好意と自覚(2)
イナゾーとアディーは壁際に避けてあった丸椅子をそれぞれ引き寄せて腰掛けた。ベッド際の狭いスペースに男がふたりも入ると、途端に場の密度が高くなった気がする。
平日の夕方、それもまだ早い時刻に飛行班の人間の訪問を受けるとは思っていなかった。5時を過ぎ、名目上の課業時間は終わっていたが、たとえ夜間飛行訓練が入っていなかったとしてもこんな時間に帰れることはまずない。
「今日は休みか?」
「はい。自分はアラート明けでアディーは代休です」
訊ねた俺に、イナゾーが頷いた。その横でアディーが苦笑まじりに付け加える。
「もう少し早い時間に来るつもりだったんですけど、こいつがなかなか起きてこなくて」
寝不足気味のせいか、確かにイナゾーは若干腫れぼったい目をしていた。
24時間のアラート待機に就いた後、朝8時に勤務交代で下番しても、付加業務や雑務に追われて飛行隊を出るのが昼過ぎということも珍しくはない。それからようやく睡眠を取る余裕ができる訳だが、その貴重な時間を割いてわざわざ見舞いに来てくれたことに対しては、まあ、ありがたいと思うべきか。
それにしても、アディーがここに顔を見せたのは意外に思えた。イナゾーは例外としても、隊の大方の人間は積極的に俺に関わってくることはなく、アディーもそれは同様だったのだが――恐らく、イナゾーの調子のいい勢いに飲まれて見舞いに付き合う羽目になったのだろう。
「先輩、大したものではないですけど、本や雑誌を幾つか見繕ってきました。少しでも気晴らしになれば」
「悪いな」
俺がアディーから差し出された書店の袋を受け取ると、脇でイナゾーが別の何かをゴソゴソとやり始めた。
「先輩、これ……何か旬のものがいいかと思って選んだんですけど――」
そう言いつつビニール袋から取り出したのは、大きなマスクメロンだった。それを手にしたまま、イナゾーが申し訳なさそうに俺を窺う。
「もしかして先輩、ナイフとか包丁とか、持ってないですよね……?」
俺は呆れて顔を顰めた。
「当たり前だ。突然事故して救急車で運ばれて、誰が準備よく包丁なんか持ってると思う」
「あっ、やっぱりそうですよね……」
首を竦めてイナゾーが苦笑いする。
イナゾーの奴、気が利かなすぎる。丸ごとメロンを持ってきて、ナイフもないのに一体どうやって食べろというつもりだ。
「とりあえず置いていきますから、誰かにあげるとかでも、適当にお願いします」
手に余る果物の処遇を俺に丸投げしたイナゾーは、メロンをキャビネットの上に置くと改まった態度で居ずまいを正し、一転、硬い顔つきになって俺をまじまじと見た。
「それにしても、リバー先輩から連絡貰った時にはほんとにびっくりしましたよ!」
「飲みの話、急遽取りやめになって悪かったな」
一応詫びると、イナゾーは大袈裟なほど首を横に振った。
「いやいや、そんなこと全然構いませんよ! 救急車で運ばれて集中治療室に入ったって聞いて、どんなに酷いことになったのかと気が気じゃなかったです」
眉を寄せてまくし立てるイナゾーの言葉を引き取って、アディーがごく穏やかに訊ねる。
「あとどのくらい入院しないといけないんですか?」
「このまま問題なさそうなら週明けには退院できるらしい」
「そうなんですか! 一週間程度で退院って、案外早いもんなんですね」
意外そうに声を上げたイナゾーに、「何だ、俺がもっと入院してた方がいいような口ぶりだな」と真顔で指摘してやると、イナゾーは心底慌てたそぶりで否定した。
「いやいや! そういう意味じゃないですよ、先輩! 骨を折ったりした時って、長く入院しないといけないイメージが何となくあったので……」
「肺や肋骨の怪我は、よっぽどでない限りそのまま放置で自然治癒に任せるらしいからな。俺の場合は折れて肺に刺さった骨を戻すのに手術したから、入院の日数的にはこれでも長い方なんだろ」
淡々と説明しただけだったが、折れた骨が肺に突き刺さるという状況をありありと想像したのか、二人の後輩は酷いしかめ面になった。イナゾーなどは身震いまでしていたが、「そうだ、そう言えば――」と思い出したように口を開く。
「先輩のバイクの調子を見てくれって、リバー先輩から頼まれたんです。キーを預かったので、ここに来る前にちょっと寄って触ってきました」
イナゾーの報告に、俺は思わず感嘆して唸りかけた――行き届いたさりげない配慮はさすがリバーだ。
実を言えば、愛車のことはずっと気にかかっていた。何しろ方々の店を回ってようやく探し当て、念入りにメンテナンスを施しながら大切に乗っていたバイクだ。転倒した衝撃でどれほど車体が傷んでしまっているのか気になって、自分の目で確認できないことをひたすらもどかしく思っていた。かと言ってバイクの知識のないリバーに頼む訳にもいかず、退院までの辛抱と思って我慢していたのだった。だがバイク乗りのイナゾーが見てきたというのであれば、それなりの内容が聞けるはずだ。
「エンジンをかけてみましたけど、取り立てて動きが変だとか異音がするとか、感触がおかしいとかはなかったです。ただ、カウルの側面がかなり派手に擦れて、右のウインカーは折れて取れかけてました。ミラーも内側に曲がっていましたし、マフラーには全体的に擦り傷と凹みが……。ブレーキは利き自体に問題はなさそうなんですが、ペダルの位置に若干左右差が出てる感じもあって――」
ひとつひとつの言葉に胸が痛くなるようだ――実際、傷口が疼きはじめた気がする。果たしてうまく修理できるだろうか……。
いたたまれない思いでイナゾーの報告を聞いていると、不意にカーテンの向こうから名を呼ばれた。
「須田さん、お邪魔します――」
その声にイナゾーがはたと口を噤む。黙って話を聞いていた俺とアディーも反射的に視線を向けた。
そっとカーテンが除けられ、シャツの袖をまくり上げたまま両手に大小の花瓶を持ったハルカさんが顔を覗かせた。俺のベッド脇に見舞客の姿を認めた彼女は、まごついた顔になって瞬きした。
「あっ……ごめんなさい、お客さんが――また後にしますね」
「いえ、今でも大丈夫です。すいません、ありがとうございました」
二度手間にさせては申し訳ないと、咄嗟にそう答えて手を伸ばしたものの、自分の声がひどく不愛想なものに聞こえて内心焦った。後輩たちの前ではどうしても仕事の調子に戻ってしまう。
来客に気兼ねしてか、彼女はカーテンの隙間から体半分だけ入って花瓶を渡そうとする。互いの手が届くには少し距離があった。アディーが取り次ぐそぶりを見せ、しかし、出しかけた手をなぜかすぐに戻す。
さっさと受け取ってこちらに渡せばいいものの。気が利かん奴だな――俺はアディーを一瞥して身を乗り出し、ハルカさんが差し出す小振りの花瓶を取った。一瞬だけ、自分の指が彼女の指先に触れた。不意のことではっとしたが、顔には一切出ないよう取り繕う。
彼女は俺に花瓶を渡すと、「お話し中にすみませんでした」と恐縮気味に会釈して戻っていった。
花瓶をキャビネットの上に戻しながら、彼女の指が思いのほか冷たかったことを思い出す。爪の短く切り揃えられた指先はほんのりと赤くなっていた。茎を水切りするのに使った水が冷え切っていたのかもしれない――見栄えよく整えられた木瓜の枝と紫苑の花を見やりつつ、申し訳なく思う――それでも彼女はきっと念入りに、一枝ずつ、一本ずつ丁寧に手入れを施したのだろう……。
想像を巡らせかけたところで我に返ると、同じように花に視線を向けていたアディーと目が合った。
「綺麗ですね。病院で枝物の花なんて珍しい……」
当たり障りのないコメントを述べたアディーの目には、察したような含みのある笑みが滲んでいる。状況はすっかり了解済みとでも言うような眼差しが煩わしい。
「たくさん持ってきすぎたからと言って分けてくれたんだ」
そう返してから隣のベッドの方を目で示し、「同室の人のお孫さんだ」と努めて常と変わらぬ口調で付け加えた俺に、アディーはゆったりと微笑んで「そうですか」とだけ相槌を打つ。その態度が尚のこと小癪に思えて横目で睨んでやったが、目の前の優男は意に介する様子もなく柔和な笑みを見せるだけだ。
そして、アディーとは比較にならないほど厄介なのがこの男――先程から目を剥いて俺のことを凝視しているイナゾーだ。アラート明けの眠気は一瞬で吹き飛んだらしい。驚きと好奇心を漲らせ、無性に嬉しそうだ。たった今目撃した俺と彼女とのごく短いやり取りに対して、都合のいい解釈やら行き過ぎた妄想やら、好き勝手な憶測を際限なく広げているに違いない。期待に満ち満ちた眼差しで俺を見つめたまま、今にも質問を矢継ぎ早に浴びせかけてきそうな様子で口元をもごもごさせている。
面倒なことにならないうちに俺は先手を打った。
「――で?」
「え?」
イナゾーがぽかんとして俺を見る。
「さっきの話の続きだ」
「えーと……何でしたっけ?」
容赦なく気勢を削がれて出鼻を挫かれたために、頭がすぐには切り替わらないらしい。ばつが悪そうに訊き返してきたイナゾーに、俺は溜め息をついて教えてやった。
「バイクの状態についてだったろ」
「あ、そうでした! えーと……とにかくあちこち傷がついているので、一度専門店で総点検してもらった方がいいと思います」
もっともらしい神妙な顔を作ると、イナゾーは手っ取り早く細部を端折って勝手に話を切り上げた。そしてどうにも堪え切れなくなったのか、言い終わる傍から再び口元を緩ませ、目を輝かせてニンマリと俺を見る。
俺は思わずがっくりと脱力した――まったく……イナゾーの奴め!