アンメット・メディカル・ニーズ
ちゆちゃんは、学校ではいつも独りぼっちです。
習い事の水泳教室でも、塾でも、いつも独りぼっちです。
ちゆちゃんのパパやママが『学校でお友達を作ったら?』とすすめても、別にお友達なんていなくても大丈夫と答えます。
もしかしたら学校でいじめにあっているのではないかとも考えましたが、そういうことはないみたいです。
ただ、ちゆちゃんは独りでいることが好きで、独りでいることがおかしいと考えたことがない子でした。
「友達ができない。人とうまく付き合えない。人が怖い。他人に興味が持てない……そんな人は独りで悩まないで。お医者さんにご相談ください。大人だけでなくお子様でも、ご相談いただけます」
そんなうたい文句のCMに、何となくテレビを見ていたちゆちゃんの両親が食いつきました。
テレビ画面に表示されていたQRコードをスマートフォンのカメラでスキャンすると、近くの小児科クリニックでも治療が受けられるということが分かりました。
そのクリニックは日曜日と木曜日がお休みで、今日はあいにく木曜日だったので、明日になったら予約を入れようということになりました。
クリニックの予約を取ってから、お母さんはちゆちゃんに『今度お医者さんに行きましょう』ともちかけました。
ちゆちゃんはびっくりです。
「私、どこも悪いところなんてないよ?」
お医者さんに行きたくない、という顔をしながら、お母さんにたずねます。
「こわがらなくて大丈夫よ。どこか悪いところがないかどうか、診てもらうだけだから」
お母さんは、ちゆちゃんが不安がらないように、にっこりと笑いました。
それから一か月後、学校が夏休みになった平日に、お母さんとクリニックにかかりました。
院長先生は、普通の小児科医として有名なだけではなく、子どもの発達や思春期の問題などについても詳しい医師だともっぱらの評判でした。
院内はそれなりに混んでいましたが、お母さんがアンケートを書かされたりして時間が過ぎていくうちに、ちゆちゃんの名前が呼ばれました。
「初めまして。今日はどのような症状で?」
診察室の中で、先生がちゆちゃんとお母さんに語りかけます。
「はい……実は、テレビのCMを見て、友達ができない子のための治療があると聞いてきたんですが……」
お母さんは、ちゆちゃんの方をちらちらと見ながら先生に話します。
ちゆちゃんは、不思議そうな顔をしています。
先生は、ああなるほど、という顔をすると、お母さんの方に向き合いました。
「予め申し伝えておきますが、まずは診断を受けていただきます。必ずしもお母様のご希望通りの薬を処方するとは限りませんので、その点はご了承ください」
「はあ……」
お母さんは、先生の言葉に戸惑いを隠しきれません。
テレビCMで『お医者さんにご相談ください』と言っていたから来ているのに、こんな難癖のようなことを先生から言われるとは思っていなかったからです。
しかし、先生はお母さんの様子に構わず、手早くアンケート用紙のようなものを用意しました。
それから先生は、ちゆちゃんとお母さんにいくつもの質問をしました。
ちゆちゃんがもっと小さいころは、一体どんな子どもだったのか。
普段の学校の様子や、家庭内での様子はどうか。
お母さんから見て、困ったところやこだわりの強いところなどはないか……。
ちゆちゃんとお母さんが答える度に、先生はアンケート用紙に何かを書きこんで、点数をつけていきます。
「最後に質問です。ちゆちゃんはこれから先も、お友達がいなくても困らないと思っているかな?」
先生は、ちゆちゃんの方を向いてたずねます。
「私は……今はいなくてもいいかな、と思います」
「それでは、お母様はどう思われますか?」
今度は、ちゆちゃんのお母さんの方を向いてたずねます。
「私は、娘には他人と普通の付き合いができるようになってほしいだけなんです。独りでいるのが好き、と言えば聞こえはいいですが、学校は集団生活を学ぶ場所です。そのような場所で独りでいることを選び続けるようでは、この子の将来にとってマイナスになると思ってしまいます」
お母さんとちゆちゃん、それとアンケート用紙に書いた数字を見比べて、先生は答えました。
「新しいお薬、試してみましょうか?」
ちゆちゃんとお母さんは受付で会計を済ませた後、処方せんをもらって、クリニックの隣の薬局へ入り、待合室のイスに座っていました。
とりあえず2週間、新しい薬を飲んでみることになったのです。
しばらく待っていると、女性の薬剤師に名前を呼ばれて、ちゆちゃんとお母さんはカウンターに向かいました。
「飲み初めにカッとなったり、イライラする事がありますが、飲み続ければ次第に落ち着いてきます。もしも肌のブツブツや、それ以外でも何か変わったことがあればいつでも連絡してください」
薬剤師は、ちゆちゃんのお母さんを不安がらせないようにしながら、薬の確認を行います。
お母さんは、飲み方などを確認すると、薬を受け取りました。
「お大事になさってください」
薬剤師に見送られながら薬局を後にしようとした時、入口近くに立っていたスーツ姿の二人組の男にぶつかりそうになりました。
「ああ、申し訳ございません!」
二人組の男は、ちゆちゃんのお母さんよりも早く、やや大げさなくらいに謝ってきました。
お母さんは、男たちに軽く会釈すると、足早に薬局を後にしました。
薬局に患者がだれもいないのを確認すると、男たちは薬剤師の方に歩み寄りました。
「お世話になっております! お隣の先生の所でもソラレスの処方が増えているようでして、今日はその情報提供のために伺ったのですが……」
ちゆちゃんは、翌朝から薬を飲むことになりました。
1日1回朝食後だけ飲めばいいとのことなので、夏休みが終わる前に試してみることになったのです。
薬は好きではありませんが、お母さんもお父さんも『あなたのためだから』と言うので、とりあえず飲んでみました。
ちゆちゃんが飲む薬は、白いカプセルで、表面には『ソラレス10』と小さな黒い文字で書かれています。
カプセルなのでちょっと飲みづらいですが、いやな味はしません。
飲んでみても、特に変な感じはありませんでしたので、その日はいつものように午後に水泳教室に行きました。
水泳教室に着いてから、ちゆちゃんは落ち着かない気持ちでいっぱいでした。
他の子が何の話をしているのか、気になって仕方ないのです。
いつもなら他の子が何を話していようが、他の子からどう見られようが、気にすることはありませんでした。
しかし、今は違います。
他の子とお話をしたり仲良くしないと、まるで自分の価値がないように感じられて仕方がないのです。
「あのっ……」
水泳教室が終わった後、更衣室で雑談をしている女の子たちに声をかけました。
その中には、ちゆちゃんのクラスメイトもいます。
「何?」
「確か、同じクラスの……」
女の子たちはたがいに顔を見合わせます。
思わずはずかしくなってしまいますが、それでもちゆちゃんの口は止まりません。
「あのっ、もし良かったら、私も話に混ぜてくれないかな!?」
勇気をふりしぼって、ちゆちゃんは答えました。
「……別にいいけど」
「でも、私たちの話題についていけるのかな?」
「まあ、いいじゃん。断る理由も無いし」
ちゆちゃんは、何とか女の子たちの話の輪に入れてもらうことができました。
それからもちゆちゃんは、色んな子に話しかけました。
夏休みが終わった後の学校では、水泳教室で会った子の他にも友達が何人かできました。
ちゆちゃんに話しかけられていい顔をしない子もいましたが、それでもちゆちゃんはへこたれません。
友達の話題についていけるように、学校のみんなはどんなものが好きで、何が流行っているのかを一生懸命勉強しました。
スマートフォンやSNSも、以前より多く使うようになりました。
ちゆちゃんの変化に、両親はとてもおどろきました。
特に、友達ができない事を心配していたお母さんは、涙を流すほど喜びました。
お医者さんに行く手間や、流行についていくためのお金はかかりますが、それでもちゆちゃんが友達付き合いができるようになった事を考えれば安いものです。
薬を試してみて良かった、とお母さんは思いました。
ある国の製薬会社が、世界で初めて孤独に効く薬の開発に成功しました。
孤独はいまや大きな社会問題であり、日本をはじめとする世界の国々にとっても悩みの種です。
孤独を感じた人が起こす様々な社会的問題のために、あらゆる国で大きな損失が生じているという報告があるからです。
この薬は大人はもちろん、子どもでも安全性が確認されており、いろんな人に使うことができます。
詳しい薬理作用についての解説はここでは省きますが、この薬を飲んだ人は、孤独でいる自分にたえられなくなり、人との交流を求めて積極的に行動するようになるのだそうです。
「世界初の孤独症治療薬であるソラレスは、既に120以上の国々で使われており、今や日本においてもトップ10に入る年間売上高を記録しています!」
製薬会社の会議室で、営業部長の男が声を張り上げています。
「つい最近までは、孤独はあくまで個人の問題と考えられていました! しかし、ソラレスがある今は違います! 孤独は高血圧や糖尿病と同じように社会全体の問題であり、また治療できる病気の一つに過ぎないことも分かったのです!」
会議室のスクリーンには、ちゆちゃんの両親が見ていたのと同じCM映像が流されています。
「現在もテレビCMなどによるプロモーションは行われていますが、より多くの人にこの薬を使ってもらい、社会と患者とわが社に利益をもたらすため、我々も情報提供により一層はげみましょう!」
会議室にいる社員たちが、大きな声ではい、と返事をしました。
その中には、薬局でちゆちゃんたちとぶつかりそうになった男たちの姿もありました。
アンメット・メディカル・ニーズとは、いまだ満たされていない医療ニーズ、つまり、いまだ有効な治療方法がない疾患に対する医療ニーズのことを言い表す言葉です。




