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 家に辿り着く。癖でノックした玄関を開けてくれる足音はなくて、乱れる息の中で舌打ち一つ。夕焼け時の今時分、僕の部屋の前は影になってしまっていて、カギを探して開いたカバンの中身はよく見えない。また舌打ちした。

 部屋に入り、真っ先にひったくるのはテレビのリモコン。即座にチャンネルを回せば、空っぽのワンルームにありきたりな笑い声があふれた。通学カバンをベッドの上に放り出して、もう一つの袋、帰りがけのコンビニで買ったレジ袋から取り出す。

 嫌いなはずなのに見慣れてしまった、ちょっと高めの大人の味。


 ぷしゅり。


 空気が抜けた。夕焼けだけがぼんやりと照らす部屋の中で、テレビの画面は違う世界への入り口みたい。その前にうずくまり、ビールを傾けて。いつの間にか僕は、その中に沈み込んでいた。


 きっと彼女は僕が僕だと気づいていない。誰とも知らないストーカーが、ストーキングがばれたと焦って逃げたと思っているのだ。帰ってきた彼女は危機感もなくのたまうだろう。


「えへへー。ストーカーされちゃったー。可愛いって罪だねぇ」

「あっそ、ただ行先が同じだけの人をストーカー扱いするのはやめなさい」

「あー、馬鹿にしてるでしょー。心配の一言くらいないのー?」

「あーあ、コスパの悪いビールサーバーが一台なくなると、僕はむしろせいせいするのになぁ」


 そうして、僕らはいつも通りに戻る。ゆるゆると名前すら教えずに住み着く理多と、それを嫌いな僕。きっと、理多という名前を呼ぶことのない生活。

 思い出したように帰れという僕を、彼女は適当に受け流して、僕の特等席でバラエティーを見続ける。どうせ生意気なことの一つでも言うのだろうから、そしたらあそこに転がっているクッションでも蹴りつけてやろう。そして、なかなか寝ない彼女に呆れながら、僕は寝床につくのだ。

 どうせ大学にはいかない彼女を見ながら。大嫌いな彼女の、テレビに照らされた、ガラス細工みたいに綺麗な横顔を見ながら。


 今の僕の顔もおんなじに、ガラス細工みたいに見えるのではないかと、ふと思った。綺麗というよりかは、それはきっと――。


 がちゃり。


 ドアの開く音がした。反射的にテレビを消す。窓から入る月明かりもワンピースに遮られ、僕は闇の中に隠れおおせた。

 何でテレビを消した。自問に自答する早鐘。持ったままのビール缶がひんやりと冷たい。


 指をなぞる、結露の一滴。


「あれぇ、いないのー?」


 間抜けな彼女の声がした。理多と呼ばれた彼女じゃない。彼女の声。


「……あぁ、いるよ」


 笑っていた。僕はゆっくりと立ち上がりながら、声にも出さずうっすらと笑った。

 やっぱり彼女は馬鹿だ。度し難いほど馬鹿で、僕の嫌いな彼女。この暗がりの中、また面倒くさいことでも始めたら敵わないから、僕は蛍光灯からぶら下がる紐に手を伸ばし、引く。

 ちょうど、彼女が居間に入ってきたところだった。


「ただいま」

「……髪、どうしたの?」

「あぁこれ? ほら、この部屋に来た日、言ってたじゃん。なんか髪色が嫌だー、とかさ。だから、黒に戻したの」

「僕は染髪料が嫌いって言ったんだ。色は関係ない」


 言葉こそ滑り出るが、頭は働いていない。僕の身体は紐に手をかけたまま動作を停止してしまって、ちょっぴし恥ずかしそうに髪先をいじる彼女を見るばかり。

 亜麻色から黒色に戻った髪を。


「あのさ」


 彼女がそのまま一歩を踏み出す。まったく言うことを聞かなかった身体が、こういう時に限って勝手に動く。一歩後ろに、彼女から逃げる。

 それを見た彼女は悲しそうに笑った。初めて見る顔で、初めて彼女を嫌いだとは思わなかった。彼女らしいと思った。

 なのに、僕は見たくない。彼女の笑み。涙に赤くはれた目尻。再び動き出す唇。


「見てたでしょ、今日一日、私のこと」


 真っ黒のテレビ画面は、僕ら二人をありのままに映すだけ。違う世界への入り口が、閉まる音が聞こえた。


 ◇◆◇


 どちらが促すでもなく、僕らは定位置についていた。彼女はスウェットに着替えテレビの前で膝を抱え、僕はベッドの縁に腰かける。テレビは何も言ってくれない。ビールを飲むかすかな音だけが、二人の間を行きかう。開こうとする口を閉じさせる沈黙は、まるで生き物みたいに僕らを取り囲んでいた。


「ねぇ、なんで私のストーカーなんてしてたの?」


 けれど、彼女はそんなものお構いなしだった。テレビの画面に映った僕に目を合わせて、まるで壁一枚を隔てたよう。沈黙は彼女に追い払われて、ビールで湿らせた僕の口はようやく動き出す。


「居候させてるんだ。その理由が気になって当然だろ」

「だったら聞けばよかったのに」

「お前、嫌がったじゃないか」

「あれれ、そうだっけ?」


 彼女は首をこてんと傾ける。テレビ越しに見える彼女の顔はいつもの笑顔に戻っていた。僕の嫌いな彼女の顔に。

 その顔が、僕には憎らしい。憎らしいから、余計に力のこもった手からビールを煽る。舌を刺しまわる炭酸が滑り落ちると、すっと浮かんできた感情があった。

 僕は、彼女を心配している。


「じゃあ、今聞く?」

「……何をさ」

「もー、聞くまでもないでしょー?」


 彼女は立ちあがって、僕の隣に腰を落とす。とすんと、いかにも軽そうに。彼女の手がすっと伸びて、ベッドの上に置いてあった僕の手に重なった。両手でビール缶を包んでいた彼女の手は濡れていて、なにより冷たい。

 冷たく、冷たすぎて。彼女の手は小刻みに震えていた。

 彼女の顔を伺う。ちょうど、目があった。彼女は一度だけ微笑んで見せて、話し始める。静かに、自分で自分を確かめるように。


「私ね、大学行けてないの。見てたでしょ? 途中で胸がきゅうっとなって、周りの人がみんな、そんな私を変な人って思ってるんじゃないかって。そしたら、ふわふわして、動け―って言っても、足が動かなくなっちゃって――」


 語る彼女は、空いているほうの手で腿に挟んだ缶ビールの縁をなぞる。指先で盛り上がる水滴がぽろり、流れ落ちた。

 僕はただ、黙ってそれを見て、黙って聞いていた。彼女の語り口は平坦で、迫力なんて欠片もないのに、僕は気圧されている。


 曰く、最初はバイトの関係のこじれだったという。


「ほら、私っておっちょこちょいじゃん?」


 カフェでバイトを始めた彼女は、どうしても仕事が覚えられなかった。注文を間違え、商品名を覚えられず、それで慌てて皿を落とす。


「でもね、私頑張ったんだよ? 必死でやって、必死に。何とかしなきゃって」


 そして彼女は、必死に笑い続けた。それが彼女の処世術。ありありと想像できる、何度ミスをしようと、にこやかに、気落ちせず。ぺこぺこ謝って、ごめんなさいを繰り返して。

 それが、周りから疎ましくみられることも想像できた。


「今日私が話してた子、いるでしょ? 大学の友達で、バイト先も一緒だったの。言われちゃってさ」


 ――何媚び売ってんの? キモいよ?


 出る杭は打たれる。出過ぎた杭は、引き抜かれる。

 あの化粧っけの強い女子大生には、狙ってる男がいたらしい。そいつの前でえへらえへらする彼女は、単純に邪魔だったろう。


 彼女は鼻を啜った。僕が視線をよこすと、「ごめんね」と言う。彼女が何を謝っているのかわからなかった。そのまま、彼女が鼻の下をぬぐうのを見つめていた。

 僕の手は、痛いほどに握りしめられている。


「でも、がんばろうとしたの。それなのに、今度はだんだん朝起きられなくなっちゃってさ」


「ダメだよねー」と力なく笑う彼女に、毎朝の彼女の様子が重なる。僕が何度も起こしてやっと目を覚ます彼女。何を言っても覚えてられないほど、朝に弱い。


「目覚ましをかけても起きれないの。遠くにおいて、目覚ましを止めるには起き上がらないようにしても、身体が起き上がらなくて」


 小さな肩が震えている。それは何かの病気なんじゃないかと言っても、きっと彼女は変わらない。むしろ、もっと肩を震わすんじゃないかと思った。


「でね、そんなことしてるうちに、学校行かないの楽だなーって思っちゃって。バイトもやめようかなーとも、思っちゃって」


 そして、今に至るわけです。彼女は茶化すように、少し気取って言った。貼り付けたような彼女の笑顔。


 あぁ、僕はこの笑顔が、何より嫌いだったのか。


「でもねっ!」


 彼女の声の調子が弾むように変わる。キラキラとしていた。彼女の笑顔は高校の頃を思い出させる。冬の斜陽を背景にした、魅力的な彼女。

 彼女は僕の手を両の手で包んでいた。手は冷たいまま。でも、何かがじわりと温かい。


「今日は大学の前まで行けたんだよ! いつも、少し前のところで帰っちゃうのに」

「それは……」

「きみのおかげだよ。きみが見ててくれたから、きっと私は頑張れたんだと思う」

「そんな、たいしたこと」


 あぁ、可愛い。

 思い出した、これが理多だ。彼女はいっつも自分本位で、僕を振り回して、そして、少年みたいに無邪気に笑う。なっはっはなんて、わざとらしくは笑わない。

 僕のもう片方の手が、彼女の手の上に重なる。両手と両手が重なる。彼女は短く吐息を漏らして、それを見て。満足げに笑顔を深める。


 そんな顔が見れるなら。


「理多、僕は――」

「だぁめ」


 言葉は、彼女の人差し指に遮られる。面食らう僕にウインク一つ。「私が先ね?」と、ビールの缶を僕に押し付けて立ち上がる。安っぽい蛍光灯の下、彼女はくるりと一回転して、何かを振り落とすみたいに言った。


「私、出ていくね」

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