好意と自覚(3)
結局、あれからイナゾーはずっと余計な好奇心を滾らせて、何とか彼女のことについて触れようとあからさまに意気込んでいた。まさに「隙あらば!」という顔でチャンスを窺い話の口火を切ろうとするので、俺は度々無言で睨みを利かせて牽制しなければならなかった。当の彼女が薄いカーテン一枚隔てただけの空間にいるというのに、声高にあれこれ詮索されては都合が悪い。
それでもイナゾーはめげずに口を開きかけたが、その度に苦笑を浮かべたアディーがさり気なく別の話題を持ち出しては話を逸らしていた。
状況を良く弁えて気を利かせるアディーを、俺は幾分見直した――今までは単に外見の良さに任せて女遊びを繰り返す浮ついた奴だと思っていたが、必要な時に相手の意を汲んで適切な配慮ができるというのはなかなかだ。そういう気遣いができるから、女にしてみれば尚のこと心地よく魅力的にも感じるのだろう。<マダムキラー>の別名は存外伊達ではないのだな――と。
アディーのお陰で最後まで彼女についての話は押し止められたまま、二人の後輩は訓練の進捗状況や職場であった笑い話など、他愛のない話――というより「状況報告」に近かったが――をしながら小一時間ほどを過ごしていった。
最後にイナゾーは、「先輩、早く戻ってきてくださいよ。先輩がいないとどうも緊張感に欠ける気がして」と、励ましなのか何なのかよく分かりかねる事を言い添え、アディーもその言葉に頷いて帰っていった。
週明けには退院できそうだという見通しを聞いたためか、ふたりとも俺が支障なく仕事に復帰できるものと思っているようだった。そんな風にすぐにフライトに戻れるのであれば、どんなに嬉しいことか……。
廊下の方から配膳車が運ばれてくる音が聞こえてきた。おかずや汁物などのにおいが入り混じってこの病室にも届きはじめた。奥の病室から夕食の配膳が始まったようだ。
食事を待つ間、アディーが持ってきた書店の袋を開けてみた。中には文庫本の推理小説が2冊とバイクの雑誌、それに『今夜は腕によりをかけて 男の創作料理集』というタイトルの厚い本が入っていた。アディーを俺のアパートでの飲み会に誘ったことはなかったが、俺が料理をするということはどこからか聞いていたのかもしれない。
さっそく開いてパラパラと捲り、どんなメニューが載っているのか見ようとしたが、ふと思い出して手を止めた。傍らのキャビネットを振り返る――いや、料理本よりもまず先にイナゾーが置いていったメロンをどうするかだ。
あと数日で退院できるなら、アパートに持ち帰ってから食べるか――そう考えてメロンの表面を軽く叩いてみると、中で低く音が響き、籠ったような振動が手のひらに伝わってきた。十分に熟れている音だ。冷蔵庫にも入れずにこのまま温かい室内に置いておけばすぐに傷んでしまいそうだった。
売店に行って果物ナイフが売っていないか見てこようかとも思ったが、こんなに大きなものをひとりで一度に食べきれるものでもない。
仕方がないので、父親が持ってきた花と同じようにまた配膳係に渡してしまおうかと考えた時――。
「――これ? ううん、これはソヨゴじゃなくてシラカシ。スペースは十分に取れるから、シンボルツリーはシラカシにして伸び伸び育つようにしようと思って。でもソヨゴもね、施主さんに紹介したら気に入ってくれたから、株立ちのをリビングに近い場所に入れるつもり。ソヨゴは葉擦れの音も涼しげだし、ちょうどいい加減で日差しを遮ってくれるからね――」
隣から聞こえてきた小声に、俺は「ああ、そうだ……」と思い直した。きっとハルカさんに引き取ってもらうのが一番だろう。実家住まいなら家族で食べてもらえばいいし、一人暮らしなら職場の誰かにあげてしまってもいい。
俺はメロンを持ってベッドを下り、自室を出ると隣のカーテン越しに声をかけた。
「ハルカさん」
口に出してからはっとして気まずくなる。彼女から直接名前を聞いた訳ではなかったのに――つい無意識に下の名を呼んでしまった。
中で続いていた話し声が途切れ、同時に「はい!」と返事が聞こえてすぐに彼女が出てきた。
開いたカーテンの向こうに痩せた老人が横になっているのが見えた。その枕元に置かれたスケッチブックに目が留まったが、老衰で落ち窪んだ小さな目がこちらを見ていることに気づいて、俺は一応目礼した。だが特段の反応はなく、黙したままの老人の様子を見る限りではそもそも周囲の状況が認識できているのかどうかも判然としなかったが、その深い皺の目立つ顔は依然として俺の方に向いていた。
ハルカさんは俺が名前を知っていることを不審がる様子もなく、何の用事だろうと朗らかな眼差しで俺を見上げている。そんな彼女に向かって切り出した。
「これ、さっきの後輩が持ってきたものなんですが、ご迷惑でなければ食べてもらえませんか。自分はナイフとか持ってきてなくて」
彼女は俺が手にしているマスクメロンを見ると、驚いたような笑顔を見せて無邪気な声を上げた。
「わぁ……こんな立派なのをいいんですか? 実はメロン、大好きで――あっ、しかも鉾田のだ……ここのメロン、すごく美味しいんですよ」
皮の表面に貼ってあるシールにこの近隣の市の名前が書かれているのを認めた彼女は嬉しげにそう言い、少し照れたように俺を見上げて「じゃあ遠慮なく……」と大事そうに受け取った。
こんなに喜んでもらえるとは思ってもいなかった――彼女の様子に自然と口元が笑んでいた。自分には不要な物を渡したのは心苦しかったが、それでもあんなに素直に喜びの気持ちを表されると、こちらまで満ち足りた気分になってくる。
やがて夕食の配膳が整い、テレビから流れる夕方のニュースをイヤホンで聞きながら薄味の病院食を口に運んでいると、ハルカさんがやってきた。ラップをかけた紙皿を持っている。
「さっきいただいたメロンです。どうぞ」
差し出された皿に被せられたラップを透して、果肉の淡い黄緑色が見えている。
まさか渡したものが食べられる状態になって戻ってくるとは――まったく考えもしていなかったことに驚いて彼女を見つめると、「祖父がたまにお見舞いでいただく果物を食べたがるので、包丁とかお皿とか、用意してあるんです」と笑顔が返ってきた。
「切りながらひとつ摘まんじゃいましたけど、ちょうど食べ頃でとっても美味しかったですよ」
彼女はそれこそつまみ食いをした悪戯っ子のように茶目っ気のある目で俺を見て、にっこりと笑った。「入れ物は捨ててもらっていいですから」と付け足して戻りかけた彼女は、あっと声を出してまた俺に向き直った。
「他の方にもおすそ分けしてもいいですか? この部屋の皆さん食事制限はないので」
もうハルカさんにあげたものであり、どうにしてもらっても構わないというつもりで「どうぞ」と頷くと、彼女は快活な足取りで出ていった。
紙皿の上にきちんとかけられたラップを外してみる。8等分の大きさのくし切りにされたものが2切れ載っていた。種は丁寧に取り除かれ、実は皮から切り離されて一口大にカットされていた。隅に爪楊枝まで刺してある。
若いのに気が利くな――感心しながらよくよく見てみると、なぜか果肉に中途半端な切れ目が一本入っていた。丸のままのメロンに包丁を入れてみたものの、途中で大きさがかなり不均等になると分かって切りなおした感じだ。
その様子が窺えてふと笑ってしまった。やはりあまり器用ではないのかもしれない。
彼女が同室の老人たちにメロンを差し入れ、世間話に付き合っている小声を聞くとはなしに聞きながら、楊枝で一切れ口に運んでみる。ずっと室温に置かれて生温い状態だったが、それでもみずみずしく、甘さは十分に感じられた。彼女が言っていたとおり完熟のようだ。どうしても味気なく思えてしまう病院食が続いてさすがに辟易しかけていたところに、目先の変わる一品となった。
イナゾーが袋から出して見せた時にはどうしようかと思った見舞いの品だったが、ハルカさんが手間をかけてくれたことで皆の口にも入り、無駄にもならず、結果的には色々と――まあ、色々とだ――役に立ったということか……。
彼女が切り分けくれた果物をありがたく食べながら、つらつらとそんなことを考えてみる――一応、イナゾーにも感謝しておくか。