ネタバレ注意 私たちの世界とは違う歴史を辿る 北欧・東欧・ロシア
今回はこの世界の北欧・東欧・ロシアの史実とは異なる歴史展開の一部について書いておきます。
史実では スエーデン王グスタフ2世アドルフは38歳で戦死しましたが、
この世界では長命(1594-1670頃)でした。
代わりに史実ではロシアを強国へと導いた皇帝ピョートル1世 (1672-1700頃)が、若くして戦死しています。
アドルフの妃マリアも精神を患うことなく、夫婦関係は相思相愛で円満でした。
史実では第一子は女子で死産でしたが、この世界では男子で(1621-1700頃)父親に匹敵する功績を残しました。
この世界ではグスタフ2世アドルフを戦死させた名将ヴァレンシュタイン(1583-1660頃)は、
カトリックに改宗せず、スエーデン軍最高指揮官としてグスタフ2世アドルフに仕えました。
よって神聖ローマ帝国皇帝の命で暗殺されることもありませんでした。
デンマーク・ノルウェー・ドイツ北部・コーラ半島・カレリア全域などを征服したスエーデンは、「スカンジナビア及びバルト連合王国」を結成、この世界の欧州屈指の強国となっていきます。
結果、スエーデンは史実より海外領土獲得競争を有利に展開し、世界各地に多くの貿易拠点を獲得していきます。
ロシアは史実より弱小な内陸国となり、オスマントルコは黒海・コーカサス方面でロシアに対して優勢です。
またこの世界では新教のスエーデン王国と旧教のポーランド・リトアニア連邦とイスラム教のオスマントルコ帝国は、互いに宗教的には本来不倶戴天の敵でしたが、軍事的・経済的な理由から関係改善が進んでいきます。
ジグムント2世(1520-1572)のヤギェウォ朝断絶後、
ポーランドを引き継いだのは、選挙王にして名君ステファン・バートリ(1533-1615)でした。
バートリの治世中に名宰相ヤン・ザモイスキ(1542-1620頃)は、
ポーランドの立憲君主制・議会政治を推し進めました。
バートリの死後ポーランド・リトアニア連邦は、史実よりも国王は象徴的存在となりました。
スタニスワフ・ジュウキェフスキ(1547-1625)や、
あのグスタフ2世アドルフに連戦連勝し重傷を負わせた、
名将スタニスワフ・コニェツポルスキ(1591-1670頃)が最高司令官に任命され、
ポーランドはドニエストル川とドニエプル川の間の黒海沿岸地域などを版図に加えました。
スェーデン・ポーランド・オスマントルコが強勢となった結果、オーストリア帝国・プロセイン帝国・ロシア帝国は弱体化が進んでいきます。
この世界ではスェーデン・ポーランド・オスマントルコ・オマーン・バーラトは、
北極海・大西洋全域・北海・バルト海・黒海・地中海・紅海・ペルシャ湾・インド洋全域まで連なる経済圏をつくりあげていきます。
「海底二万里」最初の設定では、ネモ船長は元ポーランド貴族でした。
ロシアによって民族運動を弾圧され、家族全員を虐殺された過去を持っていましたが、
この世界ではポーランドはドイツやロシアに食い物にされるような歴史はたどらずに済むでしょう。
ポーランドは18世紀後半から19世紀前半にかけて産業革命もなしとげ
タデウシュ・コシチュシュコ(1746-1820頃) カジミエシュ・プワスキ(1746-1820頃) ユゼフ・ポニャトフスキ(1763-1840頃)が最高指導者の時代は不敗を誇りました。