「イスラエルの子ら」
一部残酷な表現があります。
参考文献
ポルトガルのインド進出とゴアの異端審問所 堀 江 洋 文 (著)
植民地期インドのユダヤ・コミュニティとシオニズム 井 坂 理 穂 (著)
インド・ユダヤ人の光と闇―ザビエルと異端審問・離散とカースト
徳永 恂 , 小岸 昭 (著)
われらバビロンの川の畔に座りて、シオンを思いて涙を流しぬ。
われらは河岸の柳の木々にわれらの琴を掛けり。
われらを虜にせし者が、われらに歌を求めたからである。
われらを嘲る民がその楽しみにせんと、
「われらにシオンの歌を一つ歌へ」と言ったからである。
われら異國にて、異教徒の囚われの身となりて、
どうして主の歌を歌えようか。
シオンよ、もしわれ汝を忘れなば、
わが右の手を萎えさせ給え。
もしわれ汝を思い出さぬなら、
もしわれエルサレムをわが最高の喜びとしないならば、
わが舌を顎に付かせ給え。
主よ、覚えていてください。
エドムの人々のことを。
エルサレムのあの日を。
彼らがこう言ったのを。
「これを破壊せよ、これを破壊せよ、
この都の礎までも破壊せよ。」と
破壊者であるバビロンの娘よ、
あなたがわれらにしたことを、
あなたに仕返しする人は幸いである。
あなたの嬰児を取って
岩に擲つ者は幸いである。
『旧約聖書』 詩編137 より
〃 約451年間ポルトガルが植民地として支配したゴアは、
ポルトガルのアジアにおける植民地支配を統括するための拠点となっていた。
ゴアの異端審問所は1560年に創設されたが、
ゴア異端審問所に限っても、
1561年から最初の中断の1774 年までの213年間だけで、
16202人が裁かれたとの記録がある。
拷問にかけられ自白を強要されたうえで、
火炙りされるなど残虐な方法で処刑されることも珍しくはなかった。
日本では聖人扱いされている聖ザビエルも、
イエズス会の一人としてそれに積極的に関わっていた。
彼らにとってそれは神に捧げる神聖なる行為であり、
没収する財産目当てに、特に富裕な者が熱心に狙われたりもした。
ポルトガルは、主イエスを十字架にかけ、
礫を投げた罪深きユダヤ教徒だけではなく、
ヒンドゥー教徒にも改宗を強要し、
従わない者の多くは迫害され財産が没収された。
ポルトガルの支配下にあった頃のセイロン島においても、
憎きイスラム・ムーア人に対する大規模な迫害が行われていた。
ポルトガルにとっては、
イスラム商人との平和的交易関係樹立は考えられなかった。
イベリア半島でのレコンキスタに始まり、
その後の北アフリカでのイスラム勢力との交戦は、
ポルトガル人にインド洋においても十字軍の聖戦的メンタリティー
を植え付けていた。〃
引用元 「ポルトガルのインド進出とゴアの異端審問所」 堀 江 洋 文 など
1720年7月 インド西海岸 コーチン サスーン・ベン・サレハ
ここ数日わたしは理由もなく胸騒ぎを感じていた。
51年前までこの町は170年間ポルトガルの支配下にあった。
祖父の世代から伝え聞いた悪夢の時代の記憶が何故か頻りと脳裏に甦るのだ。
心を静め我が一族の無事と、同胞と異教徒の友たちの無事を祈るため、わたしは礼拝堂に来ていた。
コーチンではポルトガルがオランダに駆逐されたのちは、異端審問は終わりを告げたが、
ポルトガル占領下の地域では、いまだ多くの犠牲者が出ていた。
このまま異端審問所を放置しておくわけにはいかない。
マラバール海岸全域から、異教徒を敵視するキリスト教徒は駆逐しなければならない。
ただオランダとはうまくやっていける可能性はまだ残されてはいる。
オランダは我々の為にこの町からポルトガルを追い払ってくれたわけではないが、
結果的には我々は生き延びることができたからだ。
いつの日かポルトガル占領下のゴアを解放しなければならない。
だがどうやって? ゴアの守りは堅い。
海と河と山と湿地に守られた天然の要塞なのだ。
わたしが祈りを捧げようとしたその時だった、悪い知らせが届いたのは。
2番目の息子ヨナタンが慌てた様子でやって来てわたしに告げた。
――父上、ダヴィードが乗船した船が消息を絶ちました――
語学に秀でた息子は、オランダ東インド会社に請われ、
通訳として雇われていたのだ。
ダヴィードは兄弟なかでは最も優秀だったが、変わり者でもあった。
金を貯めたら、語学学校、翻訳事業、出版事業などを手掛けるのだと言っていた。
インドの少数派の研究が趣味であった。
・・・・・・・・・・・・
「――以上だ、あとは皆に屋敷に集まるように伝えてくれ。」
「わしはオランダ商館に立ち寄った後帰宅する。」
ヨナタンに思いつく限りの指示を与えて
――わたしは息子の無事を祈った。 胸がつぶれる思いであった。
『旧約聖書』 詩編137 の最後の一節には抵抗を覚える人は多いと思います。
それが普通ですよね。 私だってそうです。
ただこれは比喩的表現とも取れますし、
世界の長い歴史の中ではもっとひどいことが、
山ほど行われたことでしょう。
その時もし自分が当事者であったら、
自分にとってとても大切な人が被害者となったなら、
言葉にするのもはばかられるような目にあって、
それがこの先もずっと続くかもしれないとしたら
はたしてどうでしょう。
難民となって逃れた先でも、また繰り返されていく、
それが数百年続いてきたとなると、
またいつそれが起きるかわからないとなると・・
〃たとえ世界中の人々から憎まれようと、
我々は生き延びる為に必要ならその道を選ぶ〃
という答えにたどり着くのではないでしょうか?
その者が背負った責任が重いほど・・・
しかし・・
〃そんなに酷い目に合わずに済むんなら、サッサと改宗しちまえよ。〃
とか思いますよね、日本人ならば。
でもそう思うのはそれだけ日本人が、恵まれた環境で安寧をを貪ってきたからでしょう。
過酷な環境に生きてきた者ほど、持てる者が少ないものほど、
信仰に縋るよりほかないわけで、それだけ信仰心も強くなるわけです。
自分たちの国を持たない―― 法律も裁判所も警察も軍隊も、いざという時
当てにできないどころか敵にまわるわけですから。
金目の物でお目こぼしでもしてもらうしか身を守る方法がない、
金儲けに躍起になって〃守銭奴〃にでもならざるを得ないわけです。
無論信仰心とは無縁なところで欲得の為に信仰を利用する者は、
いつの世も世界中に蔓延っていますが。