも有数の名門で貴族で、優秀な嫡男と病弱な長女がいること以外、ほとんど情報のない貴族だ。
アデラは次男がいたことすらも知らなかった。
「……断ることはできませんか?」
「できん。」
父の即答に、アデラはわずかに奥歯を噛みしめる。
「父上。私は公爵家の跡取りになるのです。それならば、政治的な婚姻ではなく、剣と知略で家を支えるべきでは?」
「それは結婚と両立できる。むしろ、今のお前の立場を盤石にするには、婿を迎えた方がいい。」
「ですが——。」
アデラは言いかけて、ぐっと口を噤んだ。
彼女は男として生きてきた。家を継ぐために、そして自分を守るために。だが、もし結婚すれば——この仮面は、いつか剥がれることになる。
それは絶対に避けなければならない。
「……少し考える時間をください」
「時間を与えたところで、結論は変わらん。覚悟を決めろ、アデラ。」
父の低い声が、執務室に響き渡る。
「今の私の名前はアデラではなく、アンドレです。父上、間違えないでください。」
アデラは名前を訂正し、執務室をあとにした。
——彼女の運命を、大きく揺るがす知らせとともに。