メルヘンの街からの刺客
8杯ものトマトジュースを胃袋に流し込んだ林さんの顔は徐々に青ざめていく。
「う……。マスター、もう一杯注文を……。うげぇぇぇぇっ」
腕を上げて、さらに秋川さんにトマトジュースを頼もうとするのを常連客達が総出で止める。
「ちょっと、もう無理でしょ林さん!」
「ここでブチ撒けるのだけは勘弁してくださいよ。食事中なんだから」
マスターも慌ててカウンターから出てくる。
「林さん、トイレに行ったほうがいいんじゃないですか!?」
「そ……そのようです。あ、ウンコはしてこないんで、マスター誤解しないでね」
秋川さんは顔を赤らめながら、林さんから顔を反らした。
「誤解してません」
しばらくするとトイレから出てきた彼は、顔を洗ってもとの座席に腰掛ける。豪快にジャブジャブと洗ってきたようで髪も濡れていた。そして皆の方に向かって悠々と片手を上げる。
「胃の中のものを全部吐きだしたらずいぶん楽になりましたよ。いやもう元気ハツラツです。ご心配なく皆さん。林は復活しました!ありがとうありがとう」
西田さんは顔をしかめている。
「まったく汚い話を……。私、カレー食べてる最中なんでやめてくれます?」
○○○
トマト中年が復帰して10分も経った頃だ。
俺は誰よりも早く異変に気づいていた。喫茶店の駐車場に車が止まっているのだ。俺の席からは車そのものは見えないのであるが、その下品なエンジン音ですぐに「アイツが来た!」と分かってしまった。
「げっ!夢路さんだ」
すぐさま机の上の参考書を片付け、テーブルの上に代金を置く。そして大急ぎで会計を済ませてたことにして喫茶・米騒動から脱出しようとした。
「マスター!お金、ここに置いときますんで!」
秋川さんは呆気に取られている。
「どうしたんですか佐伯さん!」
「アイツがっ!アイツが来たんです!ですから僕は退避します」
「ちょっと困りますよ!ちゃんとレジで精算してくれなきゃ」
テーブル隣の窓を開いて外に脱出しようとした俺の行動は、秋川さんを驚かせてしまう。
「貴方、受験生でしょ!警察の厄介になっちゃうようじゃ大学なんて行けません」
食い逃げと勘違いしたのか、俺の服を後ろから引っ張っている。バイト初日だというのに、なんて正義感の強い魅力的な新マスターだろうか!惚れた!しかし今は非常に困る!
「誤解です秋川さん!その美しい手を離してください」
「ダメ!絶対に行かせません!理由をちゃんと私に説明してからです!」
「その時間がないんです。見逃して」
一刻を争うのに無為に時間は過ぎていく。 ああ、もう無理だ。車のドアを閉める音が聴こえてしまった。すぐに奴のヒールの音も聞こえてくる。カツカツと音を立てて徐々に入口のドアに接近しているのが分かる。
察しのいい林さんはここで気づいた。
「うわっ。夢ちゃんだぞ」
続いて西田さんも状況が分かった。
「夢路さん、ちょっと久しぶりだな。そう言えば佐伯くんと林さんの天敵だったか」
もはや回避は不可能だと分かっている。そもそもアイツが駐車場に来た時点で、どうあっても鉢合わせするのだから。普段なら別に構わないのだが、秋川さんの目の前で醜態を晒すことだけは避けたかった。
服を掴む秋川さんの白い美しい手を、俺はとっさに握った。
「ちょ、ちょっと!急になんですか佐伯さん!?私の手を握って誤魔化さないで」
「お願いです。今から色々ありますが、マスターを辞めないでくださいね秋川さん。それでは……アディオス」
「え?」
呆気に取られている秋川さんの隙をついて俺はとっさにカウンターの中に逃げ込む。
「すいませんマスター!見逃して」
「ちょっと佐伯さん!どこに隠れてるんですか」
喫茶『米騒動』に新たなる客が入店してドアベルをカランカランと鳴らしているのが聞こえてきた。間一髪のところだった。入ってきたのは長い黒髪の女性客である。新マスターの秋川さんは、トレーを抱えたまま彼女に頭を下げた。
「いらっしゃいませ」
「ああ陽菜ちゃん。お母さんお元気?今日から貴方はお仕事だけど頑張ってね」
「……え?」
新マスターは客の顔を見たのだが、会った記憶はない。何故に客が自分の名を知っているのか不思議で首を傾げる。新客はそのことには触れず、そのままカウンター席にドシッと腰掛け、足を組んだ。
「今日から休業って言ってたから来たけど、マスターの出発までには間に合わなかったなぁー。しょうがないわね、小矢部からは遠かったのよ陽菜ちゃん。高速使わないと1時間半もかかるんだから。疲れたんで、さっそくコーヒーお願いしますね」
「はい、コーヒーですね」
この女性客も喫茶『米騒動』の常連客である。年齢は20代の後半といったところだろうが、正確な歳は分からない。本名は「夢路」と言われているが、本当にそうなのかは怪しい。社会人には違いないだろうが職業も謎だった。ライターという説もあるが、俺は実は某国のスパイなんじゃなかろうかと俺は怪しんでいる。彼女に関して本当に分かっているのは「小矢部市在住」ということのみだ。
さっそくテーブル席の林さんが、にこやかに新客に会釈する。しかし彼女は顔を少し歪めた。
「げっ。林さんもいたんだ」
「ちょっとなんですか!私いつも、いるじゃないですか」
店内の空気はちょっとピリっとしてきた。雰囲気の変化を察したマスターは、またまた中村さんに小声で尋ねる。
「あの……中村さん。この方は……?」
「夢路さんっていうエキセントリックな人」
「なぜ私のことを知ってたんでしょうか?」
「さあ……謎の多い人やから……。なんのせ小矢部市からここまで通ってくるぐらいやし」
ここで小矢部というフレーズを耳にキャッチした林さん。ここが意中のマスターとの会話のチャンスと判断し、張り切って立ち上がった。
「ゴホンッ。そうそうマスター。小矢部市のことを教えてあげようか?あそこは石川県に近いんだけど……」
「それは知ってます」
「だよね……」
あっけなく乙女に拒絶された林さんはそのままカウンター席に着席し、ガックリうなだれる。肩が震えてるのでさぞかしショックだったのかと思いきや、そんな繊細な人ではなかった。
「くぅぅ!塩対応!そんなところが堪らないっ」
隣に座っている西田さんが引いている。
「気持ち悪いなぁ。ニヤニヤしてるぞ、この人」
幸いなことに、夢路女史はカウンター台を隔ててすぐそばに隠れている俺の存在に全く気づいていない……。俺はこのままコイツが帰るまで俺はここでやり過ごすつもりだ。しかしその場にいないというのに、コイツは俺に容赦がなかった。
「今日はアイツはいないの?いつも参考書を読んでる超ナルシストなアレ」
『アレ』。その言葉だけで西田さんは誰のことか分かっている。
「佐伯君か。アレはそうですね、どこかというと……」
俺がカウンターの裏に隠れていることを知っている西田さんは、マスターに目配せした。マスターは一瞬視線を足元にやるも、すがるような目で見つめる俺のために会話を合わせてくれた。
「あ……ああ~。佐伯さんですね。さっき帰りましたよ」
夢路女史はコーヒーを飲みながら、悔しそうな顔をする。
「ちっ。いないのかアイツ。今日こそ徹底的に罵倒してやろうと思ったのに。だいたいアイツ、本当に大学受験の勉強なんてしてんのかしら?こないだなんて中学生の単語帳見てたわよ。阿呆でしょ」
カウンターの裏側で俺は震え上がった。このままだと秋川さんを前にして死ぬほど俺の悪口を言われてしまう。だが……富山市在住サラリーマンの言葉で一時的に窮地を脱することになる。
「まあまぁ夢ちゃん。佐伯君のことなんていいじゃないですか。彼がテーブル席で1人でそろばん弾いてようが、エロ動画見てようが関係ない。そんなことよりもマスターの陽菜ちゃんですよ。せっかくこのカフェに働きにきてくれたんですから、彼女にも富山について語ってあげましょうよ。特に小矢部市のこととか」
先程、拒絶されたばかりだというのにそんな程度で凹むトマト中年ではない。再び「小矢部」ネタで秋川さんとの会話を試みるつもりのようだ。
林さんは渋い柄のネクタイを直し、妙に改まって小矢部市についての話を切り出した。
「あのマスター。『メルヘンの街おやべ』って知ってる?」
「はい。でもちょっとだけです」
首を傾げてキョトンとした表情で、ふっくらした顔の林さんをみつめるマスター。彼女には心なしか彼の顔がトマトに見えていた……。だがはじめてマトモに秋川さんと会話することになったオッサンは、そんなことなど露知らずマックスハイテンション。興奮しながら小矢部について語り始める。
「あのね、あのね。小矢部市って色々と『メルヘン』を推してんのさ。例えばメルヘン米とかメルヘン建築とか、ある意味でメルヘンという概念の新境地だろう?まあでも最近はアウトレットができてちょっと様相が変わってきたけどね……。そうそう、ついでに木曽義仲もアピールしてるんだよね小矢部って。これが木曽義仲っていうのが……」
突然に夢路女史が両手の手のひらでカウンター席を強く叩き、立ち上がった。その音に秋川さんも驚く。
「あの……夢路さん?どうされました」
彼女は林さんにグイグイ詰め寄ると、すぐさまそのネクタイを掴んだ。
「え!何すんの夢ちゃん」
「お前、今ちょっと小矢部市をバカにしただろ!いやかなり馬鹿にしたな」
「違う違う!私はただ事実をマスターに伝えただけだ。メルヘン米やメルヘン建築は重要な情報だと思うんですよね」
「いいや、その後だよ!『なんで県外人の木曽義仲をフィーチャーしてるんだ小矢部市は』って馬鹿にしただろ。そんな波長を感じたぞ。『倶利伽羅峠の戦い』を知らんのか貴様」
「誰もそんなこと言ってないでしょ!波長違いだ」
なぜか喧嘩のきっかけとなってしまったマスターは西田さんに助けを求める。
「ごめんなさい西田さん!私のせいで何故だか林さんが絡まれはじまめました」
「仕方がありません。佐伯君がいないと、彼女の怒りの矛先は林さんに向かうんです」
秋川さんはようやく事情を把握した。しかし理不尽な話だった。
「そんなっ」
周囲の目などお構いなしに夢路女史は敵をヘッドロックしはじめる。
「貴様は死ね!」
「ちょっとっ。夢路さん何すんのぉぉ」
社会人同士の見たこともない醜い喧嘩を前にしてハラハラする秋川さんをよそに、西田さんはお冷を飲みながら、蜃気楼の件の復讐とばかりに夢路女史の意見に同調した。
「林さんは絶対バカにしてますね~。県庁所在地の奢りを感じますよ」
しかし隣にいた中村さんはその太い両腕で西田さんの背を押し、2人の方向にグイグイと押し出す。
「いいからっ!西田さん。アンタは喧嘩を止めてこられ」
「ちょっ!勘弁してくださいよ。夢路さんがああなっちゃうと前マスター以外には手がつけられないんだからっ。貴方も知ってるでしょ」
だが中村さんの力に押し負けて夢路さんの前に出されてしまった西田さん。するといきなり夢路さんが全力でブン回してきた椅子のクッションで後頭部を殴られてしまった。
「ぐぁっ」
「西田さん邪魔ぁぁぁぁ!どいて」
そのまま西田さんはすぐに撤退してしまい、全く頼りにならない。しまいにヒートアップした夢路女史はプロレスラーのように、椅子を掴んで持ち上げる。どうやら椅子で林さんを殴るつもりらしい。
さすがにいつも笑顔だった秋川さんの顔もこわばっている。
「夢路さん……。店が壊れちゃいますからやめてください」
その声は妙に迫力があった。秋川さんの一言で我に返った夢路女史は、息を切らして持ち上げていた椅子をそっと降ろす。
「はっ!私としたことが……」
その様子に西田さんも驚く。
──おお……。夢路さんが佐藤さん以外の人間の言葉をはじめて聞いたぞ。これがマスターの貫禄か。
乱れた背広を直しながら林は起き上がった。
「いや貴方いつもこうですよ!」
「申し訳ない。実に申し訳ない」
夢路は全員に向かって頭を下げる。こうしてあっさりと米騒動に平穏が戻った……。
しかし間に合って良かった……。カウンター裏に隠れてなければ、秋川さんの目の前でヘッドロックの刑に処されていたのは俺だっただろう。しかし……いつになったら俺はここから出られるんだ!?ずっと秋川さんの足を見つめていなければならないんだろうか!?