大岡裁き(^O^)/
秋川さんが来ると早々に旅行用の服装に着替えてしまった旧マスターの佐藤さん。彼は大きなトランクケースを引っ張りながら店のドアの前に立つと、にこやかに我々の方を向いてパナマ帽を掲げる。
「じゃあ後は新マスターに任せますから。皆様ごゆっくり!10月になったらまた会いましょう」
常連客達に別れを告げると、旧マスターはドアベルが鳴らしてドアの向こうへと消えていく。彼は本当に米騒動を後にしてしまったのだ。
「本当にいっちゃったぞ……」
振り返ればカウンターにはウェイトレス制服に着替えた秋川さんがいる。彼女は微笑みながら、窓から見える旧マスターに向かって手を振り続けた。
「いってらっしゃい佐藤さん!お気をつけて〜」
というわけで彼女が今からこの店のマスターになったのだが、突拍子がなさすぎて未だに信じられない。
「本当に秋川さんが、この店のマスターやるんですか?」
俺の問いかけに、彼女は困った顔で首を傾げる。
「私じゃダメですか?」
「ま、まさか!いやもう、大歓迎ですよ。ねえ皆さん……」
俺が言い終わるよりも早く、林さんは手を上げている。
「はいはいはいっ!新マスター、僕はトマトジュースお願いしますよ」
続いて西田さんも注文をはじめる。
「じゃあ私もコーヒーのおかわりを頼みます」
「はい、少々お待ちください」
なんと順応力の高い中年達だろうか。なんの躊躇いもなく彼女をマスターとして受け入れているではないか。──くそ!結局、一番若人の俺が出遅れた。
「俺、バナナジュースで!」
負けじと俺も注文をする。
○○○
彼女の仕事ぶりはまだたどたどしいが、制服を着た若き美女が料理を届けにきてくれる……それだけで我々常連客には衝撃的な事件だった。
「お待たせしました佐伯さん。バナナジュースです」
微笑みながら俺のテーブルにガラスコップを置く彼女。しかし俺は新マスターから漂うなんとも言えない甘い香りにメロメロになってしまっている。
「ありがとうございます。ところで秋川さんはどこの大学に在籍してらっしゃるんでしょうか……。よければ教えてください」
「京都の○○大学です。本当は地元の大学に進みたかったんですが事情が色々とありまして……」
──おお……有名な私立じゃないか。
大学名を聞いただけで、早くも心が折れてしまった俺。しかし……粘ってみせる。
「じゃ……じゃあ1人暮らしをされてるんですね?凄いな。憧れます」
「うふふ。1人暮らしなんて、そんなに憧れるようなものじゃないですよ。佐伯さんにもじきに分かります。なんだかんだで地元の滑川が一番落ち着きますしね」
──な……なんて可愛いんだろう。
微笑むマスターを見て俺は震えた。しかしこの感情、そのままぶつけるわけにはいかない。一口飲んで、彼女への想いをバナナジュースに託す。
「いやぁ、バナナジュース美味しいなぁ〜!砂糖配分が最高なんだなきっと!絶妙ですねこれ」
「お好きなんですね、バナナジュース」
なんと優しい目で俺を見てくれるのか。これは客とマスターという関係を、一気に超えるしかない……などと舞い上がっていると西田さんと林さんがどうでもいい喧嘩を勃発させてしまう。
「分かんない人だな林さんは。閉園した大川寺遊園地にしたってノーカンですよ!当時は富山市じゃないでしょう。あれは大山町です」
「おいおい……ノーカンってなんだ。市町村合併効果を認めなさいよ!今は富山市なんだからカウントしなきゃ駄目だっての」
「アンタ、どんだけミラージュランドに対抗する気でいるんですか!」
アイツらは一体なんの議論をしているのだろう。全く分からないが、マスターとのいい雰囲気を壊されては困るのだ。
「うるさいなっ!もう遊園地対決はいいだろ。今、重要なのはバナナジュースであって……。あ……マスター!ちょっと待って!」
マスターは2人の間に割って入ってしまう。
「私の立場としてはミラージュランドを推さざるを得ません。早月川を挟んで、この滑川のすぐ側にありますから」
魚津に肩入れしたことで西田さんの顔に笑みが浮かび、林さんの顔に絶望の色が浮かぶ。
「ですよね!やはり魚津市民と滑川市民は早月川仲間です。ありがとうマスター!」
「そ……そんなマスター。その裁定は公平性に欠けます。前のマスターは常に県民平等の精神を掲げて、我々を導いてくださいましたよ」
ここでマスターはクルリと林さんの方を向き、最高の微笑みを浮かべる。
「しかし富山市にはファミリーパークという県民にとって至高の動物園があるではないですか!」
この瞬間、林さんにはマスターが地上に降臨した天使のように見えたという。アホ県民2人の諍いを鮮やかに解決してみせたマスターの手腕に、中村さんは感心する。
「素晴らしいっ。よくあんなアホな諍いに終止符を打ったぜアンタ!大したもんやぜ」
前マスター以外には裁定不可能だと思われた議論に終止符を打ったマスターの県民力に、俺も密かに感心しきりである。
「ところで大きなったねえアンタ。小さい頃に会ったきりだったけど、こんな美人になって喫茶店に戻ってくるとは思わんかったわ~」
「やだっ。やめてください中村さんっ」
秋川さんは少し照れた。銀色の丸いトレーを両手で縦に持ち、顔の下半分を隠すような仕草をしている。
「それにしても可愛いちゃねえ~その制服。よう似合っとるわ」
マスターは制服のスカート部分を掴んで広げてみせる。水色のチェック柄のスカートを広げる仕草はまるでカーテシーのようだ。
「これですか?可愛いですよね。あんまりマスターっぽくないですけど、これはこれで気に入ってるんです」
そのあまりに可憐な仕草に、オッサン2人も思わず秋川さんの方をみてしまう。一方、俺は顔を単語帳に向けつつ「俺はそういうの興味ないから感」を限界まで演出しながら、目一杯目を右に動かし彼女を見つめている。
──くっ。可愛すぎて、もはや悔しい!
セミロングの髪を縛ってポニーテールとなっているだけでも、衝撃的な可愛らしさである。その上、白いカチューシャが頭上に乗っているときたもんだ。これはもう制服を用意したであろう前マスターを褒め倒したい。私服の秋川さんも大人っぽくて素敵だったが、制服姿の彼女はもはや「可愛い界隈」のファンタジスタと言っても過言ではなかろう。
「私も、そういう服を着てみたかったわぁ~。今からでも着れるかね?どうマスター?」
コーヒーメーカーに豆をセットしていた秋川さんは、中村さんがウェイトレスの格好をしてる姿を一瞬想像してしまった。そしてブルっと体を震わせた。
「いやっ!中村さんは、今の服が似合ってます。その大きな虎の顔がプリントされた黒い長袖シャツが、とてもいい味を出していると思いますよ」
「あらぁ!お世辞の上手なマスターながやちゃ~。オホホホホホ」
新マスターは恰幅の良いこのオバサンに好印象を持ったようだ。いつだって中村さんはどこか高岡大仏のような、ドッシリとした安心感を漂わせているのである。時々、後光が射しているように見える時もある。
そんな世話焼きな中村さんは、改めて常連客達を秋川さんに紹介することにした。
「えっとね。あの2人の名前を教えてあげっちゃね。カウンターでチキンカレーを食べてるのが、魚津市民の西田さん。そんで向こうのテーブルでトマトジュースばっかり飲んでるの富山市民の林さん。覚えれた?」
「はい。西田さん、林さんですね。子供の頃に1度だけ会ったことがありますから」
するとさっそくテーブル席の林さんが手を上げる。実はこれが8度目である。
「あの……。その林です。またまた注文すいませ~ん」
中村さんは、マスターの腰をポンッと叩く。
「あの人は若干異常者の側面はあるけれども。まあ基本的には普通のオッサンだちゃね。安心しられ、あっはっはっは」
「はい。大丈夫です」
マスターがテーブル席に向かうと、耳をポリポリと掻きながらオッサンはメニューを見つめている。彼の口の周りにはかなりのトマトジュースが付着しており、若干ドラキュラを彷彿させる姿をしている。
「お待たせしました林さん。ご注文をどうぞ」
「えっと……。何度も悪いですね。やっぱりトマトジュースを追加してください。男はトマトジュースを大量に飲んでなんぼですよね」
「かしこまりました。トマトジュース1つですね」
マスターが一時カウンター裏のバックヤードに消えたのを確認し、俺は後ろを振り返って林さんに小声で注意する。
「やめときましょう林さん。もう8杯目ですよ。だいたいトマト好きじゃないでしょ貴方」
「そうそう、トマト苦手なんだよなぁ~僕!でも今日はカリウムを摂取したい気分なんだよ。ついでにリコピンも」
「過剰摂取ですよ!顔が青ざめてます」
西田さんも忠告する。
「っていうかトマトジュースを勢いよく飲んでもモテないから!しかも8杯て貴方」
「マジで?苦手な飲み物を克服しようという男気は、女子に伝ってません?」
「微塵も伝わってないですよ!貴方の好みなんて向こう知らないんだから」
カウンターに戻ってきたマスターは微笑んでいる。
「お三人とも、こちらはどれだけ注文してくてくれても構いませんからね」
秋山さんに近づきたい一心で、財布と胃袋の限界まで注文してしまおうとする我々は、前マスターの術中にハマってるのだろうか?