承
【サケ】
日本の朝食の大定番(筆者の偏見)であり、最も美味な魚(筆者の偏見)である。焼き魚にしてよし、ムニエルにしてよし、刺身にしてよし。その用途は多岐に渡る。
なお、本作には二度と登場しない。
朝八時。小鳥の鳴き声と、それ以上の交通音をBGMにして、湯気がほかほかと立ち上る。膝の上には、茶碗一杯の白米と、昨日安売りしていたサケの切り身。その皮は焦げ付いていて、箸で崩すとぼそり、水気がない。
「まずーい」
「やかましい」
「お米べちゃべちゃー」
「文句があるなら食べなくてもいいぞ」
あれから一週間、彼女は見事に住み着いた。ワンルーム故に仕切りがないから、敷きっぱなしの布団で自分のスペースを主張する。食事の場所は、お互いの寝床の上になった。枕元には、食卓代わりのお盆が置きっぱなし。
「今日は一限からで、そのままバイトだから。夜まで帰らないぞ」
「はいはーい」
「洗濯くらいはしてくれよ」
「んー」
生返事をする彼女は、完全に無防備だった。なんだかんだで寝間着としての地位を獲得した、僕の買ってやったスウェットを着て、寝ぐせも直さないまま、眠たそうに箸を動かしている。いくらなんでも少なすぎやしないかという一口を、緩慢に口に入れてはもにょもにょと。リスか何かか、お前は。
一緒の生活を始めてから気づいたこと、その一。彼女は尋常じゃなく朝に弱い。僕が起こさなければ平日だろうと何だろうと昼まで寝ているらしい。ゆさゆさ、ゆさゆさと揺すってやって、おんぼろのコンピュータばりにゆっくりと、彼女は起床する。
この状態の彼女は非常に忘れっぽいから、きっと洗濯はしてくれないだろう。午後は午後でどこかしらに行っているようだから、気づいてやってくれるということもない。この頼み事は、朝ばかりは静かな彼女との沈黙を紛らわすものでしかない。
ほぐしたサケを口に運ぶと、確かにまずかった。噛み締めるたび口の中の水気を奪うし、塩が利きすぎて辛い。
「じゃあ、僕はそろそろ行くから」
「んー」
彼女は箸を持ったまま、手を振ってくる。食器を下げて水につけ、僕は玄関を出る。
「行ってきます」
最近、久しぶりに言うようになった言葉。朝に弱い彼女が、返事を返してくれることはなかったが、僕はそれでも、彼女が住み着き始めてからはこの言葉を忘れなかった。
大学へと歩き始め、なんとなく振り返る。こちらからだと、ちょうど窓が見えた。二階の部屋であるし彼女の姿が見えるはずもないが、一着のワンピースがかかっているのは見えた。
彼女が初めて我が家に来た時とおんなじ場所に、おんなじワンピース。彼女はマーキングか何かのように、滞在を許したその日からワンピースを吊るしたまんまにしている。
彼女に理由を聞いてみると、こう言っていた。
「こうしとけば忘れないでしょ。きみに助けてもらったの」
「なんじゃそりゃ」
「えへへー、つまりは、マーキングです」
マーキングか何かじゃない、マーキングだった。行動は奇抜だが、彼女も恩義の一つや二つは感じてくれているということだろう。
僕は毎朝そいつを振り返る。この日課は、嫌いじゃなかった。
◇◆◇
「んで、お前は主夫街道まっしぐらってわけか。がんばれお父さん!」
「違いますよ。それにお父さんって何ですか、お父さんって」
「え? お前まだやってないの? ホモだな、お前ホモなんだろ」
「……」
一週間ぶりなのに、一週間ぶりとは思えない面倒くささ。そうか、家にも似たようなのが住み着いたからか。
ホモというのならあなただだろうという言葉は飲み込んだ。何せ、仕事を終えてバックヤードに戻ってくると、彼はすでに身支度を整えてベンチにどっかりと腰かけていた。ゴリラに待ってたぞと言われたって嬉しくない。寒気がする。
もちろん、先輩はホモではなく、彼女の話を聞きたがる野次馬根性で待ち構えていたわけだが。
「それにしても、やっぱり俺の予言は当たったな。将来はノストラダムスかもしれん」
「そうですか」
「やっぱり、つれないなぁ」
僕は肩をすくめて見せる彼の横を通り過ぎ、ロッカーを開けた。そこには、ここに来る途中で買ったあれやこれがスーパーのレジ袋に詰まって置いてある。のぞき込んできた先輩が、ここぞとばかりに囃し立てるが聞き流す。放っておけば飽きるだろうと着替えていると、急に彼の声のトーンが落ちた。
「で、お前はどうするつもりなんだ」
振り返ると、いつになく真剣な顔の彼がいた。自然、気圧される。思わず後ずさると先輩のロッカーにぶつかって、僕に逃げるなというようにわずかに開いた。
「どうするって、何をですか?」
「わかってんだろ。いつまで家に置いとくんだよ」
「それは……」
言われてみれば、至極単純なことだった。いつまでも置いてはおけない。自炊を始めたからって、食費はかさむ。長期的に考えたって、大学を卒業して就職が決まれば、僕は狭いワンルームとはおさらばするつもりだった。それに、彼女が僕の家に住みたくて僕の家に来たのでない以上、僕の家に住まわせておくなんて言うのは応急処置に過ぎない。
「まぁ、お前は彼女が嫌いだそうだから、彼女の心配は置いとくにしても。お前、ずっとあそこに住み続けるわけでもないだろう」
「それは、なるべく早く出てってもらう予定ですけど」
「それ、彼女に言ったのかよ」
言っていなかった。僕は彼女にいつまでに出ていけと言っていないし、彼女は僕にいついつ出てくと言っていない。なあなあの同棲関係。それが僕と彼女を結ぶもの。僕の嫌いな関係性だ。
視線はいつの間にか、レジ袋に吸い寄せられていた。ジャガイモ、ニンジン、豚バラ。無意味に中身を確認している。見なくとも、そんな僕を先輩が冷たく見つめていることがわかる。
「結局、彼女は大学に行ってるのか?」
「わかりません。でも、午後は出かけていますから」
「午後だけで済む大学なんてあるのかねぇ」
彼女が大学に行っていないのは本当なのか。確認なんてしていない。でも家に帰れば彼女は余所行きに着替えていて、早く帰ると家にいないこともある。帰ってくる彼女は、大学の教材の入った手提げを持っているのが常だった。
大学生なんだから、午後コマだけで組んでいるかもしれないだろう。弱々しい声で叫ぶ自分を心の中に自覚する。
「そもそも、なんで大学にもバイトにもいかないんだろうな」
「わかりません」
「だって、朝は弱いにしろ活発な子なんだろ? ひきこもるタイプとは思えんがね」
その通りだ。彼女は常に自分本位だった。それでもって、嫌気がするほどにのんきな奴で。自分からひきこもるなんて考えられない。一緒に住んでたって、ほとんどニコニコしている。
みんなやってるよ。
彼女がそう言っているのを思い出した。亜麻色に染まった、みんなと同じ髪。
思考が重く沈んでいく。事実ばかりが浮かんでは消え、繋がりそうで繋がらない。髪をむしるように、頭を撫でる。答えは出ない。
「いよぉし!」
突然の大きな声。自分の膝をバチンと叩いて、先輩が立ち上がっていた。
彼らしい豪快さで口の端をにっと釣り上げて、彼は言う。
「将来の大予言者が、もう一つ予言を授けてやろう」
「はい?」
「彼女はお前に話を聞いてもらいたがっている! あとは、お前がどうするかだ」
「あの、何を根拠に……」
「じゃ、俺は仕事だから」
台風一過。彼は僕の疑問など置き去りに戸を閉めてしまう。バックヤードに残るのは、蛍光灯のじじっという鳴き声のみ。つい伸ばしてしまっていた手を引っ込める。
彼女は、僕に話を聞いてもらいたがっている。
頭の中で彼の予言を反芻する。将来のノストラダムスの予言だ。あっているとは限らない。少なくとも僕は信じることができない。
がさり、ロッカーの中からレジ袋を取り出す。着替えはとっくに済んでいた。タイムカードを切って、職場を後にする。
信じることはできないのに、頭の中では彼の予言が渦を巻いていた。聞けと言われれば、聞くべきことは山ほどある。ただその一つ一つを考えるたびに、あの日の淫靡な彼女の姿が目に浮かぶ。高校時代、僕を散々に振り回した彼女だが、色仕掛けをされた覚えはない。
それは、彼女が大人の魅力を身に着けたということなのか、あるいは――。
蛍光灯の白い光に照らされて、窓にぶら下がるワンピースが見えた。僕の部屋にかかった彼女のワンピース。いつの間にか家までたどり着いていたらしい。
何の飾り気もない、金属を塗装しただけの階段を上がる。部屋の前でカギを取り出そうとして、その必要がないことを思い出す。夜間はカギをするように言ってあるが、ノックをすれば彼女が開けてくれる。
ノックする手は、一瞬のためらいを見せて。
こん、こん――
彼女の足音が聞こえた。その音の一つ一つが、僕の心臓の鼓動を速めていく。
「おかえりー。そしてお疲れ様―」
ドアを開けると、彼女がいた。ゆるい感じのブラウスに、プリーツスカートをはいた、いかにもな女子大学生。
心の中で生まれた小さな甘えを、握りつぶすように、自然と手に力がこもっていた。
「今日、大学には行ったのか?」
「――」
彼女は、にへらっとした顔をきょとんとさせる。けれど、それは少しの間のことだった。
「突然だねー、どうしたの?」
「いや、ちょっと気になってさ」
「そっかー」
彼女は尖らせた唇の下に人差し指を当てる。考え込むときの彼女の癖。そう、考え込むときの、癖。
「行ったよ? だってほら、着替えてるじゃん」
「そっか、わかった」
「変なのー。それよりさ」
その場でくるりと回ってみせて、「今日の服、可愛いでしょ?」と聞いてくる彼女を適当にあしらいつつ、家に入る。ちらりと伺えば、脱衣所にはそのままの洗濯ものがあった。彼女に悪びれる様子はない。冷蔵庫に食材をしまおうとして、生活費代わりのビールだけは忘れずに補充されているのに気付く。
「いいじゃん、ビール。酔っぱらえるよ」
彼女は前にそう言っていた。でも、何で酔っぱらうのが好きなのかは聞けなかった。今の今まで、聞こうとも思わなかった。
それは意識的にだったのか、無意識にだったのかはわからないが。
そうか、僕は彼女のことを何も知らないのだ。
くたくたに残ったレジ袋をゴミ袋に投げ込んで、彼女を伺う。なっはっはとテレビを見て笑う彼女がいた。そういえば、高校の頃の彼女はあんな笑い方を、あんなわざとらしい笑い方をしていたろうか。
僕はジャガイモを洗う。夕飯の材料を。嫌いなはずの彼女のために、思い悩むのは馬鹿らしかった。
――どうでもいいが、来週の火曜日は僕の大学の創立記念日。彼女は、それを知らない。