起
【亜麻色】
筆者の大好きな髪色である。特に髪色に意味がない場合、ヒロインの髪色は亜麻色になる。ちなみに、『亜麻色』と言うタイトルの短編小説があるらしい。
なお、本作には一切の関係がない。
そうはいっても、別に何と言うこともない。何せ、たかが髪色が違うくらいで気付けなかったのだから。初恋と言ったって、初めての彼女ではないのだし。
君が抱きつくから、僕の服までびしゃびしゃになったと文句を投げつけながら――彼女はなぜかそれに嬉しそうに応じていたけれど――とりあえず彼女を家に上げる。彼女に風呂場を貸してやっている間に、僕は近所のスーパーまで代わりの服を見繕いに行く。彼女の財布にはお金がほとんどなくて、僕の今月の酒代は消し飛んだ。
「えー、これ、ださいんだけど」
「うるさいなぁ。じゃあ代わりにビールでも着るか?」
「なっはっは、何それー」
ガキみたいな声で彼女は笑う。その違和感が何故だか嫌いだ。
そして、それが脱衣所に買ってきた服を放り込んでやった報酬なのだから、報われない。居間に入ると、カーテンレールにつるしてあった僕のシャツやなんかが全てベッドの上にぶちまけられて、代わりに水を滴らせるワンピースと下着が吊るしてある。げんなりした。
彼女がほかほかとした湯気とともに風呂を上がってきたのは、僕がワンピースの下にできていた水たまりを拭き終えたころだった。
「えっち」
「は?」
「ワンピース、覗こうとしてる」
「僕はハンガーの股を見たって興奮しないぞ?」
立ち上がって声のする方を見ると、彼女は既に僕への関心を失っていた。
彼女はちゃっかりと僕の買ってきた上下セットのスウェットに袖を通していて、僕の部屋をきょろきょろとする。部屋の隅のゴミ袋や丸机の上を見て「きたなーい」と言って、なぜかいきなりクローゼットを開ける。
「あっ、布団あるじゃーん。今日泊まってくね?」
「えっ、嫌だけど」
「邪魔だから、これどかしちゃうよ」
「だから、嫌だっつってんじゃん」
鼻歌交じり。僕の言葉などどこ吹く風に、彼女は丸机の上のものをそこらのゴミ袋に詰め込み、そのまま机の脚をたたんでゴミ袋と一緒に部屋の隅へと追いやる。「ほら、どいたどいた」と手を払われるとつい身を引いてしまって、その隙にえいやっと布団を敷かれてしまう。ぶわりと埃が舞い散った。
「本当に泊まるつもりか……?」
「えー、ダメなの?」
世の男子大学生諸君なら二つ返事にいいよと言いそうな、そんな上目遣い。けれどそれは僕の嫌うタイプのものだ。けして可愛いと思ったりはしない。断じて。きっと。おそらく。
そも、大学生という、社会人にもなり切れず子供としては大きすぎる人種が、一つ屋根の下などと。まったくもってけしからん。
言葉に詰まったのをごまかすように、僕はわかりやすくリスクを示してやる。
「襲うぞ?」
「襲えば?」
けろっと。二つ返事だった。思わず生唾を飲み込む。
彼女はそんな僕を見てにーっと笑う。しまったと思うより早く、彼女は僕の顔を覗き込む、もとい覗き上げるようにして言った。
「やっぱり、えっちだ」
「そ、そんなことない! 襲ったりなんか、僕がするわけないだろう」
「じゃあ、泊ってもいいよねー。あ、テレビ回すね?」
言うや否や、誰それと言うお偉いさんたちが子供の口げんかのように議論していたテレビが、今度はバラエティーの再放送を映す。互いを否定するばかりの論調が、面白おかしなものに変わる。クローゼットの中に入っていたのだろう、いつかしまい込んだくたくたのクッションを抱きしめて、彼女はどっかりとテレビの前に腰を据えてしまった。
「そこ、僕のスペースなんだけど」
「いいじゃん、きみにはベッドの上をあげるから」
「……相変わらずだなぁ」
「今日だけだぞ」とため息交じりに言ってやれば、「んー」と生返事が帰ってくる。仕方なくベッドの上に腰を下ろすと、不思議と落ち着いてしまって。そのままぼーっと、何を話すでもなくバラエティーを眺めていた。
エアコンの送風音。テレビが大笑いする。
ねぇ、ビールないの?
ないよ。
じゃあ、そこのポシェット取ってよ。
いいけど。
箪笥の脇に置いてあった、まだまだ乾ききらないポシェットを取る。女子大生にとってはおしゃれの一部に過ぎず、何も入っていないと思っていたそれは、なぜかずっしりとしていた。よく見ると、何を詰め込んだのか不格好に膨らんでいる。
彼女は手だけ伸ばして探るように左右に振っていたから、ひっ捕まえてその手にかけてやった。中身が気になるものだからそのまま見ていると、可愛らしいポシェットから取り出したのはなんと驚き、二本の缶ビール。
「はい、一本どーぞ」
「いや、僕ビール嫌いだし。そもそもポシェットに何でビール入れてるのさ」
「はぁ、細かい大人になったねぇ」
「やかましい」
つい、差し出された一本をひったくってしまう。雨とはいえ、夏の暑さでぬるくなっているのが持っただけでわかる。
ぷしゅっと、空気の逃げ出す音。彼女は既に一人で飲み始めてしまっていた。つられて僕も缶を開ける。
「おっと」
泡が溢れてくるもんだから、慌てて口をつける。不味い。やはりビールは嫌いだった。
けれど、一つ思い至ったことがある。
「なぁ、なんで僕の分もあるんだ?」
「そりゃあ、寄るつもりだったから。わたし、家主を無視して一人でお酒飲むような恩知らずじゃあないよ?」
「だろうね。それもふらっと近くを通ったからじゃないでしょ」
「どうして? じいしきかじょーってやつ?」
「だって、ビールがぬるいし、噴き出るし。下のコンビニで買ったやつじゃないだろ。わざわざどっかで買ってから、僕に会うためにここまで来たんだろ」
「おぉー、大正解!」
あっけらかんと彼女は言った。「なんて言おうかなぁ」と言いながら、ビールの缶をゆっくりと揺らす。
何故だか、呑気そうな顔をした彼女のその言葉は、「どう説明しようかなぁ」ではなく、「なんて言い訳しようかなぁ」という意味合いの気がして。とんがらせた唇に人差し指を当てて考える彼女を、おそらく僕は怪訝な目つきで見ていた。
やおら彼女が立ち上がる。ビールをグイッと飲み干してゴミ袋へ放り込む彼女の顔は、初めて見るものだった。
――あぁ、嫌いだ。そんな、そんな艶っぽい顔は。
彼女は近づいてくる。ぎしりと軋む。グレーの、色気の欠片もないスウェット。たるむ襟元から彼女のゆるやかな双丘が見える。
押し倒された。鼻先をくすぐる亜麻色から、嗅ぎなれたシャンプーの匂い。それが彼女の匂いなのだと意識する。
「シたくなっちゃって」
「……何を?」
「女の子に言わせるの?」
「……」
どくん。
熱が集まるのを感じる。狂おしく。それを許すような、彼女の顔。甘い吐息。
近づく。
「――やめろ」
「えー、せっかく雰囲気作ったのにー?」
一瞬。
彼女の肩を掴んで引きはがすと、彼女はほにゃりと表情を柔らかなものに戻す。待ってましたと言わんばかり。ため息をつかずにはいられなかった。
「相変わらず面倒くさいな。要は、聞くなってことだろ?」
「うーん? そうなのかもね?」
ウインク一つで、彼女はさっきまでの調子を取り戻す。損した気分だった。きっとドギマギとしていたのは僕だけだったに違いない。それがばれないよう片膝を立てて、前屈みに座りなおす。
彼女は再びテレビの前に陣取る。その片手には捨てたはずのビール缶。僕の手本から奪われたと気づいて舌打ちすると、彼女は得意げに振り返ってこれ見よがしに振ってみせる。
まぁいいさ、僕はビールが嫌いだ。
……そういえば、もう一つ気になったことがあった。CMの隙間に思い出す。
彼女はなぜ雨に濡れていたのだろう。化粧を崩していたのだろう。傘を差せばよかったものを、何故差さなかったのだろう。玄関の傘立てで、彼女のモノクロの傘は持ち手まで濡れそぼっている。
思いつくのは、ベタに過ぎる使い古された一つの答え。古典から続く、雨と言えばの大定番。
けれど、僕はそれ以上考えなかった。冷蔵庫にお気に入りの缶チューハイがあったのを思い出したから。それだけ。
そりゃあそうだ。僕は、彼女が嫌いなんだから。