盲点
「奈良本部から西、110番が入っております。ただいま、奈良市西大寺東町二丁目において、不審者を目撃した、との通報あり。詳細判然としませんが、確認願いたいどうぞ。整理番号1005番担当……」
「PBから本部、了解」
まったく。激レアが出そうな予感がするってのに。
俺はスマホゲームのガチャ画面をホームに戻し、イライラしながら無線に応答した。
夜の八時を回り、人はまばらだ。だが帰路を急ぐ車は多い。
サイレンを鳴らしながら、細く曲がりくねった道をぬけ、駅前の通りに出た。
「PBから本部、付近現着。通報者は」
「本部からPB、了解、通報者は匿名、とりあえず駅前周辺で調査にあたれ、どうぞ」
「PB了解」
なんだそれ。そんなことでいちいち通報すんなってんだ。
白バイをロータリーの路肩に寄せ、周囲を見渡す。特に騒ぎは起きていない。怪しい人物も、見たところいなさそうだ。
溜息をつきながら、近くを見て回る。駅が早足の疲れた顔を吞み込んでいく。最後の力を振り絞るように、自転車を逆走させている者もいる。
さすがに駅前はデパートや複合ビルが建ち、往来を行きかうヘッドライトがなくても、それなりに明るい。
ロータリーの真ん中に、タクシーが一台停まっている。ドライバーの中年男は腕を頭で組んで、待ちぼうけている。
「すみません、警察ですが」
ドアガラスをコツコツ叩くと、目を閉じていたドライバーが、ビクッと飛び起きた。
「はい、はいなんでしょう」
と慌ててドアガラスを下げる。
「この辺りでなにか変わったことはありませんでしたか」
「え、変わったこと……、いやぁ、見てませんねぇ」
「そうですか。仕事中、失礼しました」
「あぁ、いえ……。あ、そういえば」
踵を返しかけたとき、ドライバーが、俺を物珍し気に見上げて言った。
「そこの横断歩道で、男の人と女の人がぶつかったかなんかでね、ひと悶着ありました。女の人がなにか男の人にぶちかましたみたいに見えましたけどね」
「はぁ。その男になにか不審な動きは」
「うーーん、慌てて落としたもの拾い上げて、逃げるみたいに向こうに」
と左を指さす。駅の改札方面だ。
「駅に入りましたか」
「いやーー、そこまでは見ていなくてね、なんせ夜は景色が金ぴかに光っちゃって、その男の人なんか、真っ黒ですよ、ほとんど見えない格好だから、危ないですよねぇ」
そんなに暗くないだろうに、どうせうたた寝でもしていたのだろう。
「では、女性は」
「あぁ、少し遅れて男の人と同じほうに歩いていきましたよ。怖かったんでしょうな」
「そうですか。どうも、それでは、お気をつけて」
たいした収穫はなさそうだと判断し、話を切り上げて、デパート側へ足をむける。
ちらほらと、デパートの紙袋をさげた人や、従業員と思しき人とすれ違う。
地下への入り口脇のベンチに、ご婦人が一人腰かけている。
「すみません、警察の者ですが。あの辺りでなにか見かけませんでしたか」
横断歩道のほうを指差し尋ねる。
ご婦人はゆったりと振り向き、片手を頬に添えた。
高価な装飾品の紙袋をいくつか脇におき、ブランド物のバッグを膝にのせている。
「私はここでタクシーを待っていましてね、そうそう、女の方の短い悲鳴を聞きましたわ。どうしたのかしら、とこう、見たら、男の方が包丁をね、女の方に向けていて、まぁ、大変。そう思っていたら、男の方が慌てて逃げていきましたわ。近頃は物騒ねぇ」
「警察には通報されましたか」
「いいえ。足が痛くてね。あんな場所ですもの、きっと誰かが通報してくれますわ。女の方も無事なようでしたし。あなたも来てくれたことだし、もう安心ね。あの男の方、早く捕まえて頂戴ね」
そこへタクシーが滑り込んできた。
タクシーというには高級車すぎる。お抱えの運転手だろうか。スーツの男が後部座席のドアをあけ、ご婦人を乗せると、こちらには目もくれず行ってしまった。
タクシーがいた場所から視線を上げると、立体駐車場がある。
横断歩道からはかなり離れているが、見えない距離でもない。
デパートからのびる横断歩道を渡り、反対側の歩道へむかう。
こちらは帰宅途中の会社員や学生が多い。
立体駐車場の正面の柱に警備員が背をもたせかけている。
「警察ですが、少しよろしいですか」
「なんだ」
不躾な口調で警備員は顔をしかめる。
「あちらの横断歩道で、なにか不審な動きはありませんでしたか」
「ふん、いちいちそんなところまで見てられるか。こっちは忙しいんだ」
初老の警備員は、胸を張り、片眉を上げてこちらを見上げる。
「そうですか。ご協力どうも」
「おい、まてまて」
軽く敬礼して踵を返しかけると、警備員の声が追ってきた。
「なにか」
「じっくり見ていたわけじゃないがな。姉ちゃんが屈む態勢で、それを男が下から覗いているって相方が言ってたな。そんな、あんな場所でするこっちゃないだろ、ってみてみたんだが、どうも物が二重に見えるんで、俺はようわからんかったが」
警備員の顔をまじまじ見れば、片眼の瞳孔が靄がかかったように白い。
「悲鳴のような声を聞きませんでしたか」
「悲鳴? いや変な奇声ならしょっちゅうだからな」
言っているそばから、塾帰りの学生グループが、かかげたスマホにむかって、フーー!と叫んでいる。
「わかりました。どうも」
立体駐車場から車が出てきたのを機に、警備員と別れ、学生グループと同じ駅方面へ歩く。
複合ビルに塾も入っているのだろう、学生がまた何人か出てきた。
駅に近づくにつれ明るく、街灯に寄ってきたユスリカを頭で振り払いながら、不審人物がいないか見て回る。
街ゆく人は皆周りなど見えないふうで、ただ体の動くままに任せているようだ。
この街を見守っているような人間、テラスで話しているカップル、は自分たちしか見えていないし、あそこでタバコをくゆらせている会社員、は小刻みに足をゆすってイライラしているところをみると、自分のことで頭がいっぱいだろう。
複合ビルの正面は、カーブをえがき、イルミネーションが空から流れ星でも落ちてきたように明滅している。
ちょうどカーブが地下レストランへの階段となっていて、その前に、バーテン風の男が呼び込みをしている。
「警察ですが」
「ええ、なんすか、なんすか。職質っすか」
「いえ、そこでなにか騒ぎを見ませんでしたか」
例の横断歩道はバーテン男の目の前だ。掲げていた矢印つきの看板をおろして、片手で頭をなでる。
「いやーー、知ーらないっすねー。これでも俺仕事中なんで」
「君の目の前だろ。なにも見ていないのか。いつからいた?」
「いや、数時間前からいますけど。特には。いや、あそこのカフェに可愛い子が座ってたんすよ。そっちばっか見てたんで」
バーテン男はテラスを指差す。まったく。どいつもこいつも……。
苛立ちが顔に出ていたのか、バーテン男は慌てて付け足した。
「いや、まじなんもなかったっすよ。野次馬とかいたらさすがに気づきますって」
「そうか。……ご協力どうも」
腰に手をやり、横断歩道を振り向く。バーテン男が階段を下りていく音がする。
車がたまに通り過ぎ、歩行者が早足で渡っていく。
空はすっかり俺のスラックスと同じ色だ。生温い風にバーテン男の店から香ばしい魚介類の匂いが混ざる。くそ。腹が減ってきた。
横断歩道の真ん中あたりが、雨も降っていないのに、こころなしか濡れているようだが、気になるのはそれだけだ。
異常なし、もう戻ろう。とんだ無駄足だったな。
改札側から帰ろうと、横断歩道に背を向けると、下を向いていた女性とぶつかった。
きゃっ、と短い声をあげる。
そんなに勢いづいてなかっただろ、と心の中で悪態つくが、こちらを見上げた顔に、その思いは吹き飛ばされる。
「おっと、失礼しました」
「あ、ごめんなさい、お巡りさんにぶつかっちゃって」
いえいえ、そういいながら女性の両腕を軽く掴んで支える。
よくよく見ると額にうっすらと傷がある。綺麗なことに変わりはないが……。
妙な既視感がよぎった。ふむ、どこかで会ったことがあるのか……。好みの女性と会った場所を忘れるとは、我ながら面目ない。
女性は横断歩道に一瞥をくれると、薄っすら微笑んで、もう一度ごめんなさい、と囁いた。
女性はバッグを肩にかけなおし、横断歩道は渡らず、軽く会釈をして立体駐車場のほうへ消えていった。
ふん、まぁ、美人に遭遇したことだし、いいとするか。
駅前からロータリーの白バイに乗りこもうとしたところで、どこからか発狂したような叫びがいくつか聞こえた。
数人が声のしたほうを振り返る。
自分も行かないわけにはいかない。来た道を駆け足で戻り、ふらふらと集まる野次馬をたよりに、複合ビルの裏へ回る。
パチンコ店と複合ビルの間に細い道があり、そこに人だかりができかけている。
「通してください、警察です」
古い民家が数件あり、放置された自転車が倒れている。複合ビルの裏口はその奥で、扉から半狂乱の女性や、放心状態の男性が出てきている。
扉をぬけると、白いフロアタイルに赤い血が筆を振ったようにしたたっていた。
公衆電話の設置スペースを囲うように立ち入り禁止のコーンとバーが立っている。
跨ぐと職人服姿の男が腹から血を流して倒れていた。
清掃員の女性が近くで腰を抜かしている。
「私、あの、ずっと動かないから……、肩を揺すったら、こんなになっちゃって……」
口をパクつかせ、今にも失神しそうだ。急いで無線連絡を入れる。
職人服姿の男の首筋に指をあてる。――脈がない……。苦悶の表情を浮かべ、俺になにか訴えかけるようだ。
いったい誰が――。クソ。くだらない一日で終わるはずだったのによ――。
立ち上がると、ひらりとなにかが舞い落ちた。
紙切れか。ベルトの間に挟まっていたようだ。裏返してみる。
『バーーカ』
「なんだこれ。誰のいたずらだ」
つい大声を出してしまい、周りの野次馬がぎょっとする。
催事は思ったより盛り上がった。有名な鍛冶屋も何件か出店していたが、奥様方は切れ味が良ければたいてい銘柄は気にしない。
「先輩、一人で大丈夫ですか」
「生意気言ってんじゃねぇ」
師匠と後輩の弟子は同時開催の別の催事場へ、出店とはいえ一人で任せられるのは初めてだ。
作業場を出るさい、いつものように神棚に手を合わせ、事務所前の掲示板をチラリと見やる。
師匠たちの催事、俺が今から向かう催事、近所の祭りの知らせ、それから――。
「あんたになら殺されてもいいかもな」
指名手配犯の文字がなければ、ハイボールかなにかの広告写真に載せられそうな彼女に呟き、気合を入れて、社用車に乗りこんだ。
しかし、あのシェフと言いふらしていた男。うちの店の前で冷やかしやがって。聞いたことがないですねぇ。じゃねえっての。
まあいい。新作も出せたことだ。
包丁をくるんだナイフケースを抱え、立体駐車場へむかう。
夏場とはいえ、さすがに七時半を回ればすっかり夜だ。昼間の蒸し暑さが余韻を残している。
横断歩道にさしかかったとき、クラクションが俺に向かって盛大に鳴らされた。
横断歩道だぞ、バカヤロー。感情をこめて車を睨み返すと、なんと轢かんばかりに発進してきた。
飛びのくように、ぎりぎりでよけられたのはいいが、うわっと甲高い声のあと、背中が冷たくなる。
慌てて振り向くと、女性が手にしたドリンクの蓋が転がり、中身が半分ほどこぼれていた。俺の背中にかかったのもこれか。びちゃっと道路にも小さな水溜まりができている。
「すんません。車が突っ込んできよったもんで」
転がった蓋を取ろうとしたところ、自分のナイフケースも後方に開いて落ちているのが見えた。
女性が駆け寄って、くるまれた包丁をじっと見つめている。
その目はどことなくぎらつき、口角も上がっているようにみえる。気のせいか……。
「いやーー、すんません。包丁職人でして。怪しいものじゃございません」
一つ地面に落ちた包丁を拾い、ぺこぺこしながら女性の手からナイフケースを受け取ろうと手を伸ばす。
と――、見下すような女性の視線が、車のヘッドライトに照らされ、俺を射抜いた。
この顔――。額に切り傷が浮かび上がる。包丁で切りつけられたような……。
ふっ、と女性が微笑んだ。
「あんた……、もしかして……」
これは大変だ、逃げなくては。
蓋を捨て、一目散に立ち上がって走った。後ろを見るのが怖い。
あんな綺麗な、いや、あんな女が怖いだと? 包丁職人の俺が? いや、しかしあの微笑――。
腕が総毛立っているのがわかる。呼び込みの声がする複合ビルを駆け足で通り過ぎ、裏手へ。
とにかく落ち着ける場所へ。ちらりと、流し目で後ろを確認する。はっきりとはわからないが、あの女は追いかけてはいないようだった。少しホッとする。
パチンコ屋の脇を通り、複合ビルの裏口を開けた。深く息を吐く。
ポケットをまさぐり、スマホを出す。
「いや、待てよ……」
俺が通報したと知ったらあの女、復讐しに来やしないだろうか。
はっと顔を上げ、少しいりくんだ先にある、公衆電話スペースに足をむけた。
スマホよりは、バレにくいだろう。そう思い、受話器に耳を当て110番にかける。
「……あ、すんません、実は、え? あ、事件、事件やと思います。実はあの女を、えっと、不審者を目撃しましてね、え、私の名前? いやー、匿名でお願いします――」
ぽんぽん、柔らかい感触が肩に触れた。
なんの気配もなく、あまりに優しい感覚に、無防備に振り返った。
――腹になにか異物感がする。――なにか冷たく、えぐるような……。
目の前には深紅のノースリーブワンピース。
甘いローズの香りに混じる、鉄の匂い。体の内からのぼってくる。
目線をさげる……。包丁が、腹に……。うちのモノじゃないな――。
悔しいような、腹が立つような、悲しいような感情がごちゃまぜになり、ハハッと笑う。
女性が俺の目を覗き込んできた。
額に傷跡……、可哀想に、いったいなにがこの女をこんな風にしちまったんだ――。
女性は右手で包丁の柄を握ったまま、美しく薄っすらと微笑んだ。
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