承
【雨】
筆者が古典において好きな雨のエピソードは、雨でぬかるんだ道の中妻のもとに通うものである。当時の道は馬やなんかの糞尿だらけであったから、彼は着物の裾を糞尿で汚しながら妻のもとへ行き、妻は糞尿まみれの夫に感動する。何とも滑稽だ。
当然のことながら、本作には一切の関係がない。
結局、彼女が泊まりに来た理由は聞かなかった。あのままテレビをぼーっと眺めて、差し障りのない現状報告をその間に交わして、僕の買ってやったコンビニ弁当を二人で食べて。そのまま寝てしまった彼女、今日の朝には帰っていった。
「はぁーん、押しかけ女房ってやつか。古風だねぇ」
「女房じゃないですよ。ただのたかりです」
「たかりでもいいじゃねぇか。羨ましいぜ、かわいこちゃんが泊まりに来るとか」
「そうですか」
鼠色をしたロッカーがいくつか立ち並び、その間に安っぽい青のベンチが一つ横たわる。蛍光灯が二本照らすだけの、何の変哲もない――もっともほかの店など知らないが――チェーンの飲食店のバックヤード。キッチンとドア一枚を挟むのみだから、雑多な調理の音や、混ざり合ってよくわからなくなった匂いが忍び込んでくる。
その中で、無駄に大きな声が響いていた。僕の声じゃない。隣で制服に着替える先輩のもの。
彼はバイト先の先輩なのだが、バイト先の先輩でしかない。ゴリラみたいな体格で、会うたびに何かと話しかけてくるこの先輩が、僕は嫌いだ。
「つれないなぁ」と言いながら、彼はバタンとロッカーを閉める。雑な扱いを受け続けたロッカーはすっかり歪んでしまっていて、キィと抗議の声をあげながら、ひとりでに隙間を開けた。かわいそうに。僕は謎の同情を覚えながら、優しくそいつを閉めなおす。
「でも、何でお前のとこに来るんだろうな。高校の時、よっぽど仲が良かったのか?」
「そこそこだったんじゃないですか」
「嘘つけ。そこそこのやつのとこに泊まりに来るかよ」
「……」
「いいだろ? 話せって」
肘で小突かれる。よろめいて、抗議の視線を送った時には、彼はもう壁に掛けられた姿見の前へと移動してしまっていた。
正直、もうやることがない。僕は出勤してきたばかりの彼と違い、シフトを終えたところなのだ。早く帰って晩飯を食べたい。だけれど彼は、余裕をもって出勤してくるからこの後暇なのである。その暇つぶしのだしにされるのが、毎週木曜日の僕の残業だった。
かといって、無視して帰って人間関係が悪くなれば面倒くさい。面倒くさいのは嫌いだ。次善策として、僕は彼に付き合うしかない。
「本当に何ってこともないですよ。何故だかは知りませんが、僕は彼女のお気に入りだったってだけです」
「何だよ、お気に入りって」
「お気に入りは、お気に入りです」
そう、僕は彼女のお気に入りだった。
高校生の頃、僕の下地はあの頃に出来上がっていたようで、僕は同級生というのが嫌いだった。なんで周りに合わせなきゃあいけない。受験に慎重だった僕は石橋を叩きすぎてしまったらしく、下ばかり見ていた僕はそもそも渡るべき橋が違うのだと気づけなかった。
言ってしまえば、周りのレベルが低すぎたのである。
そんな僕の軽蔑は、そういうものにばかり鋭敏な彼らに感じ取られ、教室の隅の席は僕だけの聖域だった。
そこへ土足で入り込んできたのが、彼女だ。
「はーん、やっぱりお前ボッチだったのな」
「それが何か?」
「いや、何でもないさ」
彼は腰を下ろしながら、先を促す。その大きな体に、ベンチは耳障りな音を返した。
「で、お気に入りってのは?」
「あぁ、それは――」
きみ、私と似てるよね。
彼女の第一声はそれだった。
終わりかけの昼休憩。そこかしこでできたグループから話し声。冬の斜陽がまぶしい。彼女はそれを遮るように、僕の机の前に座っていた。黒髪がきらきらと。逆光の中でも、彼女のにへらっとした顔は僕の中にはっきりと記憶されている。
どこがさ。
さぁ、どこでしょう?
意味の分からないやつだった。普段、誰が何をしたとかに気に留めてはいないが、彼女はそんな無味乾燥なクラスメイトどもにあって、印象が強い。きっと普段も、それだけ意味の分からないやつなのだ。
そう思って、僕は視線を下げる。本の世界へ帰りたい。
そんな僕の顔を、彼女は両手で挟んで持ち上げる。目があった。日本人らしい黒目が、なぜか他のものと違って見えた。彼女は一度目を細めて笑うと、僕の手から本を奪う。
なにこれ、面白いの?
返せよ、関係ないだろ。
やーだねー、関係あるもーん。
小学生みたいに、一冊の本を奪い合った。周りがちらちらとこちらを見る。中には指さしてるものもいた。目の端でそれを捉えて、耳が熱くなるのを感じて、でも彼女は気にせず楽しげだったから。僕は何となく悔しくて、チャイムが鳴るまでその取り合いをし続けていた。
「何だお前、急に青春するんじゃねぇよ」
「……」
「あーっと、そんな目で見るなって。わるかったよ」
機嫌でも取るように、彼は話の途中から口をつけ始めたタンブラーを差し出す。コーヒーの匂いだった。僕は苦いのは嫌いだから、丁重にお断りする。代わりに腕時計をこつこつと指で叩いて見せる。
「そういえば、そろそろじゃないんですか、時間」
「ん? あぁくそ、そうだな。じゃあまた来週、新しい話を聞かせてくれや」
「期待するほどネタは多くないですけどね」
「あん? お前何言ってんだ。これからも増えてくだろ」
彼は僕の横を通り抜けざまに言う。何言ってんだと言われても、そっちこそ何言ってんだと思うばかりだ。増える? 何が?
ホールへ続くドアの前で、彼は立ち止まる。そして、心底楽しそうに口の端を吊り上げて振り返る。
「俺の予言。帰ったらいるぜ、その子」
「何を――」
「じゃ、一仕事してくるわ」
何を根拠に。彼のむやみに元気な挨拶はドア越しに届くものの、僕の言葉は無残、ドアに跳ね返されていた。
そんなことはない。やけに空っぽな心の呟きとともに、僕はタイムカードを切る。
◇◆◇
思い返すと、彼女とは苦い思い出ばかりだった。この歳になっても苦みが好きになれないのは、そのせいではないかとばかりに。
彼女は周りを気にしない。優先事項は自分であって、僕はその付属物だ。
周りがスカートを折っていても、彼女は折らず膝をきっちりと隠していた。何故って、彼女はそっちの方が好きだから。
みんなで打ち上げに行こうと言っても、彼女は僕を連れて買い物に出た。何故って、彼女にはその日に買っておきたいCDがあった。
修学旅行のペア分け。女子は女子、男子は男子で組んでいく中、彼女は僕と組んだ。何故って、彼女は女子のいちいち写真を撮ったりなんだりというノリが嫌いだったから。いろいろ連れまわしても、文句のない人が良かったから。
きっと、だからこそ彼女は僕の初恋の人だった。彼女に付き合わされても、彼女に合わせることは強要されない。彼女もまた合わせない。
安いアパートの一部屋、自分の棲み処に帰り着き、僕は鍵穴に鍵を差し込む。開いていた。
驚きはない。自分でも不思議だが、あるのは先輩の予想が当たってしまったことへの悔しさだけ。むしろ、僕は片手に下げたコンビニ袋、その中で二つ重なったコンビニ弁当を見てほくそ笑む。ドアノブを回せば、とっとっとっ。自然体の足音が聞こえてくる。
ドアを開ける。隙間からのぞく、亜麻色の髪。
「おかえりなさい。お風呂にする? ご飯にする? それとも、わたし?」
「全部用意してないんでしょ、どうせ」
「なっはっは、一度やってみたかったんだよねー」
悪びれもせずサムズアップする。そんな図々しい奴は彼女しかいない。
「さ、あがってあがって」と言う彼女に、反論を返してやりながら、僕は靴を脱ぐ。なんと気が利くことに荷物を受け取るように手を伸ばすので、コンビニ弁当の袋を渡してやる。すると、彼女は弁当の中身に不満を漏らしだした。感動を返せ。
その後もぶつくさと言う彼女に、僕は当然の質問をする。
「いいのか? 男の部屋に二日連続で泊まって」
彼女は一度きょとんとして、そして僕の言葉を笑い流し、言った。
「こんくらい、みんなやってるよー?」
みんな。皆。
昔と同じはずの彼女の笑顔が、くすんで見えた。納得する。彼女は初恋の人であって、初恋の人でない。
僕は、彼女が嫌いなのだ。