承
本日火曜日、晴天なり。
僕はいつも通りに彼女を起こし、いつも通りに朝食を用意する。いつも通りの生返事を聞いて、いつも通りに洗濯を頼み、いつも通りに家を出た。
けれども、そこからはいつも通りではない。アパートの階段を下り、その裏にこそこそと隠れる。普段使いの通学鞄から取り出したのは、普段使わないマスクとキャップ。耳に引っかかるゴムの感触と暑苦しい口周りに顔をしかめながら、キャップを目深に被る。
ちらりと腕時計を見た。現在時刻八時九分、家を出て一分と少し。毎日窓を振り返っていたが、彼女と目が合うことはなかったから。彼女は僕が大学に行ったものと思い込んでいるに違いない。
そう、彼女は知らない。今日は創立記念日。彼女の大学はあっても、僕の大学は休みなのだ。ついでに、先輩に事情を話したら、二つ返事でバイトを代わってくれたから、今日の僕は一日、完全に自由である。
座り込むと、地面とアパートの継ぎ目をなぞるアリがいた。僕を無視して通り過ぎていくそいつに、ぼそりと愚痴った。
「なんで僕は、こんなことをしているんだろうなぁ?」
今日は創立記念日。僕にとっては、ストーカー記念日。
◇◆◇
結論から言うと、彼女が家を出たのは午後一時、たっぷり五時間も僕は待ちぼうけることになった。その間、時折同じアパートの住人に見つかっては怪訝な顔をされたのは言うまでもない。
頭上から、こつ、こつと。ゆっくり階段を下りてくる。階段の影から姿を伺うと、それが彼女だった。薄手のベージュのカーディガンを羽織って、青のスカートを合わせた涼し気な服装。階段を下りきった彼女は肩掛けにしたバッグを背負いなおし、後ろからでも肩の上下が分かるほど大きく息をつく。まるでよっぽど緊張しているみたいに。
しかし、それきり。彼女は自然体で歩き出す。僕の通学路とは反対方向、最寄り駅の方向だ。僕は少し間をおいて、彼女の後を追う。
この辺りは、人通りが少ない。すぐそこのコンビニも、一本向こうの大通りからの客をあてにしている。普段は気に入っているそのことが、今はひたすらに心臓に悪かった。彼女との距離は十数メートル。キャップの中はいい加減蒸れていて、真昼の直射日光がかゆい。
くそっ、何でそんなにのったらのったら歩くんだ。
やにわに、車のエンジン音一つ。そう広くない道だから、つい振り返って車のサイズを確認してしまう。脇によって道を開けてやる。
――視線を戻すと、同じように振り返った彼女と目があった。
ばれたか……?
全てがスローに知覚される。家にいる時と違った、凍り付いた彼女の無表情から目が離せない。口惜しさが頭の中を駆け巡る。
彼女は少し僕を見て驚いたようだった。一瞬足を止め、通り過ぎる車に亜麻色の髪を揺らす。
そして。
そして彼女はそのまま前に向き直り、歩き出した。こころなしか歩調は軽快に、早くなっている。
無意識に胸をなでおろし、胸をなでおろすとはこういうことかと謎の納得をする。どうやら不審者と思われたらしく、そこは釈然としないのだが。けれど、隣人たちの反応からしてそうとしか見えないのだろう。というか、キャップにマスクは普通に不審者だった。
そこからのストーカー、もとい諜報活動はとんとん拍子に進んだ。一度見られてもばれなかったことが自信につながり、そう思えただけかもしれないが。
兎にも角にも、駅までたどり着き、時間を外してガラガラの電車の中で立ち尽くし、彼女と僕は二つ隣の駅で降りた。確か、彼女の大学の最寄り駅。僕の足取りは重くなる。きっと、この場所が嫌いだから。
トラックにタクシーの行きかう広い車道に、自転車と歩行者の線引きまでなされた立派な歩道。街頭演説の中に横断歩道の音が混じり、時折の電車がそれらを全部まとめて塗りつぶしていく。昼時だからか、ファストフードの油の匂いが滑り込んでくる。量産された都会の風景だ。
その中で、彼女は足を止めることが増えた。一時も半ばを過ぎようという時間帯だ。午前で抗議を終え、みんなで楽しく昼食を取った大学生たちがダマになって歩道を流れていく。彼女は、思い思いの会話をする彼ら彼女らを、ただただ黙って見送る。
最初こそ、気づかれたのかと人陰に隠れていたが、だんだんと違うと気づいた。
何故って、僕の尾行に気付いたからと、あんなにも手を握りしめる必要はないだろう。いつの間にか、彼女の腕は棒のようにピンとしていて、人影の合間に覗く手先は握りこぶし。人陰に隠れるのをやめて見た彼女の顔は、化粧していることを差し引いたって、作り物みたいに無機質だった。
人混みの中、彼女だけが浮かび上がっているような。いや、むしろ彼女だけモノクロに沈み込んでしまっているような。不可思議な感覚。
それは、歩を進めるたびに何度も、何度も繰り返すたびに強く。幼稚園に行きたくないと駄々をこねる、幼児のように幼く。
大学の黒い門扉を前にして、彼女は完全に立ち止まった。
僕は近くの植え込みに身を隠す。まばらに出てくる大学生たちは、まず彼女をちらりと見て、次に僕にぎょっとして帰っていく。
誰もが彼女を避けた。後ろから見たって俯いているのが分かる。脚だって小刻みに震えているんじゃないか。肩口から流れ落ちるミディアムヘアを耳にかけるが、少ししてそれはまた、零れ落ちる。
声をかけるべきじゃないか。
植え込みから立ち上がりかけてから、そう考えているのに気付く。そんなことをすれば彼女に尾行がばれてしまう。彼女は僕をからかうだろう。「そんなに私が恋しかったの?」なんて言って。冗談じゃない、僕は彼女が嫌いだ。
……でも、今の彼女は本当に、僕をからかってくれるんだろうか。
彼女がちらりと後ろを見た気がしたから、僕は慌てて体を引っ込めた。
勢い余って尻餅をついて、すぐ横を通り過ぎるアリの行列に気付く。通り過ぎるなにがしかに踏みつけられたのか、弱り切ったアリが行列に追いつこうとピクピクあがいていた。
僕には助けてやれそうもない、かわいそうな奴。
「あれ? ねぇ、理多じゃない?」
「あっ、ほんとだ。久しぶりー」
「う、うん。久しぶり……」
刹那。飛び込んでくる会話。僕は再び植え込みから様子をうかがう。
一人で立ち尽くしていたはずの彼女の前に、二人の人影があった。どちらも髪を薄く染めて、いかにもな女子大学生。一人は化粧っけが強く、もう一人は文系らしいおとなしさがある。学校帰りらしい彼女らは親しげに、僕の嫌いな彼女――理多――に声をかけていた。
「バイトも辞めちゃってさぁ。ぜんぜん会わなかったじゃん?」
「どうしたんだろって思ってたんだよー」
「そうなんだ……えと、ありがと」
えへへと笑う彼女は、まるで別人のよう。弱々しい口調で、おどおどとして。笑顔だけは毎日見ていたソレと変わらないものだから、悪質な腹話術を見せられてる気分だった。嫌いだった。
そして、どこか薄っぺらさのある心配を口にする二人の女子大学生も、嫌いだった。彼女たちは弱々しい笑い声に同調するように笑みを浮かべながら、互いに目配せする。化粧っけの強いほうが、理多の肩に手を置き、耳元でささやく。
じゃあね。仲のよさそうな別れの挨拶。互いに手を振っているが、理多のものだけが力なく、風になびく枯葉みたいだった。
「うわっ、びっくりした」
言葉通り、おとなしそうな方があからさまに身を引く。僕に驚いて。
あまりに大きな声に僕も立ち上がって。
理多と、目があった。
走る。
気づいた時には走っていた。汗が頬を伝う。マスクはむしり取った。息が苦しいから。後ろは見ない。見てはいけない。帰る道だけを見ろ。
嫌いだ。
嫌いだ。
涙なんて卑怯なものを見せるやつ、嫌いだ。
【理多】
今頃になって明かされるヒロインの名前。別に忘れてたわけではなく、ささやかなネタバレ防止である。普通外国人の名前であり、筆者はいままでこの名前の持ち主にあったことがない。
ちなみに、完結まであと三、四話である。