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「は……?」

「聞こえなかった? 私、出ていこうと思うの」


 聞こえていないわけがない。むしろ、聞こえなければよかった。

 立ち上がった彼女が、急に遠くに感ぜられる。遥か彼方で彼女はやはり、笑っている。僕の嫌いな笑顔で笑っている。そんな、泣きそうに笑わないでくれ。


「実はね? ずいぶん前からもう帰って来いって、お母さんに言われてるの。もともと、自分でお家賃を稼ぐって約束だったから」

「だから、帰るのか」

「うん。きみも嬉しいでしょ? 嫌いな子がいなくなって」


 唇が痛い。何故って、強く噛み締めているから。その事実に気付いた僕は、反射的に顔を背ける。ビールの缶の中、自分の影で真っ暗なそこを睨みつけた。

 彼女が僕を見下ろしているのを感じた。足先だけの彼女は、じれったく親指と親指を擦り合わせている。言いにくいなら言わなきゃいいじゃないか。やっぱり、僕は彼女が嫌いだ。


「引っ越しの準備もあるし、すぐ帰るわけじゃないけど、明日にはこの家は出ていくよ」


 彼女は誤魔化すように言うが、僕にとってはいつ引っ越すのかなんて重要じゃない。僕は彼女の家を知らないんだから、彼女が僕の家を出てしまえば終わりなのだ。彼女はきっとそれを知ってるし、家を聞いたって教えてくれはしない。

 だから、彼女の言葉は、明日でこの生活を終わりにしようと。そう言ってるのに他ならなくて。


「だから、今夜だけ……ね?」

「――嫌だね」


 僕はきっぱりと、彼女を見上げてそう言った。


「出てくなら今出てけ。なんならタクシー代くらい出してやるから」

「……いいじゃん。最後に一晩くらいさ」

「自分で言っただろ? 僕は君が嫌いなんだ。嫌いなんだよ。出てくっていうなら、一刻も早く出てってくれ」


 困ったように微笑む彼女に、僕は構わずまくしたてる。驚くほど、するすると出てくる言葉。僕は彼女のキャリーケースをひっつかみ、がらがらと玄関まで引っ張って行く。

 飲みかけのビール缶を引っ掛けて、中身がこぼれる。気にしない。

「待ってよ!」と、慌ててついてくる彼女の足音。今、彼女はどんな顔をしているのか。怒っているに違いない。怒っていてほしい。

 乱雑に玄関を開け放ち、キャリーケースを放り出す。


「さぁ、出てけよ」


 さぁ、怒れよ。泣けよ。罵倒しろよ。

 彼女を振り返り、手で外を指し示す。生ぬるい風が吹き込んでいた。彼女の黒髪が揺れ、その顔を隠す。それをかきあげる彼女の、白く小さな手。


「うん、出てく」


 幽霊のように、すぅっと。彼女は僕の隣を通り過ぎて行った。軋むドア。彼女が後ろ手に閉める。


「じゃあね」


 ドアの隙間に覗く彼女の横顔は、やはり笑っていた。


 かちゃりと、無機質に玄関は閉まった。行先のなくなった僕の手はだらりと下がり、彼女の小さな足音が遠ざかっていくのを、ただただその場で聞き続ける。やがてそれも聞こえなくなって、僕は居間へと戻ってきた。


 テレビをつける。消した時にやっていたバラエティーはまだやっているようで。部屋の中には、黙って立ち尽くす冷蔵庫と、テレビから漏れる笑い声だけ。置いてあった缶ビールに無意識に口をつけ、あぁ、これは彼女のか、なんて思い出す。僕のは、あそこで無様に転がって、布団の上で染みを作っているやつだ。

 まぁ、どうでもいいかと口をつける彼女のビールは、すっかりぬるくなっていた。缶の口を見ると、ほんのり口紅が残っている。


「あっあー。間接キスだね、キスしちゃったねぇ」


 なんて、からかわれるのに身構えて。でも、それはいまや杞憂でしかなくて。


 ――彼女は、出て行ったんだ。


 心の中に、嫌いになるほどシンプルな事実が、やっと入ってきた。


 あの生活は、変わらないと思ってた。変わらないものなんて、あるわけもないのに。でも、彼女は確かにそう思わせたんだ。


 嗚咽が漏れた。目頭が熱くなるのを感じる。

 僕は彼女を嫌いだったじゃあないか。でもこれじゃあまるで、好きみたいじゃあないか。自分で自分が分からない。

 知らず知らずのうちに、僕の手は携帯へ伸びていた。この渦巻く何かを吐き出してしまいたい。そして一人だけ、僕の話を聞きたがるもの好きがいる。

 数度のコール音。耳元でやかましく、彼は僕を迎えてくれた。


『珍しいじゃないか、お前から電話してくるなんてなぁ! 明日は槍でも降るんじゃないか、えぇ?』

「……うるさいですよ、時間を考えた方がいいんじゃないですか」

『気にすんな。どうせお前と違って、寂しい一人暮らしだからよ』


 豪快に笑う先輩は、いつも通りだった。彼女が話を聞いてもらいたがっていると予言した将来のノストラダムス。考えてみれば、彼はたしかに僕らの世界を滅亡させてみせた。つい、自虐的な笑いがこぼれる。


『なんだお前、珍しく笑って。俺を笑うために電話したのか?』

「違いますよ」

『じゃあなんだよ。めんどくさいから早く話せ』


 冗談めかして、彼は待ちきれないとばかりに催促してくる。僕の話をただただ聞いて面白おかしく笑う彼が、僕は嫌いだ。嫌いだけれど、結局いつも話していた。

 だから今日も、僕は話した。彼女の状況をかいつまみ、帰ってきた彼女との会話をかいつまみ、僕が追いだした経緯をつまびらかに。


「なんで、彼女は出て行っちゃったんでしょうね」

『行っちゃった、か。素直になったな、お前』

「違う……のかどうかも、僕にはわかりません」


 電話越しに唸る声がした。僕でもわからないことを聞いているのだ。第三者で、伝え聞いているだけの彼にわかるはずもないだろう。途切れた会話の合間で、布団を洗わなきゃあなんてぼんやり思う。


『そりゃあお前、お前に迷惑かけたくないからだろ』

「は?」

『だってなぁ、今日はお前大学なかったからいいけど、これから毎日彼女に同伴するわけにもいかないだろ』

「そんなの……」


 別に気にすることじゃない。僕がいつ、彼女にそこまでしてやると言った。一緒に住むだけなら構わないはずだ。そして、ゆっくりと頑張ればいいじゃないか。

 きみのことが嫌いな僕のことなんて、気にしなければ――


『気にするだろ。だって、お前の前ではずっと笑ってた子なんだぜ?』

「……」

『俺でもわかるんだ、お前もいい加減わかってるだろ? 彼女が笑ってたのは、お前のためだって』


 言い返せない。だって、それは今日、まさに感じたことだったから。

 そうだ、彼女はいつも笑っていた。

 大学に行く途中で、足を震わす彼女が? 朝起きれないことを、肩を震わせながら話した彼女が?

 彼女はいつも自然に笑っているようで、無理をしていた。なっはっはという笑い声が、切れかかったピアノ線の悲鳴みたいで、僕は嫌いだったんだ。


『で、お前はそんな彼女が嫌いで、そんな彼女が好きだったんだろ?』

「何でですか」

『だって、そうじゃなきゃ泊めたりしないだろ。今日みたいに強引に追いだしゃあよかった』


 先輩は言葉を続ける。


『お前みたいに嫌い嫌い言ってるやつはな、自分が一番嫌いなんだよ。周りを嫌い嫌いって攻撃して、本当に嫌いな自分を相対的にマシに見たいのさ』


 僕の話を聞いてばかりの先輩が饒舌にしゃべる。彼はもはや予言者などではなかった。携帯から耳を離せと要求する脳に、手は答えない。


『だからな、お前は頼られるのがたまらなく嬉しいのさ』


『嫌い嫌いと言いながら、お前は彼女の存在が嬉しくて――』


「先輩」


『……なんだ?』

「もう、いいです」

『そうか』


 もう、認めたから。聞きたくないでなく、もう聞く必要がない。

 煩雑だった頭の中がいやにすっきりとしている。考えてみれば、とてもくだらない。要は意地を張っていたということで、それこそまさに、僕の嫌うところじゃないか。


『最後に一つだけ、な』

「何ですか?」

『このまま終わるんじゃねぇぞ』

「余計なお世話です」


 その一言を残して、僕は電話を切る。「つれないなぁ」という彼の顔が目に浮かんだ。

 しかし、本当に余計なお世話なのだ。だって、自分で自分の尻も拭けない大学生なんて、僕は嫌いだ。

 窓に目を向ける。綺麗な満月を背景に我が物顔でぶら下がる、淡いピンクの一張羅。


 彼女がやってきたときのワンピースが一人、寂しく揺れていた。

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