起
【ワンルーム】
家賃六万のアパートの標準装備。昨今では無線LANによって半永久的な拡大を見せ、世界旅行だって夢じゃない、そんな空間。いつか焼け野原になる。
なお、本作には一切の関係がない。
雨の日だった。じめじめじめじめとして、心の中でじめじめじめと唱えて心頭滅却しようとしても、じめと何度言ったかわからなくなって苛々とする。僕の嫌いな日だ。
今日はバイトもないもんだから、大学から帰ってきて以降ずーっとテレビの前でじっとしている。安っぽい丸机、コンビニ弁当の容器に空き缶が我が物顔。エアコンがかび臭くて、そろそろ掃除もしなきゃなぁなんて、考える。平日の昼間となると、頭を空っぽにできるようなテレビ番組なんてやってない。
窓の向こう、昼間のくせに雨雲でどんよりとした空が、僕の自堕落を後押ししている気がした。
――ぴん、ぽーん
そんな昼下がりだから、窓を叩く雨の音と比べてえらく謙虚なインターホンの音に気付くのはすぐだった。
あれっ、通販でも頼んでたかな。
大学のつまらないやつらの中に友人などいない。いないこともないが、お互い講義で不自由しないようにと取り繕われた、いわゆるところの友達(仮)である。
当てもなく思索を巡らせていると、もう一度チャイムが鳴る。仕方がないから、半日の疲れが沈積してしまったような体を引きずり起して、のっしのっしと玄関に向かう。
「はーい、少々お待ちくださーい」
ちらりと、部屋の汚さが気にかかった。『ゴミはゴミ袋に』を忠実に守る僕の部屋は、種々のゴミ袋の並ぶ展覧会の様相を呈している。しかし、今更なんだという話。頭をぼりぼりとかいてあくびをしたら、わずかな見栄もどこかへ飛んで行った。
がちゃり、ドアを開ける。
ドアを閉めたくなった。
「あの、どちら様で?」
「……あっちゃあ、覚えてないかぁ」
そこにいたのは、なぜかびしょ濡れの女。僕の目線の少し下、明らかに地毛ではない亜麻色の髪先をいじって、あいまいにはにかむ。その顔は良い意味で幼さを残し、しかしほんのりとのせられた化粧が崩れて台無しになっている。身体にぴっちりと張り付いてしまった、淡いピンクのふりふりワンピースがエロティック。傘とおしゃれなポシェットを携えて、ゆるふわ系女子ここにあり。
要するに、僕の嫌いな人種だ。
だが、嫌いな人間でもそれっぽくコミュニケートしないと、社会という飼育小屋の居住権がなくなってしまうらしいと、僕はこの二十年と少しで学んだ。覚えたての酔いの感覚から急速に覚めていくのを感じながら、僕は質問をしてみる。
「もしかして、どこかであったことがあるんですか」
「もー、敬語やめてよー。私達、同中ならぬ同高の同級生じゃん、サライくん」
「はぁ……」
一体、いつの話だ。二年、いや三年前なんて、僕にとっては遥か昔だ。ましてや女子の友人など、夜空に小惑星イトカワを探すようなものだ。……まさか、彼女はイトカワさんなのだろうか。
だけれども、更井とはたしかに僕の名字であって、目の前で「思い出せない? 思い出せない?」とぴょこぴょこ動いているのは、間違いなく僕の交友関係にあった人物のはずだ。
唸る。思い出せない。
唸る。首をひねる。思い出せない。
「あーもうっ! じれったい」
「えっ、ちょっ?!」
ふにゅり。柔らかい感触。
突然、彼女が抱き着いてきたのだ。予想外の質量に一歩よろめく。
彼女はちょうど僕の胸のあたりに顔をうずめて、何やら息を吸い込んでいる。その光景は、どこか見覚えのあるものだった。
……そういえば、やたらと距離の近いヤツが一人、いたような。
顔をあげた彼女と目が合う。にんまりと笑う彼女は「これで思い出したでしょ」と言わんばかり。今ではその顔にも見覚えがあった。
今に、今に言うに違いない。
彼女がこの後言うセリフは決まっていて、今まさに動き出した彼女の唇がその言葉を紡げば、それがそのまま証拠となる。あぁ頼む。頼んでやるから、言うんじゃない。
「やっぱし落ち着くなあ、きみの匂い」
「……僕は、嫌いだ。染髪料の匂い」
「えー、みんな染めてるよー?」
――間違いない。
かつては黒髪で、なぜか僕の周りでぴーちくぱーちくとしていた同級生。あの時とおんなじミディアムのストレート。唯我独尊、一人でもいっぱいでも、一番楽しそうだった。
あぁ、間違いないとも。彼女は、僕の初恋の相手だった。