4.小話・アカシア王宮
「この愚図めが」
アカシア王国第一王太子、グレグリンは足元で泣き喚いている愚弟を冷たく見下した。
泣き喚いている理由は「剣を鞘から抜こうとして自分の手を切った」からである。
どうしたらそんなことになるのか、理解に苦しむ。
だいたい、この慢心の限りを尽くしている弟が、魔物の森の試練を完遂したという報告すら怪しいものだ。
そもそも、三十分も歩ける体力があるかどうか。
そしてこの愚図は、試練が終わったらその成果として、演舞を披露するという習わしを忘れていたらしい。
演舞とは剣術の型なぞるものだ。
よって勝敗は関係なく、技術の美しさを見せるためのもの。
グレグリンは、愚弟が試練を達成したとは到底思えなかった。
だから確かめるために手合わせをしようと思ったのだが……このザマである。
腰巾着の三人も気に食わなかった。
その三人だが、槍使いは暴飲暴力によって入院、黒魔道士は「お肌が、お肌がああ」という謎の悲鳴をあげて部屋に引きこもり、盾使いは悪質な娼館通いが祟って性病を発症したらしい。
(ここまで能ナシの集まりだというのに、むしろなぜ、先日までは一応でも魔物の森にいられたのか……いっそ不思議だな)
「グレグリンさま!」
「なんだ」
さっさと愚弟を見捨てたグレグリンは、駆け寄ってきた兵士の報告を聞く。
「宮廷魔法師の方々が、今すぐ執務室へとのこと。なんでも、今度は西の町で井戸が枯れたとか」
「またか……宰相はどうした」
「それが……近頃は良くなられていた持病が再発したとのことで」
「重鎮が老いぼればかりというのも問題だな」
井戸枯れは、つい先日から頻発している事案だった。
原因はとんとわかっていない。
それ以外でも、宰相のように体調不良を訴える者の急増、それによる人手不足、王城内の魔力量の低下、建造物の劣化、水質悪化による疫病発生などなど、大から小までさまざまな問題が一気に押し寄せてきている。
そのため、元々神経質なグレグリンの機嫌は、ますます下がるばかりだ。
(父上も父上だ。あのウィステリアに勝てるわけがないだろう。そもそも不戦条約を結んでいるというのに……軍事強化にばかりかまけて、やれ徴兵だのなんだの)
己は違う。
グレグリンにはその自負があった。
自分だけは、政のなんたるかを弁えている。
父より、愚弟より、誰よりも己が優れているのだと。
それは客観的に見ても、おおむね正しいと言えた。
父王は軍事にばかり躍起になって市政をかえりみない。
第二王太子は王子の資格なし。
比べて、グレグリンは勤勉であり、努力家であり、王族の誰よりも市政を意識している。
己は高貴な王族である、という強い矜持を胸に堂々と歩いてきた。
別の言い方をすれば、誰よりも選民意識が高い。
ゆえに、身分が高くても無能なら切り捨てるが、身分が低いなら有能でも重用することはない。
ましてや、平民以下の、どこの馬の骨とも知れない流浪者であるなら、同じ空気を吸うのも我慢ならなかった。
(ユニークスキルだと。そんなものが、なんだというのだ)
先代の王……祖父にあたる男の癒し手を務めていたという少年。
あれこそ、グレグリンが最も毛嫌いする類である。
あの頑固で偏屈な先王が、名医や宮廷白魔道士は追い払ったのに、なぜあの少年だけは受け入れたのか……。
グレグリンは、ユニークスキルというものが嫌いである。
ユニークスキル。
固有。無類。別格。唯一無二。
「特別」の代名詞。
グレグリンは、それを許せない。
「特別」は王族であるべきだ。
王族だけが「特別」なのだ。
己こそが「特別」。
その他は凡庸。
この世はそうでなくてはならない。
名などとうに忘れてしまったが……目障りな少年が消えてくれたことで、日頃の鬱憤は少しは晴れた。
もっとも現在は、それを相殺する多忙さに追われている。
グレグリンは頭の中から、どこまでも影の薄かった少年の面影を追い払った。
——彼らは知らなかった。
その少年が「あの人、辛そうだけど大丈夫でしょうか」「頑張ってください」と思うたびに、ユニークスキル《魔力調律》によって王宮の人々の健康維持に役立っていたことを。
あの少年がひっそりと町を散策しながら、目についたインフラ問題を改善していたことを。
かの少年が《魔力調律》を発揮するたびに、その場所の魔力の巡りが良くなり人々にも影響していたことを。
正真正銘、少年がいたからこそ第二王太子が試練の泉まで辿り着けたことを。
身分はなくても、とある強力な加護が少年にかかっていることを。
……そして、少年を捨てたことで、アカシアの王宮は加護をかけた存在の怒りを買ったことを。
彼らはまだ知らない。